元勝本中学校長の福田敏氏は、郷土史を研究し、特に、「壱岐の歴
史文化と観光について考えるー郷土の価値の発見と創造
」という活動
目標をもたれ、研究の成果を広く郡内外の方達に紹介され、壱岐の活性
化のために積極的に貢献されています。
 その一つが、古代史の中に出てくる「
8本の柱」についての研究で、
海上からの撮影という大変な労作です。なかには、
近年倒壊し、現在は
存在しない柱の貴重な写真
も含まれています。
 寄稿いただきましたので、掲載します。    
(2001.5.2) 
 

      壱岐島絵地図(壱岐郷土館)による
      8本の柱めぐり
  元勝本中学校長  福 田  敏

         
 平成9年8月2日、午後1時20分、壱岐郷土館保存の絵地図によっ
て、壱岐島の8本の柱めぐりを実施した。
 湯の本湾、湯庵横を出て右回り、約3時間20分の行程だった。

 起源は詳らかでないが、民話か、説話として伝承されて来たらしく、
壱岐の島が浮いて逃げないように8本の柱で繋ぎ止められていた
いう。なお、『
壱岐名勝図誌』を紐解くと、猿岩のことを柱本と記し
てあり、「続風土記云、
壱岐8本柱の一つなり。故にとす。」と説
明している。

 元野本郷土館長のご紹介で、郷土館蔵の「
壱岐島の絵地図」を見せ
てもらうと、8本の柱や折れ柱の記入がなされていた。それにもとづい
て夏の日に海から見て廻ると、そこに実在しているのに驚いた。

 8本の内、陸地から見えないのは
名烏島渡良大島の2本である。
 本宮の御手洗のものは、地図上では「
折れ柱」とあるが、その名のと
おり、台風で倒れて今は見ることは出来ない。

@   湯の本湾 手長たなが島横の柱
    見方によっては瀬のようだが、横から見ると柱
    のように見える。
    
     手長島の柱を本宮側から眺めたもの。
(小さいもの)
        
(湯ノ本湾の出口にある。前方が対馬海峡)
    

A     たつの島の柱
       勝本湾から西方への出口にある。
       地元では、「日出柱」と呼んでいる。
    

B     名烏ながらす島の柱
      勝本湾の北の出口から右に廻ったところ。
      名烏島の表側
    

C     左京鼻さきょうばなの柱
    上方が2つにわかれているので夫婦岩とも、観
    音様に似ているから、観音岩とも呼ばれている。
    

D   筒城つつきの塩津浜(白山権現の下)の柱
     柱のようには見えないが、地図上の位置から
     は、この外に見られない。
    

E     渡良わたら大島の柱
    渡良と大島の間を対馬の方に抜ける時、大島側
    

F    半城はんせい湾内(犬島の横)の柱
     渡良線「太公望」より先に、本線とバイパスの
     三叉路がある。その三叉路横の消防用水タンク
     の上からの遠望がよい。
    

G         さる   岩いわ
    猿岩と呼ばれているものを海上から撮ったもの。地元
    では柱とよんでいた。8本の中で一番大きい。ものの
    本には天一柱と呼ばれている。奇しくも、壱岐島の又
    の名と同じ。
    

A.      久喜くきの折れ柱
     久喜の折れ柱と記されている柱である。「折れ
     柱」とあるが、他の8本の柱よりも雄大な感を
     うける。根元に穴があいている。ところが、平
     成9〜10年頃の台風で折れてしまって現存し
     ない。「ほんとうの」折れ柱になってしまった。
     最後の唯一、記念すべき写真である。
     

B.        左京鼻の折れ柱
           夫婦岩の手前、道下。
     

C.         名烏島の折れ柱
         名烏島の柱のすぐ近くに存在する。
          いかにも、折れた残りの感あり。
       

D.    本宮ほんぐう、御手洗みたらいの折れ柱
        柱のように見えるが、古絵地図では「折れ柱」
        とある。地元では、「チンポー瀬」と呼んでい
        た。昭和61年8月28日の台風によって崩壊。
        その名のとおり、「折れ柱」となった。
           (
写真は、石井敏夫氏提供
       

E.     渡良、牧崎まきざきの折れ柱 
        俗に、「鬼の足跡」と呼ばれるところにある。
        岸に空洞が見えるのが、「鬼の足跡」の陸橋
        である。