太平洋戦争末期には、『学徒動員』が実施され、戦地・工場・基地建設
・農村等あらゆるところに駆り出されました。壱岐中も、昭和19年に三
年生以上が大村の軍需工場に動員され、残った一、二年生は大島・名烏の
砲台造りなどの奉仕作業に従事しました。
 なお、壱岐高女も同じく三年生以上は佐世保市の南の川棚に動員されま
した。

 当時の体験記を、高校同期で初代関西壱岐人会会長を務めた齋藤茂夫君
から同窓会報に寄稿してもらっていたのがありましたので、このHPに転
載します。なお、齋藤君の長兄は特攻作戦で戦死されました。

    昭和20年・私の学徒動員
   
壱岐高二回卒・石田町池田出身 齋藤茂夫 大阪在住

前書き
 本文の初出は、平成5年4月24日発行の、壱岐高校第二回卒・同窓会
会報に「大東亜戦争下の中学生活」と題して投稿した文章である。この
度、同期の山口君のホームページに掲載するため、初出文章の中から、下
記学徒動員の項目のみを抜粋した。抜粋は、若干の字句や表現の修正と、
文章構成上、新しい事項を加筆したが、全体として投稿当時の文章のまま
とした。なにぶん半世紀の前のこと、記憶違いのため、史実に欠ける点も
多々あると思う。ご指摘いただければ幸いである。 以下は、私の浅はか
な記憶のみを頼りに、思いつくまま書いたものである。

 昭和20年3月、勅令により中学校の授業は一年間停止された。従っ
て、私たち中学二年生も、授業は全面中止となり、学徒動員として鍬を
とり槌をにぎった。私達の主たる動員先は、石田・筒城浜のオートジャ
イロ基地建設、初山・当田海岸からの砂利石運搬、石田・池田の溜め池
堤防構築、志原・岳の辻の防空壕建設用の砂利石運搬、そして圧巻は渡
良・大島の砲台構築であった.ここでは、オートジャイロ基地の格納庫
建設と、大島の砲台構築について書く。

1.筒城オートジャイロ基地
 昭和19年末頃、日本付近の制空権、制海権を奪取したアメリカは、日
本近海に多数の潜水艦を遊弋させた。日本の輸送船は、格好の攻撃目標に
され、甚大な被害を被った。そこで、これらの敵潜水艦を撃滅すべく、昭
和19年末、海軍航空部隊は、筒城浜に対潜水艦攻撃基地として、オート
ジャイロ基地の建設に着手した。
 昭和19年、私たちは中学一年。非常時局であったが、学校の授業は曲
りなりに継続。私たちが、基地建設に動員されたのは、中学二年に進級す
る前の20年3月頃から。建設作業は、格納庫を掘ったり、オートジャイ
ロを格納庫まで押したり、資材の運搬などで、それほど過酷なものではな
く、むしろ楽しかったようにさえ思う。
 その頃、鹿屋・知覧・新田原などの基地からは、連日、陸・海軍特別攻
撃隊が、莞爾として生還の許されない祖国を背に勇躍発進、南冥に沈み碧
空に散った。しかし、ここ筒城浜基地は、まだ空襲もなく比較的安泰であ
った。
 私にとって、オートジャイロ基地での思い出は、基地建設作業ではな
く、将校官舎で若い士官たちに話を聞かせてもらったことである.将校
宿舎は、恩師だった故山本文夫先生の留守宅で、昭和61年3月には、
映画「波光きらめく果て」のロケ地にもなったところである。下士官、
兵たちは、それぞれ付近の民家に宿営していた。
 オートジャイロ搭乗員は、主として予備学生飛行兵科出身の予備士官で
ある。士官の多くは、早慶などの私立大学文科系出身のインテリーだっ
た。その中で天海中尉、吉田少尉の顔は今でも思い出せる。当時、将校宿
舎の周囲は村の若い娘さんたちが、若い士官たちを一目見ようと門前市を
なしていた。特にハンサムで、凛々しい飛行服姿の天海中尉は人気抜群だ
った。
 私は、時々カキモチなどを持参して将校宿舎を慰問した。士官たちは、
田舎中学のボロボロ中学生に興味をもったのか、気持ちよく訓話を聞かせ
てくれた。私は、中学の英語の教科書を持参して読んでもらったが、発音
などはとても流暢だった。また、ある時は、当番兵に散髪してもらった。
当日は寒かったので、当番兵殿は私を士官並に、冷たいバリカンを火鉢の
火で暖めてから刈ってくれた。兵隊さんの優しい一面に接して感激した。
そして、自分も将来あのような立派な士官になり、お国のために尽くした
いとの夢を抱いた。
 また、ある時は、士官たちから軍歌を教えてもらった。「航空兵の歌」
で、一番の歌詞を下記する。この軍歌は当時の中学生たちの間に流行し
た。後で知ったが、この軍歌は、陸軍航空士官学校40期生徒の作詩で
ある。陸・海軍上層部の反目が、聖戦遂行に重大な支障を来したと聞い
たが、下士官の間では、陸・海軍とも同じ軍歌を歌っていたのだろう。

