壱岐の寺院・3
平氏祈願の寺院
平氏は特に近畿、西国に多くの荘園等を持ち、一族が分布していまし
た。壱岐には、保元(1156〜1159)のころから、平氏の一族が国守とし
て在住・統治しています。そして、お堂を建立しました。
『壱岐郷土史』(大正6・後藤正足著)は「七堂伽藍」を次のように
説明しています。
『高倉天皇治承四年(1180)長徳寺を建立す。
按ずるに長徳寺は小松内大臣平重盛建立七伽藍の一にして、重盛の
菩提寺なり。当時平家全盛の頃なれば近畿並びに全国に普遍せる荘園等
にその一族の分布するもの多く、従って寺院の建立を各地に見しも亦当
然ならん。同寺には天正拾壱年(1583)二月松浦隆信・日高喜の経営に
係る棟札を存するに徴すれば、古来由緒の存せしを知るべきなり。(吉
野文書)』
なお、他の章で『七堂伽藍とは観音寺・定光寺・長徳寺・円福寺・覚
音寺・長栄寺・妙泉寺を云う。』とあります。
この中で現存するものは、観音寺・定光寺・長徳寺・長栄寺で、円福
寺(芦辺町国分当田・現在もお堂が存在し、近くの人達が祀っています。)は観音寺
へ、覚音寺(勝本町立石西・苅田院川側)は観世音寺へ、妙泉寺(芦辺
町諸吉・瀧上)は国分寺に合併されました。
平清盛は、娘徳子を宮中に入れ、位人臣を極め、横暴限りなしという
処世態度だつたそうですが、長男の重盛は父と違い、至誠の人であり、
父に諌言したりしました。
重盛は人望厚く、深く仏教に帰依していましたので、重盛や平氏に縁
のある寺院が、「七堂伽藍」といわれているのだと思います。
治承3年(1179)重盛は42歳で病没し、養和元年(1181)清盛が64歳
で他界しました。
文治元年(1185)壇ノ浦の戦いに敗れて一門は滅亡し、西国に散って
行きました。
壱岐・対馬はよい逃避場所だったに違いありません。重盛・平氏一門
を偲び、又、平家の再興を祈願した者もいたと思います。最初は小さい
お堂だったのでしょうが、次第に大きくなって伽藍といわれるようにな
つたのではないでしょうか。
壱岐の寺院(トップ)