深沢儀太夫追善碑

         
           
           
壱岐市芦辺町諸吉仲触・龍蔵寺

      
うちかすむ壱岐のわたりを見渡せば
             鯨のいぶきたたぬ日もなし


 と歌にもあるように、昔は壱岐近海には、相当の鯨もいたらしく、壱岐は古くから
有力な捕鯨基地として知られ、深沢氏も鯨組(突組)を組織し、組主として寛永の初め
頃から70余年間継続して活躍していたようである。
 初代深沢儀太夫勝清は大村藩領波佐見村(現長崎県東彼杵郡波佐見町)中尾にあって、
中尾次郎左衛門とも言っていた。彼は、天正11年(1583)の生まれで、杵島城主渋江
一族の流れをくむ名門の郷士であった。次郎左衛門は慶長の末期紀伊の国(現和歌山県)
で捕鯨法を学んで大村に帰り、大村藩主の許可を得て鯨組を編成し、大村を総基地とし
て、崎戸、松島、蠣の浦とで操業を始めた。また漁場基地を次々とと増して次第に遠海
へと拡張し、壱岐、生月、五島、江の浦にも及んだ。幸運に恵まれた彼は、捕鯨により
巨万の富を持つ身となった。
 然し、私利私欲の虜となることなく、大村では野岳に大塘
おおつつみ(現在の野岳湖)を
構築して新田開拓を行い、農民の生活安定に寄与し、藩にも多額の運上金などを献上、
そのため藩主大村純長より、深沢の姓を賜っている。以後彼は深沢儀太夫勝清と改名し
ている。壱岐名勝図誌によると、寛永の初期に瀬戸恵比須に鯨組を置き捕鯨に活躍して
いる。
 また彼は信仰心が厚く、大村の円融寺、長安寺の本尊を建立しており、壱岐において
も、龍蔵寺五世の日峰和尚に帰依して師弟の関係を結び、寛文元年(1661)正月に本堂の
造替をして寄進し、寛文3年(1663)3月17日に80歳でその生涯の幕を閉じた。
 日峰和尚は寛文6年に彼の菩提を弔うために「為常寂院殿青山浄雲居士云々」と刻銘
のケイス(※読経などの際、叩いて鳴らす茶碗型の鐘)を残し、また、龍造寺の墓地にも
自然石ではあるが、「青山浄雲居士」と刻んだ塔を建てて冥福を祈った。

 深沢儀太夫勝清の供養塔   塔の高さ 95センチメートル




                
       
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