 ロッキー山やアルプスの 雪の峰々見下ろして 操縦桿を操れば 
エンジンの音懐かしく 心も躍る雲の上 ああ壮なるや航空兵

 筒城浜オートジャイロ基地は、昭和20年5月頃、目的を達成したとし
て某方面へ転進して行った。そして、現在の筒城浜は長崎県下でも最大の
海水浴場として、夏季は平和を満喫している海水浴客で活況を呈している。

2.渡良・大島砲台の構築
 
昭和20年6月から、大島砲台の構築作業に動員された。作業は、船着
場の砂利堆積場から、急坂で数百m離れた丘の上の砲台構築現場まで、砂
利や砂を満載した車力を引っ張りあげるのである。純粋培養の皇国少国民
である私は、日頃鍛えた大和魂と攻撃精神で、この過酷な重労働に敢然と
挑戦した。
 作業は、約8名で1班を編成して、2本の引き綱をつけた1台の車力を
、引き綱を肩にかけ全員で引く。私たちは、他班の後塵を拝しないよう、
過酷な引っ張り競争をしながら丘の上へと駆け上がる。引き綱が肩に減り
こんで血が滲む。とにかく、力の限りがむしゃらに引っ張る。作業中、時
にはグラマンの来襲で空襲警報が発令、素早く付近の防空壕に退避。一瞬
の油断も許されず緊張の連続だ。なお、各班にはそれぞれ1日に十回以上
往復の、ノルマが命じられた.各班は、気合を入れて全力で綱を引っ張る
時に、「オイッチ ニッソラ」「オイッチ ニッソラ」と大きな掛け声を
出す。その掛け声は大島全体に響き渡る。
 この「オイッチ ニッソラ」を聞けば、砲台構築に参加した人は、当時
の過酷な作業を思い出す。と同時にほろ苦い懐旧の念に駆られる。後年、
この「オイッチ ニッソラ」の作業は、故米田尚太郎先生(中学31期)
によって、新聞に詳しく紹介された。 
 北部出身者は勝本・名烏島砲台構築にも動員された.動員の構成は、入
学したばかりの1年、私達2年、1級上の3年、それと疾病などで、大村
などの軍需工場への正式動員を免除された、4年や5年の残留組であっ
た。ただし、残留組は綱を引かず、横から大声で叱咤するだけで役に立た
ない。他にも一般の多くの男性・婦人も徴用され、別の作業をしていた。

 午前中の激しい作業が終わり、待ちに待った嬉しい昼食。麦ばかりの飯
を貪り食う。そして午後からの作業に備え、少しでも体力を回復させるべ
く松林の中でゴロリと横になる.しかし、この貴重な休憩時間を狙って、
残留上級生が下級生苛めを始める。4年T氏(中学35期)は、連帯責任
とかで、私たち数名を呼び出し、炎天下の熱い砂利の上に正座させて延々
と説教する。理由はよく分からないが、どうも生意気だということらし
い。膝は熱くて痛いし、肝心の休憩も採れない。本当に情けなく、理不尽
この上もない。しかし、上級生(上官)は絶対である.幸い私は殴られな
かったが、殴られた同級生もいる.

