長 崎 県  勝 本 町   (かつもとちょう)

・面  積  29.41Ku 東西5.5q 南北8.8q
・位  置  東経129°41′42″  北緯33°50′45″
       海抜139.39(町内最高地)
・世帯人口  2,390世帯
       7,750人(男3,726人  女4,024人)
                       (平成6年4月1日現在)
・町制施行  昭和10年4月1日
・町の予算  48億8千8百万円 (平成6年度一般会計予算)
・町  木  つばき(ツバキ科 常緑喬木)
・町  花  さつき(ツツジ科 常緑潅木)

・町名の由来
   勝本の名のおこりは「その昔、神功皇后がこの地を往来された折に
  風本(カザモト)と命名され、その後勝本に改めるようお命じになっ
  た」という説や「聖母(ショウモ)宮のある可須(カス)浦と印にゃ
  く(インニャク)神社がある本(モト)浦を呼びあわせた可須本(カ
  スモト)浦にある」とする説などがあります。
   上代には「カス」と称されていますが、中世以降は「風本」とも呼
  ばれたようであり、韓日の文献にその名をとどめています。「カス」
  の地名が文献に登場するのは『高山寺本倭名類聚抄』が最初で、郷の
  名として何周と記載されています。また朝鮮の地誌『海東諸国記』に
  は加愁郷の名を見ることができます。
   「カザモト」の名は数多くの資料に見られますが、『太宰管内誌』
  では風本の字をあて、浦の名称を「勝ノ浦」「元ノ浦」と記し、加須
  本が勝元へ、さらに勝本へかわったことがうかがい知れます。

・勝本町章
     
     勝本町章は昭和48年庁舎の新築を記念して制定されたもので、
    町の頭文字「か」を図案化、円は町民の融和団結を、左右に広が
    る鳥型の翼は町勢の発展伸長を象徴している。

・地  勢
   勝本町は長崎県の北東部、壱岐島の北西端に位置し、東部は芦辺町
  南部を郷ノ浦町に接し、北西部は対馬海峡に面している。土地はなだ
  らかな丘陵が起伏している。又、海岸線は屈曲に富み、なかでも勝本
  港は県下でも屈指の漁業基地になっている。

[歴  史]
   勝本町は朝鮮半島と九州のほぼ中間に位置する壱岐島の北西端にあ
  ります。この地理的条件から古くから大陸文化流入の中継地であった
  と同時に、対外関係の緊張のたびに国境の島ゆえの軍事強化がなさ
  れ、時としては外国の侵略の犠牲となりました。
   勝本町内に人類が生活痕をのこすには約6500年ほど前の縄文時
  代前期にまでさかのぼります。その後、大陸へ通じる海を舞台に活動
  した海人族は弥生時代の壱岐島に金属器を多用した農耕生活の華を咲
  かせると共に、壱岐島の古墳造営の基礎的な力を貯えてゆく大きな力
  のひとつとなったと考えられます。白村江の敗戦後、大和政権は防人
  と烽を置き異国警備に力を注ぎました。
   その後、勝本に少なくとも3度の悲劇がみまいます。寛仁3年(
  1019)の刀伊の入寇、文永11年(1274)と弘安4年(1281)の蒙古
  襲来です。元寇の後松浦党の諸氏は壱岐島を対外貿易の根拠地とし、
  特異な存在となり勢力争いを演じ壱岐は戦国時代の様相を呈します。
  元亀2年(1571)、勝本町内の浦海の戦いで佐賀岸岳の波多氏が平戸
  松浦氏と壱岐日高氏の連合軍に敗れ、それ以後、壱岐は平戸松浦領と
  なり明治維新を迎えます。
   浦海合戦の20年後の天正19年、豊臣秀吉は朝鮮出兵のため壱岐
  風本(勝本)に城を築かせ文禄慶長の役を支える兵站基地とし、城番
  に実弟秀長の遺臣・本多俊正を配しています。
   江戸時代になると平戸藩は勝本浦に押役所を置き、政務・警備の充
  実をはかり、領内通行の朝鮮通信使の迎接所を同浦の神皇寺と定め、
  諸行事を行っています。また土肥、原田、永取家に代表される捕鯨集
  団「鯨組」の繁栄があり、千人ほどの人々が働く日本産業史上特筆さ
  れる工場制手工業が展開されていました。
   幕末の勝本は近海に出没する黒船のため世情騒然となり、藩は異国
  船警備の部隊を新設し神岳山などで護国安民を祈願しています。
   明治4年の廃藩置県で長崎県に編入された勝本では、同22年の町
  村制施行で可須村と新城村が合併して香椎村となり、本宮村と立石村
  を統合して鯨伏村となりました。香椎村は昭和10年に町制を施行し
  勝本町となり同30年町村合併促進法に基づき鯨伏村と合併し、新し
  く勝本町として発足し現在に至っています。

[文化・観光]
   東アジア地域における壱岐島の地理的条件が勝本の文化に大陸との
  関係を色濃く伝えています。
   3世紀後半に作られた『三国志』魏書東夷伝倭人の項に、倭人の占
  いの記述があります。また11世紀前半の『延喜式』には、壱岐の占
  部を朝廷に召し抱えた記録があります。この両書の記述を勝本町内の
  遺跡からの出土品が実証しました。カラカミ遺跡出土のト骨と串山ミ
  ルメ浦遺跡出土の亀ト甲です。古代の勝本は大陸渡来の占いの技術を
  いちはやく取り入れ、我がものとして駆使し、中央権力の占部となっ
  て国政を左右するまでの高度な技術を有する特別な地でした。
  6〜7世紀の壱岐島は、古墳造営ラッシュの時代でした。
   18世紀中葉の『壱岐国続風土記』には、全島の古墳は338基と
  あり、そのうち町内は111基と記録されています。壱岐島の古墳は
  対外関係が緊張した時期に一時に造られています。
   町内の寺院には、大陸から招来された仏像、仏具があります。これ
  らは李朝初期の廃仏毀釈による渡来品で壱岐の仏教文化の特色となっ
  ています。
   勝本町を訪れた文人墨客のなかで幕府巡見使の一員として来島した
  岩波庄右衛門(芭蕉の高弟河合曾良のこと)が名高く、墓前で曾良忌
  が毎年いとなまれています。
   聖母宮大祭は島内最大の祭で、国指定重要無形文化財の壱州神楽や
  和舟競漕の古い形を残すミユキ舟が行われ、島内外の見物客で勝本港
  がうずまります。この他にも各種の文化財や史跡・遺跡が多く、文化
  遺産を巡る観光も楽しめます。また島内唯一の湯本温泉郷、イルカパ
  ーク、辰の島海水浴場、壱岐風土記の丘、海釣りなどとお好みにあっ
  た勝本の楽しさを満喫いただけます。


      
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