『軌跡』著者・壱岐郡老人クラブ連合会員 発行・壱岐郡老人クラブ連合会
        
発行日・02年3月10日)より、吉野氏の許諾を得て、
      転載します。
(03.3.17)



  
国の重要無形民俗文化財
    壱岐神楽と平戸神楽の由来と沿革


    
勝本町 熊野神社 宮司 吉 野 六 男

 
壱岐神楽の起源については、遠く七百年前の鎌倉時代とも又吉野朝時代
とも伝えられているが、文献によれば、少なくとも室町時代の初期には既
に大神楽が神前で奉納されていたようである。即ち今を去る五百七十数年
前第百二代後花園天皇の永享七年十一月(一四二九)神楽舞人数二十五名
を記した吉野家文書により明らかである。更に五百三十年前第百三十代後
土門天皇の文明四年(一四七二)十一月二十八日、当時壱岐を領有してい
た波多氏の居城肥前岸岳城で、壱岐全島の社家等が竃祭に奉仕して大神楽
を奏したとあり、このことは毎年行うを例とした。ついで四百三十年前第
百六代正親町天皇の元亀元年壱岐は波多氏にかわり、平戸松浦氏の領有に
なるが、翌元亀二年(一五七〇)波多氏領有時代に習って、壱岐惣神主吉
野甚五左ェ門末秋社家二十余名を率いて松浦氏の居城で竃祭に奉仕、大神
楽を奏したとある。翌元亀三年には壱岐の神主だけでなく、平戸地方の神
主もこれに加わったため壱岐の神主の参加は十二名程度に減じたものの、
約二百八十年前の享保年間の四ケ年中止となった年以外は、実に明治初年
にいたるまで永い年月続けられた。
 さて、神楽を舞う上に於ては神楽の曲目毎に神楽歌がある。この神楽歌
は、遠い祖先が、神遊歌、古事記、日本書紀、日本紀、万葉集、三十六歌
選集などの古典の中より引用してつくったと言われているが、時勢の変遷
に伴い、この神楽歌詞も度々校正されたのである。文献によれば、三百五
十年前の明暦年間斯界の先覚者吉野藤十郎末益等が校正を試み、続いて安
永年間、降って百五十年前の弘化三年の頃には、大体に於て根底は整えら
れたようである。末益博学多芸なれど叔父勝本祠官吉野尚忠、後見役従兄
弟布気祀官吉野末行、末益の子季教等が補佐し、又物部祠官松本勘当、後
年松本重足、後藤正恒翁等其の志をつぎ、力を合わせ神楽歌を改正し大成
せられ、更に明治維新を経て、大正七年九月には壱岐郡神職会によって、
神楽歌の統制を見るにいたったのである。
 壱岐神楽の種別には幣神楽、小神楽、大神楽、大々神楽(磐戸神楽)の
四種類があるが、通常神社の例祭日に奉納するのが、大神楽である。この
神楽は四時間位の時間を要し、舞う神官も八名程度である。磐戸神楽は特
殊の神事に行うもので最も厳粛且鄭重なもので曲目も三十七番あり、七時
間から八時間を要し神官も最低十二名である。これらの神楽は申すまでも
なく、神慮をお慰めするものであり、又魔を祓い除けると言うことで尚平
和を固める舞であると解される。又祭儀を荘厳盛大にするものである。神
社の例祭日又神迎祭、神幸祭等の祭典には必ず奉納され、尚私祭の霊祭に
も行われている。そしてこの神楽に奉仕するものは神官に限って参加する
ところに、平戸神楽と同様に特異性をもっていると言えよう。
 祭りと言えば神楽、神楽と言えば祭りと思う程生活に溶け込んでいる神
聖なる神人一体の境地に入る信仰的な祭典行事で、それは又すばらしい民
族的文化伝承遺産である。思えば、私がまだ子供の頃は鎮守の氏神祭のお
祭りはほんとうに盛んで楽しい行事であった。神社の境内は人の波と言っ
てよい程大勢の参拝者で賑やかなものであった。船ぐろ、馬かけ、やぶさ
め、相撲等勇ましい行事が展開され、皆々われを忘れて祭りに参加したも
のである。家庭に於ては家毎に親戚の人達が集まって甘酒を飲みながら祭
りを楽しみ祝ったものである。それは尊い家庭の祭祀であった。今や時代
が変わるにつれ、都会にくらべて田舎のお祭りも寂しい状況で神楽の見物
をする人もだんだん減少しているようである。
 昭和六十二年の一月八日、壱岐神楽は平戸神楽とともに国の重要無形民
俗文化財に指定されたとして東京文化庁に行き、文化庁長官より直接証書
を拝受するの光栄に浴した。その証書はコピーして現在郡内旧村社以上の
神社に掲げて文化遺産としていつまでも永くこの誉を称えるようにしてい
る。又現在島内の神職殊に若手の神職等は先輩神主等に習い、神楽の研究
に熱心で壱岐神楽の後継者として怠らず努力していることは誠に喜ばしい
限りであり、昨年は韓国まで乞われて壱岐神楽を披露する等、まことに感
謝に堪えない次第で今後益々発展することを願うものである。
 平戸神楽については、その起源は壱岐神楽より遅く、元亀二年(一五七
〇)今より四百三十年前、壱岐神主等が平戸松浦城で竃祭りに奉仕してい
た当時は、統一された神楽らしき記録はない。現在の有名な平戸神楽を創
作した人は橘三喜である。三喜は美津與志とも自署し、後光明天皇の正保
の頃の三百八十年前平戸藩主二十九代松浦鎮信公の家臣にして、父は平戸
七郎宮祠官大鳥居刑部である。大鳥居刑部は立石刑部橘廣貞とも言い、平
戸に移住する前は壱岐の勝本町立石の熊野神社の祠官であった。廣貞の父
は同祠官堤新兵衛信貞である。刑部廣貞は熊野権現の祠官を弟主馬に譲
り、平戸七郎宮橘千代亀と婚姻、平戸に移住し七郎宮の祠官となりし人で
ある。その先祖は遠く人皇第三十代敏達天皇の後裔橘説兄
もろえ正一位左大
臣そして歌人で、又公卿である。説兄の後裔橘(立石)貞兼勅命により公
卿より武家となり、高麗征伐の折紀伊熊野大神に祈り成果をあげ、帰朝後
壱岐の国立石村に熊野権現を奉齋、その裔氏神として壱岐に住し崇敬怠ら
ず又祠官をも司るとある。
 三喜は十六歳にして江戸浅草松浦公邸の近くに居住していたが、又京都
に行き吉田神道の流れを酌む吉川帷足
これたるに就き唯一ゆいいつ神道の奥義
を極め、又、亀卜の秘法を修得江戸浅草に塾を開いて門弟前後四千七百人
に上ったと言う。後国学神道の大家橘三喜は全国六十余州を遊歴し、この
間全国一の宮を巡詣、十年間の長い年月地方地方の神楽を視察し、内容を
見聞したれども、いづれの地方の神楽も満足せず、これらを補修改正して
平戸神楽を苦心に苦心を重ね大成したのである。藩主鎮信公は三喜のなみ
なみならぬこの偉業を称え、五十石を与え厚く厚く優遇されたと今に伝え
られている。私は平戸松浦の亀岡神社に度々参詣したが、境内に橘三喜の
碑があるのを思い出す。この碑文に橘三喜の先祖は壱岐出身と明記されて
いる。壱岐と平戸、又壱岐神楽と平戸神楽、橘家と壱岐島内の立石家、い
づれも縁浅からぬことを述べておきたい。又橘三喜は延宝年間三百五十年
前に壱岐島延喜式内社二十四社を藩命に依り再調査して報告している。御
承知の様に延喜式内社は今を去る約千百年前、時の大臣菅原道真公が全国
由緒ある神社を調査した。即ち人皇第六十代醍醐天皇の勅
ミコトノリによっ
て作成された「延喜式神明帳」は九百二十七年に選進され、毎年祈年祭