 しかし、私は、ある日突然殴られた。「オイッチ ニッソラ」は炎天下
の重労働。強烈に喉が渇く。しかし作業中の職場離脱は厳禁。私はどうし
ても我慢ができなかったので、作業合間の一寸の隙に、将校官舎の直ぐ横
にあった井戸の水を飲んだ。私は、渇きを癒し大いに満足して頭を上げた
直後、頭に強烈なパンチを食らった。振り向いて見ると、1級上のY氏
(中学36期)が、物凄い憤怒の形相で立っておられ、更に第2、第3の
パンチが飛んできそうな勢いである.私は直ちに直立不動の姿勢をとり、
「勝手に職場を離れ、誠に申し訳ございません。」と自分の非を詫びた。
Y氏は更に殴ろうとされたが、たまたま直ぐ近くに見習士官がおられ、
「もういいじゃないか」と助けてもらったので、それ以上は殴られなかっ
た。私は、いくら喉が渇いたとしても、命令なしで職場を離脱したことを
恥じた。若しここが戦闘場面であったら、私一人の軽率な行為のため、部
隊全体が窮地に陥ることもありうるのである。前線も銃後も程度の差こそ
あれ、全員が命がけで戦わなければならない。私は、大いに反省した。
 尚、Y先輩とは昭和45年頃までお付合いしていただいていたが、現在
は途切れている。同窓会名簿によれば、長崎市で健在と。ご多幸をいの
る。

 ノルマを遂行し、その日の作業は終わる。帰路の起点であるある郷ノ浦
の桟橋まで渡し船(機械船に曳航された団平船)で約30分弱。私たち
は、甲板に座り、心地よい潮風に吹かれながら、士気を鼓舞するために軍
歌の練習をした。好んで歌った軍歌は、野村俊夫作詩・明本京静作曲の
「ああ紅の血は燃ゆる」(学徒動員の歌)と、サトウーハチロー作詩・古
賀政男作曲の「勝利の日まで」。「ああ紅の血は燃ゆる」は私たち学徒の
胸の中を描いたもので、使命感と悲壮感を盛り込んだ旋律である。私は、
この旋律に深い感銘を受けて好んで歌った。大方の昭和ヒトケタには、忘
れ得ぬ青春歌である。その歌詞の1番を下記する。歌は、全部で4番まで
ある。

 花もつぼみも若桜 五尺の命引っさげて 国の大事に殉ずるは 我等学
徒の面目ぞ ああ紅の血は燃ゆる

 私は、今でも軍歌が好きである。「ああ紅の血は燃ゆる」、「勝利の日
まで」の軍歌は、現在でもカラオケなどでよく歌う。

 郷ノ浦の桟橋に着いてから、石田・池田の家まで約7キロを歩いて帰
る。疲労困憊は極度に達する。帰路途中、志原・大曲辺りまでくると激し
い睡魔に襲われるが必死に耐える。道端で眠ってしまった同級生もいた。
その上、草深い田舎の夜道、素足に藁草履の私は蝮の襲撃も怖かった。幸
い蝮に食われたことはなかった。

 私は、平成4年8月17日、戦後初めて大島を訪ねた。当日は、大島で
共に苦労した同郷の大久保孝人君と同行した。戦後47年を経た大島の様
相は激変していた。しかし、船着場近くの兵舎跡、将校宿舎跡、丘の上の
第一砲台跡、第二砲台跡辺りには、昔日の面影が残っていた。第三砲台
跡、第四砲台跡はブッシュに阻まれて近づけない。私たちは、ベトンで円
筒状に固められた第一砲台跡の台座に座り、持参のビールで乾杯した。そ
して、暫し往時を偲び、感傷的になった。砲台跡付近の草むらには、牛が
数頭のんびり草を食んでいた。また、船着場跡辺りには鮑の養殖場があっ
た。

 帰路の渡海船三島丸のお客は少なく10名ばかり。潮焼けしたおじさ
ん、おばさん、そして小学生のグループ。おばさん達は、私たちを歓迎
すべからざる者と見たのか、警戒の目でジロジロとこちらを見ている.
私たちは、キャビンを出て、デッキに上がった。そこには、47年前の
中学生時代と同じ海があった。私たちは海をじっと見つめているうち
に、次第に胸の高鳴りを覚え、やがて軍歌を口ずさむ。声は次第に大き
くなるが、エンジン音で半ば消される。軍歌は勿論「ああ紅の血は燃ゆ
る」。歌っているうちに、涙が双頬を流れ落ちた。

