壱岐松永記念館を訪ね、後藤正敏管理責任者(元石田町教育長)より、資料の利用・転載に
ついて許諾を得ました。(2000.4.11)


      
壱岐松永記念館(石田町印通寺浦)

        

 呼子航路のフェリーの発着港の印通寺浦のメイン道路に面して記念館
があります。正面の入り口を入ると、写真のように路面電車が保存され
ています。行き先は「
博多駅」と表示されています。
 これは、明治43年から70年間の間、福岡市民に親しまれ、昭和
54年に全廃された「
西鉄電車」で、創始者である松永翁の生地に運ば
れたものです。庭には、電車軌道に使われていた「
敷石」が敷き詰めら
れています。、、

 展示されている電車は、「
チンチン電車」とも言われていたもので、
昭和24年製のボギー車。つり革の全てには、中州にあったデパートの
玉屋」の広告が付いています。




 
              記念館設立の趣旨

 「松永安左エ門は、明治・大正・昭和の三代にわたり、日本の電力の
普及と復興に努め、我が国の産業経済発展の基礎を築いた偉大なる先覚
者で、『
日本の電力王』『電力の鬼』と称せられました。
 この地は、安左エ門の生家跡で明治28年頃までは造り酒屋、回船問
屋などを営む商家でした。
 昭和46年6月26日、全国の電力会社関係者、法人、個人、壱岐4
町、さらに松永家を始め、多くの方々のご協力と浄財によりまして、安
左エ門の偉業を偲び、その功績を後世に伝えるため、ここ生家跡に松永
記念館が建設されました。」
(松永記念館のパンフレットより)





 
            館内の展示物

 
         
       
   
 『一つ、死後の計らいの事
   何度も申し置く通り、死後一切の葬儀・法要は
   うずくの出るほど嫌いに是れあり。
   墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。
    死んで勲章位階(もとより誰もくれまいが友
   人の政治家が勘違いで尽力する不心得、かたく
   禁物)これはヘドが出る程嫌いに候。
    財産はセガレおよび遺族に一切くれてはいかぬ。
   彼らがダラクするだけです。(衣類などカタミ
   は親類と懇意の人に分けるべし、ステッキ類も
   しかり)
   小田原邸宅、家、美術品、及び必要什器類は一切
   記念館に寄付する。これは何度も言った。
    つまらぬものは僕と懇意の者や小田原従業者
   らに分かち与うべし。
    借金はないはずだ。戒名も要らぬ。

    以上、昭和三十六年 十二月八日
       横山通夫様
       松永安太郎様
       田中精一様
       井上五郎様
       木川田一隆様
   この大詰めは、池田勇人氏にお願いする。
                       以上』

     亡くなる、十年前に書かれた遺書

(この遺言状を読み、凡人では計り知ることが出来ない、翁の超人的な無欲達観の人生観と
翁の薫陶を受けた人材の豪華さに驚嘆するばかりでした。)




            





 
館内を巡回している間に、後藤管理者は、パンフレットにない資料やメモを用意して
渡してくださいましたので、この中から特に翁の
壱岐や九州への貢献を抜粋します。

              壱岐への貢献

壱岐の電力関係
●松永翁は、壱岐の為に何もしていないじゃないかという人がいるそうだ
けれど、日本の離島でいち早く電灯の恩恵に浴したのは翁のお陰である。

●壱岐に電灯が点いたのは、大正3年である。
壱岐電灯創立発起人は、田
河の長嶋主税氏で、松永翁の援助を受け設立に情熱を傾けたが、44歳の
若さで亡くなった。

●壱岐電灯は点灯戸数が少なく、黒字になったのは昭和7年で18年間赤
字が続いた。壱岐電灯が続けられたのは、松永翁が大株主の社長であった
からである。

●会社が自力でやってゆけると思った松永翁は、弟の安太郎氏に社長をゆ
ずった。

●壱岐電灯は昭和18年戦時下の配電統合令によって、九州配電株式会社
に統合され、松永英太郎は社長を辞任した。

●昭和26年、松永翁の手により、日本中の電力会社が9分割された時、
九州電力株式会社壱岐出張所に生まれ変わった。そして、この時、九州電
力の社長になった佐藤篤二郎は、松永翁の東邦電力子飼いの社員であった。

●当初、40キロワットで1203戸に送電開始した壱岐電灯は、芦辺町
の青島に新しい発電所をつくり、今の発電可能能力は4万1500キロワ
ット(2000.3.1)となっている。松永翁の遺徳は、今日もなお続いている
のだ。

壱岐の他の分野
●松永翁は、壱岐に残る遺跡や民俗学、考古学ににも深い関心を持ち、

口麻太郎
氏の研究を助成された。なお、考古学者鳥居龍三博士、民俗学者
本山桂川氏などを呼び、研究させた。

本山桂川氏について、山口麻太郎氏の研究に来られた室井康成氏に尋ね
たところ、「本山が、かって柳田国男に岩手県遠野に伝わる民話を語って
聞かせた佐々木喜善という人物の著した『農民俚たん』を、昭和9年に編
纂した。また、大正14年に『与那国島図誌』という民俗誌を執筆した。」
と回答がきました。
※桂川氏の孫である漫画家・
本山一城氏からメールが届きました。一城氏は
祖父・桂川氏関連のホームページを作成しておられます。

        「
本山桂川氏のホームページ
     
http://isweb42.infoseek.co.jp/diary/kazzuki/

※桂川氏は、勝本町城山の「
曾良の句碑」の建立にも多大の貢献されまし
たので、そのページで、くわしく、紹介しています。

後藤正足氏著『壱岐郷土史』が大正7年に刊行された時の出資者が、後
藤氏の教え子の松永翁であった。

●松永翁が壱岐人の集りである
雪州会長を死ぬまで引き受けられたのは、
「愛郷心や親孝行というような素直な美しい精神が中心にならなければだ
めだ。何事をするにも、それが美術・芸術にしても、このような素直な美
しい魂が根本になければならない」という考えを持って居られたからであ
る。



          
九州地区への貢献

松永翁は、日本全体にとっても、その繁栄の礎を築いたとよく言われて
いるが、その
経営者の覇王としての出発点は福岡である。

●松永翁は35歳の時、福岡にあらわれ、福博電気軌道をおこし、忽ちの
うちに、九州各地のガス会社10社を合同し
、西部ガスを創立し、その社
長になった。

●さらに、
九州化学工業九州耐火煉瓦日本油脂、東洋車両などの傍
系会社をつくりあげて、僅かの間に、九州の鉄道、電気、ガス等の公益事業
をその手に握り、九州地方の産業振興に尽した。



       
松永翁に関する近刊図書紹介

講談社文庫 
      
「電力会社を九つに割った男」
          
 −民営化の鬼、松永安左エ門―
             著者   淺川博忠
           (2000.12.15 第1刷発行・667円)

日本経済新聞社発行
          
「爽やかなる熱情」
         ―電力王・松永安左エ門の生涯―
           著者    水木楊
          (2000.12.15 第1刷・1700円)



       
        
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