シゴイノマツリ
の幣帛にあづかった三一三二座が記されている。この神社を
式内社と呼んでその中より更に選ばれた二八五座を明神社と呼んだ。平戸
藩主松浦鎮信公は壱岐島内の式内社に木鏡を献納され、それは御神体とも
言うべきもので誠に敬神深き殿様であられた。
 さて平戸神楽は壱岐神楽と良く似て相通ずるものが多い。神楽の曲目も
種類もそうである。種類は小、中、大、大大(岩戸開き)神楽と言い、小
神楽は八番、中神楽は十二番、大神楽は十八番、岩戸神楽は二十四番で、
舞う神官は壱岐神楽と同じく十二名を限度としている。その神楽の内容に
ついてはそれぞれ特異性があるが、長い年月壱岐と平戸の神主が神楽の内
容なり技等互いに交換し伝えられたのではないか。特に三喜の父大鳥居刑
部は壱岐熊野権現の祠官でもあったことを考えると平戸神楽をおこした三
喜にしても壱岐神楽の内容なり技を相当取り入れたと感ずる。尚代々の旧
藩主家累代の保護奨励の下に発達していることも見逃
のがせない。殊に其
の歌詞と舞に現われた皇国精神、敬神崇祖の精神、清浄尚武の精神の現わ
れは知らず知らず心を培う有力な役割を勤めていると言えよう。青竹の横
笛に大太鼓の伴奏にて神に奉仕する社人が、幣
みてぐら、扇、鈴、刀、弓、
鉾等を持って神楽歌を唱えつつ舞う、殊に四人が二畳の内より足を踏み出
さないで行う優雅な舞、そして国家の安泰、民族の平和と発展、且つ子孫
の繁栄を祈り続けて行われる神楽は実にすばらしい文化遺産と言える。平
戸神楽を創案した橘三喜は延宝四年十月十三日今より三百二十五年前父祖
等が、奉仕した壱岐熊野神社に祖父新兵衛信貞、父大鳥居刑部橘廣貞等六
柱の神霊を立花社として別殿に奉齋する等神道国学の大家、敬神家の大権
威者である。橘三喜は元禄十六年三月享年六十九歳で病没、子孫は今の平
戸志々伎町、式内志々伎神社の社家、累代、宮司であられる大鳥居家であ
る。
 重要無形民俗文化財、壱岐神楽、平戸神楽の由来と沿革について、その
大綱を記したが、遠い時代から神に仕えた神職家によって考案され受け継
がれた文化遺産の神楽、その舞と歌詞の中にある愛国敬神清浄尚武の精神
は、地域地域の住民の心を培い今日に及んでいる。この神楽を作られた先
人の名は永遠に消え去ることはないだろう。今や壱岐神楽保存会、平戸神
楽振興会の保護と奨励の下、地域氏子住民の信仰心と協力によって神楽は
神社に奉納され、永く子孫に受け継がれて発展することを念願するもので
ある。



    
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