 平成11年4月17日、再度大島を訪ねた。以前、渋村寛郷ノ浦町長
(中32期・海兵67期)から、長島・大島間に大橋が完成したと聞いて
いた。大橋の名称は失念。渡海船三島丸を長島で捨て、歩いて大橋を渡
り、大島側に行った。大橋は思ったより重厚で規模大。この大橋の大島側
取り付け道路の直ぐ下辺りに、「オイッチ ニッソラ」時代の、船着場、
兵舎、将校宿舎などがあった。しかし、平成4年に確認されたこれらの場
所は、今回は殆ど確認できなかった。大橋工事などの影響と思われるが、
時代の趨勢とはいえ残念である。なお、第一砲台跡、第二砲台跡は今日も
健在で、相変わらず牛が草を食んでいた。





 
当初、猿岩と黒崎砲台のみを紹介しょうと思っていましたが、「猿岩〜
黒崎砲台〜学徒動員」と掲載内容も、太平洋戦争時のことになってきまし
た。私たちは、戦中〜戦後、軍国主義〜民主主義、戦争〜平和への大転換
期、大激変期に小学生〜高校生時代を送りました。
 今回、斎藤君に続いて、同期の坂江君が当時の紹介文を寄稿してくれま
した。坂江君は初代壱岐高東京同窓会長を務めました。

  戦中戦後の壱岐中・壱岐高時代を顧みて
      悲喜劇アラカルト

  壱岐高第二回卒 芦辺町湯岳出身 坂江博見 東京在住

憧れの壱岐中入学
 
私達が長崎県立壱岐中学に入学したのは、太平洋戦争の末期を控え、一
段と戦争が激化していく昭和19年4月であった。当時壱岐は十二ヶ町村
(町は武生水
むしょうずと勝本)で、私は湯岳に居住していた関係で那賀村
の那賀小学校の六年生から受験した。合格して進学できたのは、六年生か
らは68名のうち、男女各5名であった。
 壱岐中、壱岐高女の定員が各100名で、郡内全体の同学年の児童数に
比して、入学できる生徒数は極端に少なかった。又、各小学校には高等科
(二年制)があり、これからの進学もあり、年齢差が混在する学年が形成
されていた。
 当時の家庭は一般に、現在ほぼ全員の生徒が高校に進学できるように裕
福ではなかった。
 米は供出といって、強制的に安く国に買い上げられ、また、生活費を得
るために販売しなければならず、農村の人達は芋、イワシ、サザ(サン
マ)と麦飯が常食であった。我が家も同様な状態だった。
 武生水や勝本等の商業漁業地区では高額所得者が多く、私達農村部の者
とは、それこそ、月とスッポンの落差がある生活様式で、壱岐中学への入
学者も多く、全体の三〜四割以上を占めていた。
 戦中と謂えども、合格できた喜びは一入で、中学ではあるが、一応壱岐
の最高学府への入学と周囲の人々に持て囃されて、コソバイイ気がしなが
らも悪い気がする筈もなく、嬉しかった記憶が五十数年経過した今日でも
昨日のことのように甦って来る。

母の薫陶
 私は母子家庭で育った。母は昼夜を問わず魚類や駄菓子を売ったり、あ
る時期には私や兄姉を父方母方の実家、即ち、叔父宅に夫々預け、付き添
い看護のための派出婦(家政婦)や土方などをしながら、時には壱岐を離
れて九州本土まで出かけ、女手一つで厭な顔など見せることなく中学に入
学できるように育ててくれた。私の中学入学は、働きに働いた母の血と汗
の結晶と思っている。
 小学校三年しか出ていない母にとって、教育の要諦が何であるか、身を
持って感じとっていたに違いない。文盲の苦しさ、悲しさを事ある毎に切
々として話してくれた今は亡き母に感謝している。

