葛 の 花
        
 横山 順


        
 お わ り に

 私に、この原稿を書くよう話されたのは、壱岐文化協会々長の平田昇氏
と同会の西川福雄氏であった。壱岐ロータリークラブが、折口信夫(釈迢
空の「葛の花」の歌碑を建てる、壱岐文化協会もこれに応じて『葛の花』
と題する小冊子の刊行を考えている、それでということであった。
 私は、短歌は「読む」だけの男である。適当な方は多いし、それでお断
りしたが、折口の短歌の解題をするのではなく、折口と壱岐とのかかわり
を構成するだけだから、と肩を叩かれ、お引受けしてできたのが、この一
文である。私なりに努力はしたものの、ご覧のとおりで、この不首尾は、
門外漢に免じてお許しを乞う次第である。
 ところで、二度来島した折口の足跡は、もう消えかかっていた。来島し
たのは五十余年前のことだが、島人の記憶からはすでに遠のき、山口麻太
郎、目良亀久の両氏とその他幾人かの方々の脳裏に僅かに残るだけであっ
た。すでに故人となられた方も多いことで、止むを得ないが、もし折口来
島時のことをご存知の方がおられたら、教示して頂きたい。

 近時、「葛の花」の歌が、壱岐か奥熊野かと作歌した土地をめぐって、
話が出ている。本文の蒸し返しは避けたいが、奥熊野とする方々には、壱
岐の風土をよく知って欲しいものだと思った。それを知らねば、「山道」
も判らぬし、なにより「島山」と表現された壱岐を理解することもできな
いと思う。
 私は壱岐に育っていない。
(山口註・横山君は長崎で生まれ、終戦後、引き揚げて来ら
れた。)
その男が、今壱岐に定住しているのだが、壱岐を見る目は、まだ旅
人のそれと似ている。「葛の花」の歌が壱岐にふさわしいと思うのは、そ
の目で見て、住んでみての実感もあるのだ。折口が初め奥熊野とし、すぐ
壱岐と改めたのは、壱岐でなければならぬものを感じたためではないか。
 だし抜けなんだが、ひょっとしてと思うのだが、この歌は「流人」を詠
んだものではないのか、と思うことがある。「この山道を行きし人」は、
流人ではなかったのか。葛が壱岐に似合う以上に、流人もまた壱岐に似合
うことである。流人については、折口もよく承知して来島し、文章の幾つ
かはそれに触れている。
 「葛の花」の歌は、流人の島としての歴史を持つ壱岐を、象徴的に詠っ
た、という推測である。
 これを頭において読むと、この歌の背後には、承久の乱で隠岐に流され
た、御鳥羽院が浮かんでくる。御鳥羽院の歌が折口の頭になかっただろう
かとも考えるのである。この歌の高さ≠ェ、私をそういう気持にさせる
のである。
 名歌に、私ごときが勝手な解釈をしては困るという向きもあろう。がそ
れでこの歌の価値が変る筈もないのである。




      
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