太平洋戦争末期には、『
学徒動員』が実施され、戦地・工場・基地建設昭和20年・私の学徒動員
前書き
本文の初出は、平成5年4月24日発行の、壱岐高校第二回卒・同窓会
会報に「大東亜戦争下の中学生活」と題して投稿した文章である。この
度、同期の山口君のホームページに掲載するため、初出文章の中から、下
記学徒動員の項目のみを抜粋した。抜粋は、若干の字句や表現の修正と、
文章構成上、新しい事項を加筆したが、全体として投稿当時の文章のまま
とした。なにぶん半世紀の前のこと、記憶違いのため、史実に欠ける点も
多々あると思う。ご指摘いただければ幸いである。 以下は、私の浅はか
な記憶のみを頼りに、思いつくまま書いたものである。
昭和20年3月、勅令により中学校の授業は一年間停止された。従っ
て、私たち中学二年生も、授業は全面中止となり、学徒動員として鍬を
とり槌をにぎった。私達の主たる動員先は、石田・筒城浜のオートジャ
イロ基地建設、初山・当田海岸からの砂利石運搬、石田・池田の溜め池
堤防構築、志原・岳の辻の防空壕建設用の砂利石運搬、そして圧巻は渡
良・大島の砲台構築であった.ここでは、オートジャイロ基地の格納庫
建設と、大島の砲台構築について書く。
帰路の渡海船三島丸のお客は少なく10名ばかり。潮焼けしたおじさ
ん、おばさん、そして小学生のグループ。おばさん達は、私たちを歓迎
すべからざる者と見たのか、警戒の目でジロジロとこちらを見ている.
私たちは、キャビンを出て、デッキに上がった。そこには、47年前の
中学生時代と同じ海があった。私たちは海をじっと見つめているうち
に、次第に胸の高鳴りを覚え、やがて軍歌を口ずさむ。声は次第に大き
くなるが、エンジン音で半ば消される。軍歌は勿論「ああ紅の血は燃ゆ
る」。歌っているうちに、涙が双頬を流れ落ちた。
平成11年4月17日、再度大島を訪ねた。以前、渋村寛郷ノ浦町長
(中32期・海兵67期)から、長島・大島間に大橋が完成したと聞いて
いた。大橋の名称は失念。渡海船三島丸を長島で捨て、歩いて大橋を渡
り、大島側に行った。大橋は思ったより重厚で規模大。この大橋の大島側
取り付け道路の直ぐ下辺りに、「オイッチ ニッソラ」時代の、船着場、
兵舎、将校宿舎などがあった。しかし、平成4年に確認されたこれらの場
所は、今回は殆ど確認できなかった。大橋工事などの影響と思われるが、
時代の趨勢とはいえ残念である。なお、第一砲台跡、第二砲台跡は今日も
健在で、相変わらず牛が草を食んでいた。
戦中戦後の壱岐中・壱岐高時代を顧みて
軍事教練、柔道・剣道
一般教科の授業