軍国主義教育
 かくして入学できた同期百余名は、服装は一変し、先ず、ズボンの両側
のポケットには手を入れてはならぬという鉄則(校則)により固く縫いつ
けた。そして、白い砂よけ付きの巻き脚半
きゃはん(ゲートルともいっ
た。)を巻き、五つボタンの詰襟の白いカラー付きの学生服に二本の白線
を巻いた帽子(私達の二級上からは戦闘帽)を着用し、通学することが義
務付けられていた。このように軍国主義教育がなされていたが、戦時下で
あり、みんな当然のこととして捉えていた。
 原則は、制服制帽で規定の被服など着用していたが、段々時局が逼迫す
るにつれ、全て品不足となり、統一した服装にすることは無理で、まして
や、日常品も配給されるような状態にあり、古着やあちこちミシンなどで
縫い繕ったものを着用していた。それこそ、「弊衣破帽」のスタイルで皆
全く気にしていなかった。
 月謝は四円五十銭だった。勝本、箱崎方面の三里以上の者は入寮(玄海
寮)するか、郷ノ浦の町の親戚縁者宅に下宿ができた。その他は自転車か
徒歩通学をしていたが、自転車も手に入らなくなり、私達の同期は徒歩通
学がほとんどで、通学距離が10キロぐらいの者も徒歩だつた。
 学校生活は軍国主義教育を徹底させるため、軍隊の生活様式が採り入れ
られ、学校に到着するまでも緊張の連続だった。徒歩通学途上、上級生に
出会うと相手の目を見つめながら、「挙手の礼」(軍隊式に右の掌を顔の
横に挙げる)をした。
 二人以上出会うと隊列をつくり、上級生が指揮を取るようになってい
て、路上で兵隊の下士官か将校に会うと、『歩調を取れー、頭
(かしら)
右!』と号令をかけ、全員が足膝を直角になるように挙げて歩調をとり、
相手の目を注視し、『直れ!』の号令で通常の歩行に復帰する。
 学校に到着すると、校門の所に当番(五年生で、軍隊の衛兵のように銃
を持ち、着剣している。)がいて、これにも挨拶しなければならなかっ
た。当番は服装違反などを注意する権限があったが、中には下級生いじめ
と思われるようなこともあった。
 校門を通ると、次は奉安殿(天皇・皇后の写真がおさめてある神殿)の
前に整列して、ここでも指揮者が『奉安殿に対し、カシラー・ナカ
(中)』と号令をかけ、『直れ、解散!』か、一人の時は最敬礼をして教
室に向かうのが常であった。

上級生の忠告・鉄拳制裁
 忠告とは上級生が下級生に対し、生活態度や服装などが乱れた場合な
どに、注意することである。このような正しい忠告ばかりではなかった。
ワルがかった上級生の中には、忠告と称し、休み時間や下校時に講堂裏や
奥の細道といわれる校舎裏の細道と呼ばれる薄暗い所、または、通学路の
側の入りこんだ所などに連れて行き、上級生に向かっての挨拶の際、挙手
の礼が悪いなどと注意するのである。
 「手の挙げ方がナッチョラン、手の平の見せ過ぎ!上級生をナメチョル
とか?○○と××、前に出ろ!今から忠告する!」と、宣言するや否や目
にも止まらぬ早さで往復ビンタを数発食らった。私など、特に悪い事はし
ていないのに、背が高いというだけで、上級生を見下ろして生意気だ、と
言って何回殴られたことであろうか。背の高い同期生は、同じような苦痛
を味わっている。
 中に、乱暴な上級生は、殴った後、許してやるからと言って、固い道路
の上で相撲を取ろうと言っては投げ飛ばされた。このような理不尽が平気
で通っていた。
 このような上級生による「忠告」なるものは、恐らく、全国の旧制中学
校で行なわれていたものと思う。これも男子のみが在学し、軍隊の上官の
命令には絶対に従わねばならぬという鉄則を模した軍国主義教育の当然の
帰結といえる。
 しかし、全ての上級生が、このようなタイプというわけではなく、この
ようなことに超然として学習一本槍で頑張っておられた人も多かった。私
達は、このような人を「聖人」とよんでいた。中には、殴ろうとしている
上級生の側に来て,「がまんせんな。言うち、聞かせんな。」と宥めたり
してくれる「大人
たいじん」がおられ、お陰で難を逃れたこともあった。こ
のような人は、今でも忘れる事はできないし、同期会で消息を尋ねたりす
る事がある。  
 上級生の卒業式の日に、復讐を遂げたというものがいたが、これには組
しなかった。それより、先輩「大人」の勇気ある態度に対する感謝と憧れ
の気持ちが強く、自分たちも最上級生になったら、このような悪弊の連鎖
を断ち切ろうと同期の同志達と誓いあった。
 戦後になり、五年生時男女共学の新制高校となり、男子校の殺伐さが薄
れたからとはいえ、私達が高校三年生の時に暴力を払拭し、むしろ、後輩
達と仲のよい学園を作り上げたのは、私達が誓いを忘れず、「聖人」には
程遠いが、「大人」を実践したからだと同期生と語り草にしている。

