壱岐の寺院・4

   老松山 安 国 寺
  
臨済宗 大徳寺派・芦辺町深江栄触、原の辻展示館より徒歩五分

 
大浦宏道兼務住職(寿慶院住職)のお許しを得て、本寺発行のパンフ
レット『
老松山 安国寺の今昔』『安国寺宝物展示館』より、一部転
載・引用します。

 
『安国寺は南に四百町歩の沃野を有し、はるかに石田、志原の連山がよ
こたわり、幡鉾川の流れは西から東へ悠久の太古よりつきなく、二千年余
年前の弥生式文化は高原一帯の台地に栄え、田原山の山麓に約一万坪の山
間を利用して建立された。名実共に老松千古に鬱蒼として緑をたたえ、池
の水は後方の大池より林間渓谷を流れて心字の池に注ぎ、真に老松雲閑の
禅寺であった。
 特にその境内に建てられた伽藍は、中国の禅寺に模して南から総門、山
門、仏殿、御成門、庫裏客殿と適当な間隔をおいて階段的に石垣を築いて
配置され、その周囲には一華五葉の禅語によって一華庵、福西庵、宝持庵
忍松庵、寿徳院の五塔頭があった。尚国守参詣の折は、国中より伺候の諸
武士が多く、門前町として隆盛を極めていたが、幕末、明治と世の盛衰と
共に宗教の消長も著しく、現在の無一物の寺に転落した。歴史と共に生き
て来た巨木大杉も感慨無量なるものがあろう。』

壱岐名勝図誌(江戸時代末)の「巻之七 深江村之部」に老松山安国
海印禅寺として載っており、説明は詳しく絵図(老松山遠景 境内眺望図
 建物全図
 客殿眺望大槙萬年藤)と共に、この部の半ばを占めています。
 絵図は、上記説明を如実に表しており、その規模は現状に比べ、広大だ
ったことが分かります。



安国寺の起源・時代背景
 平安時代の末期、貴族の政治はふるわず、鎌倉幕府の力も衰微して行く
にしたがい、中央の政権争いも激化し、北条氏の幕府滅亡
(1333)後、後醍
醐天皇を中心として朝廷側に政権を奪還した「建武の中興」
(1334〜95)
束の間に終わり、天皇の座の正統性を争う「南北朝時代」
(1336〜92)とな
りました。
(延元元年・1336・足利尊氏は神器を光明院に渡すよう後醍醐天皇に強願したので、
天皇は京都を離れ吉野に移られたので、尊氏は京都に光明天皇を立てた。この後、京都と吉野の朝
廷の対立の時代に入りました。)
 
 この頃、各地に武将たちが輩出し、それぞれ、南朝・北朝に分かれ、戦
乱の世が続き、産業は振るわず、生活は苦しく、人々の心は荒れすさび、
平安」という名に反し、実際は京の都をはじめ、悪党横行する「地獄」
絵図のような世界が展開されていた所もありました。
 北朝を支持した
足利尊氏は、新田義貞、楠正成を討ち、天下の統率に成
功し、暦応元年
(1338)征夷大将軍となり、室町幕府を興しました。
 そして、この年全国六十六カ国と二島に、
安国寺の建立を命じました。
 建立の動機は、後醍醐天皇の冥福を祈念し、元弘の乱
(1331年後醍醐天皇が倒
幕の兵を笠置山に挙げ、32年隠岐に配流され、33年北条鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に帰られる
までの各地での戦乱)
以来の戦没者の霊を慰め、あわせて往時の国分寺建立の趣
旨に倣って、足利氏の天下統一の威信と抱負を誇示して人心を按撫し、土
地領有の標章とし、また軍略上の要地としようとする意図も有したともさ
れています。
 壱岐安国寺は、すでにあった海印寺
かいいんじを当てられたものです。
 開山は、法雲普済禅師
ほううんふさいぜんじ無隠元晦むいんげんかい和尚が、京
都の南禅寺から観応元年
(1350)に來島してからといわれています。
 当時は官寺として幕府の任命によつて住職は京都より派遣され、三千石
の寺の荘園
(領地)を持っていましたが、後に平戸の松浦家の菩提寺として
百石の知行地となりました。
 なお、海印寺の開創については不明です。
 山号の「老松山」は、石田町の産土神老松天神
(津の宮・式内社国津神社)
らきたもので、海印寺の鎮守も老松天神だつたということです。

開山(無隠元晦大和尚)
 
無隠元晦大和尚は二十七歳の時、一葉の扁舟にのり万里の波涛を越え
て中国に渡り、十有七年の間天目山の中峰国師のもとで厳しい修業と鍛錬
をつまれた。尚行雲流水の旅修業をして中国大陸の広大な風土や華麗・雄
大な文化に接し、碩学高僧の門をたたいて詩を吟じ禅を極めて臨済の正宗
を修めて帰朝され、鎌倉・京都の五山の住職をされた高僧である。入寂
(死)後は禅僧として最高の栄誉とされている、勅
言益)法雲普済禅
(ちょくしほううんふさいぜんじ)の称号を後花園天皇より贈られた。勅法雲
普済禅師無隠元晦大和尚こそ当時の開山であり、第一代の住職である。』


