名    勝

       
左   京   鼻 芦辺町諸吉本村触


  
 
 延享元年(1744)吉野秀政編纂の「壱岐国続風土記」に『…棚恵
原より海中に三十三間五寸、北々東の指出たる石岬あり、其鼻に四尺の
すきあり、俗呼んで志ゃきょうのはしという。其すきよりの出はへ二ツ
にかかれり。一ツは長五間夜余、長二間余石橋の左右は断崖にして十三
間四尺余、下は渺々たる滄海たればたやすく渡るものなし』とあります。
 その後、文化10年(1813)、伊能忠敬の「壱岐測量日誌」も
「シヤキヨウ崎」とあり、更に文久元年(1861)菊池正恒編纂の
「壱岐名勝図誌」田部崎の項に「断崖に石橋あり」とし、村図の東南の
端に「シヤ京ノハシ」と地名が入っています。
 大言海も石橋の説明に「危キヲ恐レズ、彼岸ニ達シテ、始メテ普賢ノ
座ニ至ルナドニ譬ヘテ伝フ(仏教ノ理ニ因ル)。」とあり、壱岐国続風
土記は、この説明をよく描写しています。由って長くシャキヨウバナ
(石橋鼻)と呼ばれてきました。
 ところが、元禄(1688〜1703)の初め頃、旱魃が続き村人が
大いに困窮している時、陰陽師後藤左京と竜蔵寺五世日峰昌高和尚の二
人が「指出たる石岬」の上で雨請祈願をされ、その満願の日、大雨が降
り出して村人は救われたということです。
 この言い伝えは、幕末の作図という地図に「左京ノハシ」と見ること
ができます。後藤左京の左京の名をとって「サキヨウノハシ」「左京
鼻」とも呼ぶようななったものと思われます。

   



         
     芦辺町の文化財