 昨今、「いじめ」による金銭物品の強奪、傷害、殺害、登校拒否、自殺
などが社会問題になっているが、昔の「忠告」で殴られ、頬が脹れたりす
ることはあったが、怪我をすることはなかった。それは、物を持って殴る
ようなことはなかったからだ。ましてや、金銭・物品を強要するようなこ
とは皆無であった。
 教師も、これを伝統として捉えていたのか、問題にすることはかった
し、親に訴えたりする者はなかったのではないかと思う。下級生は、これ
らの恐怖?に耐え、登校拒否をした者も絶対なかった。
 同級生同士は、大変、仲がよく団結心が強く、いじめはなかった。

 なお、教練の教官以外の一般の先生で生徒を殴るような人は、居られな
かった。中学入学から高校三年まで、生徒の殴られている情景を目にした
ことはない。その理由のひとつに、当時授業中に私語をすることに罪悪感
があり、生徒の授業態度のよさがあると思う。

軍事教練、柔道・剣道
 体育の授業以外に、強い軍人づくりの一環として、教練・柔剣道があ
り、全国全ての中学校に将校と補佐役の伍長以上の教官が配置され、壱
岐中には、壱岐要塞司令部のK中尉が配属されていた。軍から派遣され
ているので、校長の権限外だったと思う。柔道の講師は現役の警察官、
剣道は警視庁警察官のOBだった。
 柔剣道は冬になると心身の鍛練ということで寒稽古があり、寒気厳しい
早朝の真っ暗な道を明かりなしで学校へ急いだ。遠方の者は、一時頃起き
て来たということだった。学校に着くとパンツ一枚になり、あとは稽古着
のみを身につけるのだが、着替える時の寒さは今でも忘れられない。後は
大体、3時間ぐらい先輩を相手にしごかれた。ワルの先輩は、竹刀の中に
芯を入れたりするので、そんな先輩と当たったら災難だった。寒稽古は最
終日に試合があって終了した。
 教練は、徹底して指導された。返事の仕方、気を付けの姿勢、擧手の
礼、行進など、毎時間、反復指導された。特に、集団での行進・駆け足な
ど徹底してしごかれたといっていい。また、軍人勅諭を憶え、暗誦させら
れた。三年生からは、兵隊と同様に銃や剣を身につけ、操作を習った。時
には、背嚢を背負ったいた。この教練の成績が進学の合否に関係するとも
聞いた。
 なお、毎年学年末になると、教練の成果・習熟度を調べるため「査閲」
が行われるようになっており、一年の三学期に、軍(壱岐では要塞司令
部)から査閲官(将校)が来校して行われた。その日は、寒波が到来し、
雪が舞い、運動場で直立不動の姿勢で立っていなければならず、大変辛か
った。特に、寒さで指がまっすぐ伸びなくなり、注意されるのではないか
と気懸りだったが、質問もされずに査閲官が前を通り過ぎて行き、ほっと
した。査閲は、思ったより、簡単に終わった。恐らく、寒かったので、査
閲官も早く引き揚げたにちがいない。

軍人への進路
 
当時は、明治維新からの富国強兵の政策が教育現場にも浸透しており、
陸軍士官学校・海軍兵学校・海軍飛行予科練習生(予科練)などに進み、
軍人になる先輩を多く見送った。
 郷ノ浦港から見送った先輩達が船縁から身を乗り出して、大声を出し、
別れを告げていた姿が今でも目に浮かぶ。


