壱岐の寺院・2


        
国 分 寺 跡
      
(芦辺町国分本村触)
 
 図誌の遠景(江戸時代)によると、小さい建物二棟の阿弥陀寺があ
りますが、現在、建物はありません。



  
 壱岐氏の氏寺居館
(天満宮の所在地に建っていた)直ぐ側に建てられてい
ました。

 741年、聖武天皇は全国に「国分寺・国分尼寺」の建立を命じられ
ました。 寺の正式な名称は
、「金光明 四天王 太平護国山 国分寺
といい、天皇の意図が読み取れます。

 〔壱岐島直氏寺、為嶋分寺、置僧五口〕

 壱岐では、2年後の
743年に、「壱岐直(あたい)の氏寺を嶋分寺
(とうぶんじ)となす。僧五口を置く。」と延喜式に記載されていますの
で、国分寺は新しく造らないで、壱岐氏の氏寺を転用して、僧侶は5人
配置されています。
 初めは、嶋分寺でしたが、壱岐国となった後、国分寺と呼ばれるよう
なりました。国分寺には、普通、僧寺と尼寺が存在しますが、壱岐では
尼寺はなかったようです。

 
上の写真は、国分寺跡で、昭和52年に司馬遼太郎氏が取材に来られた
頃は、草も伸び放題だったと思われます。
 氏の「街道をゆく」のなかには、「国道から少し歩いて、国分寺跡と
される野へ行った。途中、壱岐牛のための牧草の畑があった。そのむこ
うにわずかな芝地があってそこが寺跡らしいが、べつになにも遺ってい
ない。」と書いてあります。


 
国道ではなく、県道です。

 氏が訪れた頃とちがい、説明板もあります。その横の方に石が5,6個
あるのが見えますが、径が50〜60cmで上部が平面に削られています。
これが
礎石です。
 往時は、これくらいの数では、なかったでしょうから、相当数、あち
こちに散逸しています。

 中央に見えるのが、石の仏像です。移転跡には小さい阿弥陀堂を建て
たということですから、その当時の名残りものかもしれません。
 文字は見えませんが、相当古びています。

 
石像の左後方に石が積んであるのが見えますが、数は20個ぐらいです。
これは隣接してつくられた
殉国者慰霊碑の台石として使われていたもの
を改築の際、ここに運んだものです。この中にも国分寺の建築に使われ
ていた礎石などがあるのではないでしょうか。

 なお、天満宮の記念碑の台石にも礎石が使われていると言う人もいま
す。

 あと、目に付くものは、説明板の左方に
古井戸があり、大きなコンク
リートの蓋がしてあります。井戸は、水神様が祭られていますので、一
般に使用しなくなっても埋めずに遺しておくという風習があります。

 ここの発掘調査は、司馬氏が訪れた10年後の昭和62、63年と平
成元年
より、芦辺町教委と県文化課によって行われました。
 その結果、寺域の確認と瓦片、土器片、柱穴を発見しました。
 
は、九州各地の寺院に大宰府様式の瓦が多く使用されているなかで、
壱岐だけが
平城京の第一期造営に使用されたものと同じ軒丸瓦軒平瓦
が出土しています。
 これは、壱岐氏と中央との繋がりが強く、技術指導を受けたものと思
われます。

  

 司馬氏は、「国道にもどると、小さなよろず屋が道端にある。・・
豆腐を売っていることを知った。・・念のために写真を撮った。いまこ
の稿を書きながらながめると、質感がチーズのようで、ひどく
固そうで
ある。」と、壱岐の豆腐に触発されて、豆腐談義を載せられています。

 この「よろずや」は、
百田鮮魚店で他の食料も取り扱っておられ、当
時と変らぬ豆腐を売っておられるようです。

 知人と何が壱岐の土産に良いか、ということを話し合ったことがあり
ますが、知人は博多の親戚に行く時は、豆腐を持って行くと言い、私に
も勧めてくれました。

 
山口明博(勝本町百合畑触出身・四日市市在住)さんより、メールが
来ました。
 「昔、
佐藤勝也長崎県知事がお見えになった時、『何で壱岐の豆腐は、
こんなに固いんですかね』と言われたとか。
司馬氏も同じ感慨だったん
ですかね。ぼくらは、あの固さがおいしいですけどね。作り立ての熱いの
は、なんとんいえんです。油揚げにしてもおいしい。法事土産の油ゲを甘
辛く煮しめたものも、また、なんとんいえんです。」

 

         
現 在 の 国 分 寺
        
(臨済宗大徳寺派芦辺町中野郷西触



 現在の国分寺は、郡城跡より当方約100mの所にあります。
 西の方から、国分寺跡(殉国者慰霊碑)〜国片主神社(居館)〜
郡城跡〜現在の国分寺とほぼ直線上に等間隔で並んでいます。

 位置が山間に囲まれた窪地になっていて、判りにくいところになって
います。外敵からすぐ発見されないような場所を選んだのでしょうか。

 元文三年(1738年)、ここに移転しています。

 沿革を見ますと、法相宗〜天台宗〜真言宗〜禅宗五山派〜
臨済宗(禅
宗)大徳寺派となり、現在に至っています。(那賀郷土史・大正七年)


 同じ派の寺は、観音寺・東光寺・高源寺・定光寺・安国寺・西福寺・
寿慶院・竜峰院・伝記寺の九寺があります。
 仏教会に属している他の宗派は、
曹洞宗(禅宗)永平寺派の十七寺、
真言宗五寺、日蓮宗二寺、浄土宗一寺があります。

 国分寺の文化財の一つに、
木造弘法大師坐像があります。この像は、
秘伝とされ、60年に一度開帳されて、信者が礼拝してきたものだとい
うことです。
 像底に、大永八年(1528年)の年号と共に「大進作、同孫拝興、
佛所藤次郎、願主雄肝」と墨書銘があり、製作者及び修理者とその年次
の分かる貴重な作品です。材料は檜の寄木造りで像高は約40cmです。


       
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