 
無隠元晦大和尚は、豊前国(大分県)の人で、延慶三年(1310)元に渡り、
天目山の中峰明本の下で大悟し、嘉暦元年
(1326)帰朝されました。
 大和尚の務められた寺院は、安国寺の他に、筑州の顕孝寺、京都の建仁
寺・南禅寺、鎌倉の建長寺・円覚寺、博多の聖福寺、播磨の法雲寺などの
名が見られますが、最後は郷里の豊後の禅刹である福智寺に帰られ、延文
三年
(1358)に寂されました。(言益)を法雲普済禅師と天皇より下され
ています。75歳でした。

大般若経(国指定重要文化財・書跡 )
 
『禅宗は奈良平安仏教が衰えて鎌倉仏教が興り武士の間に浸透した宗教
である。従って中央、地方の豪族は競って寺院を建立し、仏像を安置し、
経巻をさがし求めた。当寺の大般若経の中には重煕
じゅうき15年4月の銘
があり、高麗国の金海府戸長の許珍が亡父の冥福を祈り大般若経600巻
を西伯寺に寄付したとの記録が残っている。本経は応永27年
(1420)彼杵郡
そのぎぐん(現東彼杵郡)川棚町の長浜大明神に寄進され、その後、文明18年
(1486)に出羽では立石寺の如円坊にょえんぼうにより安国寺に持ちこまれてい
る。初彫本
しょちょうほん(高麗国で最初に彫られた版木によって刷られた
本)が残っているのは、極めて珍しく歴史的な貴重なものである。』

大杉(県指定文化財・天然記念物)

 『目通り6m、高さ約30m、樹齢約1000年を経過している。大地
に根を張り、天空に鬱蒼として直立する樹相は島内は勿論全国にも稀に見
る名木である。』

拝塔

 慶長6年(1601)平戸藩主松浦鎮信
しげのぶは家督を嫡子の久信ひさのぶ
譲りました。しかし、翌年、久信は駿府参勤の途上、伏見で病死しまし
た。32歳でした。久信の葬儀には、安国寺住職も参列しましたので、後に
安国寺の境内に久信夫妻の拝塔を建てました。
 松浦氏は毎年施餓鬼料を安国寺に給付して祀らせましので、その日には
城代・郡代共に参拝するのが慣例となっていました。

 久信の死については、自殺説もあります。
 鎮信や久信が豊臣の恩顧を受けていたので、家康に猜疑され、久信の家
督襲封の朱印(許可)が貰えませんでした。その訳は妻がキリシタンであ
り、なお、平戸の亀岡の築城も徳川氏から許可を受けていなかったので、
これも問題になっていたようです。
  家康は、関ヶ原の戦い
(1600)の後、西軍95家を改易転封しています
ので、鎮信も久信も最大の願いである所領安堵の朱印を貰うために、江戸
に駿府に伺候していましたが、襲封の朱印が下りませんでした。久信は最
後の決心をして駿府の家康に伺候して赤心を披瀝しましたが、如何ともし
がたいものがあるのを知り、律儀な久信は帰途、父が秀吉より恩賞として
与えられた伏見の屋敷で、徳川に二心がないことを示すため自害したとい
うのです。
 久信は松浦家の安泰、領内諸臣諸民の平安のために自分一人が犠牲にな
る外に道はないと悟ったのでしょうか。

仏殿(獅子窟)

 『
寛正3年(1462)6月14日、壱岐守源義から仏殿造営のため石田郷の土地
の寄進があっているが、安国寺の古文書によると、永録6年
(1563)火災に
よって古殿は焼失したとされている。
 その後当時の21世陶領
とうりょう和尚は江戸品川東海寺の住職を務め、仏
閣の建築法を学び2か年の歳月をかけ、安永8年
(1779)仏殿獅子窟ししくつ
を再興した。仏殿の額は、中国天目山で中峰和尚が修業した獅子庵の名を
とって獅子窟としたものである。建築様式は中国式で桁行
けたゆき2丈6
尺、梁行
はりゆき2丈3尺、屋根は二重の瓦葺かわらぶきで内部の床は瓦敷と
なっている。軒の木組が斗組
ますぐみになっているところに特徴があり、壱
岐郡内では最も古く美術的にも優れた建造物である。』

宝物展示館

 『展示館は、ふるさと創生事業により、平成3年3月開館され、寺の宝財
殿に所蔵されていた重要文化財の高麗版大般若経をはじめ、掛軸、古文
書、筆額仏具等、国、県、町の文化財として指定されたものが展示されて
いる。 尚、展示館の構造は、鉄筋平屋建で面積70.5uあり、高床式で外
側は木造の「校倉造」を模している。』

 展示物の中には、涅槃図や室町幕府第三代将軍足利義満の花押
(かおう
 ・サイン)
入りの住職任命書もあります。

          
              
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