  
予科練入隊(五年生)壮行記念写真 (那賀地区出身者・昭和19年)

一般教科の授業
 国語、漢文、日本史、西洋史、東洋史、代数、幾何、物理、化学、生
物、英語、図画、音楽などで、図画、音楽は国語と生物の先生が担当さ
れていた。各先生とも、個性があり、中学に入って学習に取り組む素地
を自然と植えこまれた。定期テスト後には、成績順位もついたし、落第
もあったので、自然と真剣に学習する雰囲気ができていた。
 特に、私達徒歩通学生にとって、登下校途上が学習の場となっていた。
当時は、車の通行は、ほとんどなかったので、道路の真中を本を見ながら
歩いても危険な事はなかったので、英語の単語などの暗記に利用してい
た。上級生の中には、数学の計算問題をノートに解きながら普通に歩いて
行く人がいて驚かされた。このような学習に真剣に取り組む先輩の姿を見
て、小学生時代は遊びが中心だった新入生も、赤尾の英語の豆単語集など
を手始めに、自分に合った参考書などを求めて「自学自習」の習慣が身に
ついて行った。

授業中断、学徒動員へ
 
戦局が激化してくると、「一億一心」「欲しがりません、勝つまで
は!」などの標語などの下、「総力戦」ということで、人的物的資源を全
て戦争遂行に投入することになった。家庭の鍋釜などの金属類からお寺の
鐘などまで供出させられた。また、中学生以上は「学徒動員令」が出さ
れ、軍需工場・軍事施設の設営や兵隊へ駆り出された。
 私達も一年後半になると、三年生以上は大村の海軍工廠に動員され、残
った二年生と共に郡内各地の軍事施設の構築作業に行った。
 主だったものは、筒城のオートジャイロ基地、渡良大島・勝本名烏島の
砲台、岳の辻の防空壕、初山当田浜のバラス運びなどであった。
 朝は元気でも、帰りは徒歩で長い距離を帰らねばならず、作業も苦しか
ったが、家に辿りつくのも難行苦行というものだった。

耐乏生活
 昭和16年12月8日から太平洋戦争が開始され、既に中国との戦争は
続いていたので物不足は始まっていたが、この傾向に拍車がかかった。
 衣食住全てが不足し、私達が通学する時に必要な靴が店には一足も売っ
てなく、買うことができなくなった。入学した時に帽子とカーキ色の服は
配給されたが、靴はなかった。そこで、作業用の地下足袋を履く者もい
た。その頃、活躍したのが草履である。草履は天気のいい日にはよいけれ
ど、雨降りには困った。そこで、草履は履かず、裸足で歩いた。当時はア
ファルト道路は無く、全て砂利道だったので歩くのに苦労した。(これ
は、後日談だが、アメリカ軍が来て、日本には道路予定地はあるけれど、
道路は無いと言ったと英語の先生が話していた。)店には菓子一つも売っ
てなく、珍しく自家製の豆腐だけを売ってあるのを見つけたので、友人と
買って食べたことがあったことは忘れられない。国を挙げて戦争を始める
と、いかに、国が疲弊し、国民生活を圧迫するかを如実に体験した。

空襲続発(B29撃墜)
 昭和19年後半から終戦にかけて、空襲の恐怖に曝されるようになっ
た。中国大陸から北九州方面に空爆に向かうB29爆撃機が壱岐の上空を
高度を上げ、ジュラルミンの機体を輝かせながら、悠々と編隊を組みなが
ら東の空へ飛行し、数刻経つと、爆撃を終えたB29が何の抵抗も無く西
の空に飛行機雲を残して飛び去って行くのを切歯扼腕というより、呆然と
した気持ちで見ていた。
 しかし、昭和19年8月20日は違っていた。夕方六時ごろ、陸軍の隼
戦闘機に攻撃されたB29が焔と黒煙を吐き出しながら、初山の山中に墜
落炎上した。物凄い爆発音と紅蓮の焔が立ち上り、付近の山林を焼き尽く
した。乗務員はいち早く落下傘で脱出したが、捕虜として捕らえられた。
 「アメリカ兵は釣竿を持って脱出し、『アメリカ軍が必ず迎えに来るか
ら、それまで釣をして待っていろ』と命令されている。」というような話
を聞いたり、学校から引率されて墜落現場で、機体の大きさ・装備の充実
度を目の当りにして、アメリカの物の豊富さ・科学力の高さ・戦力をひし
ひしと感じたものだった。
 昭和20年になり、沖縄が連合軍に占領されると小型機のグラマン戦闘
機などが飛んでくるようになり、作業中や道を歩いている時などに急に目
の前の山陰から轟音と共に低空で現れたりするようなことがあり、慌てふ
ためいて近くの側溝や窪みに走り込み、機銃掃射を避けるために身を隠し
たりした。

原爆、敗戦
 昭和20年8月6日、広島に原爆が投下された。当時は報道管制が布か
れ、広島の人達が灼熱と放射能の地獄の苦しみに遭っていることを知る由
も無かった。翌日だったか、配属将校が銃器庫の裏に私達を集め、広島に
特殊爆弾が落されたことなどを話されたが、実態は配属将校自身もよく掴
めていなかったのではと思う。
 次に9日長崎へ原爆投下、15日ポッダム宣言受諾・無条件降伏となった。
 壱岐でも、連合軍に対する恐怖からデマが飛び、兵隊は勿論、一般人も
混乱状態になったが、進駐軍(アメリカ軍が主)が思っていたより紳士的
だったので、平静をとり戻した。


  
那賀地区出身壱岐中生(1年〜5年生・最後の旧制中学生・昭和21年)

民主教育・男女共学へ
 先ず,教科書の中の軍国主義的な部分を墨で塗りつぶす作業が始まっ
た。本土や海外から引き揚げてきた生徒が転入してきて、50名の教室が70
名余りに膨れ上がった。クラスは依然として二クラスだったので、教室は
机で満杯になり移動が困難なので机の上を歩いたりした。三、四年生にな
ると都市部へ転出して行く者も出てきたが、そのまま、壱岐に定住する者
が大半だったので、すし詰め状態は変らなかった。。
 昭和23年壱岐中と壱岐高女は合併し、壱岐高等学校として新しいスタ
ートをきった。
 戦後いち早く対馬高校と対抗試合を開始し、友好親善の実を挙げたりし
た。はからずも私も、陸上の百、二百の選手として参加した。


  
「高校三年生」の仲間達

優秀で情熱的な先生達に導かれて
 当時、職が無く郡外出身の優秀な先生も赴任して来られ、後に、大学や
高専の教授になられた方も何人かおられた。また、大学出立ての若い先生
も非常に情熱的で生徒の心を燃え立たせるような魅力的な人が多く、ある
先生などは私達が理解出来ないでいると、終業の鐘の合図にお構いなし
に、「これでも、わからんとか!」と言って、黒板にチョークをコツコツ
打ちつけて説明され、勢い余ってチョークがポキポキ折れたりすることも
あった。このように私達の学力向上に没頭していただいた先生方と生徒達
の間には強い信頼の絆ができていた。このような先生の中で大変申し訳が
ないのは、校歌「マイン河畔に…」を作詩された吉田先生や山本先生に対
してである。国語の授業では、先生の熱心で、含蓄ある講義に引きつけら
れていたが、壱岐中校歌「玄海万里…」に馴染んでいた私たちは受け付け
ず、歌わなかったような記憶がある。現在、新しい校歌を後輩達が声高ら
かに歌っている場に接したりする時、何時も二人の先生への感慨が湧くの
を禁じえない。
 このような先生から熱心に指導を受け、また、転入生の中に優秀な生徒
もいて大変刺激になり、学年全体に今までの学習不足をとりもどそうとい
う雰囲気が漲り、切磋琢磨して頑張った。結果として、進学率、就職率も
高かった。

 壱岐高校も、紆余曲折があったとはいえ、九十年の栄誉ある歴史を刻
み、同窓生が各地各界で大いなる寄与貢献をされていることに敬意を表す
るとともに欣快にたえない。
 今後とも、壱岐が生んだ世界の電気王松永安左衛門翁を範とし、世人に
慕われ、信頼を得る公平無私の傑出した人物の輩出を願って止まない。