松阪直美氏(壱岐郡芦辺町深江鶴亀触出身・東京在住・作詞家 
壱岐の多くの小中学校の校歌等を作詞、郷ノ浦町岳の辻頂上部に「玄海ワルツ」の歌碑がある
の『わが人生は闘争なり松永安左エ門の世界(1980年12月1日初版発行)
より、松阪氏の許諾を得て転載しました。(02.3.13)

(関東方面に住む壱岐出身者の会「東京雪州会」の会長を1987年から7年間務めるなど、
壱岐出身者の活動を側面的に支援し、同会の発展に尽力した。芦辺町出身で東京都大田区
在住。肺炎のため、平成14年11月16日、死去した。92歳。
 松坂氏は、作詩家・日本詩人連盟副会長、長崎県人会常任理事など歴任し、著書には電力
の鬼と呼ばれた石田町出身の松永安左エ門翁について著した「わが人生は闘争なり」や詩リ
―フレット「花信」、少女小説集「嵐に花は散らず」などがある。02.11.22壱岐日報より)

       郷里壱岐の島に電灯を
   
離島では最初の発電所!

 
 安左エ門の生れた石田村の隣村田河村(現芦辺町)諸吉に
長嶋主税
いう青年がいた。
 東京専門学校(現在の早稲田大学)に学んだが、父の死で郷里に帰り
二十五歳で壱岐郡会議員に当選、二十七歳の時には最年少で長崎県会議
員となっている。当時の壱岐では珍しい進歩的な人物であった。
 明治四十四年(1911)乞われて田河村長になった。時に二十九歳。当
時の村長は名誉職のため、十四年十ケ月の長期間、死ぬまで村長をつと
めたため私財を蕩尽、残したものは借財だけと伝えられている。名村長
であった。
 私が小学生の頃、通学の途中深江の下ル浜というところを通ると、海
によく「あこや貝取るべからず 田河村長 長嶋主税」とゆう立て札が
あったのをおぼえている。
 あこや貝と言うのは真珠貝のことであるが、現在壱岐真珠は品質の上
で日本の第一級品として業界では有名だ。長嶋主税村長の真珠養殖は、
時期尚早で(当時三木本幸吉がやっと真円の真珠の養殖に成功した頃)
経済的には失敗に終った。然し今から六十年前に真珠の養殖に乗り出し
たその発想と、長嶋村長が貧しい田舎の村に新しい産業を興そうとした
先覚者としての精神は尊い。
 このように新しい着想をする長島村長の目に、松永安左エ門が福岡市
に電車を走らせ九州各地の電力界に華々しい活躍をしている、しかもそ
の人が隣村印通寺出身と知った長嶋は、これだ!壱岐にも発電所を作
り、新しい産業を開発しようと考えて早速博多の安左エ門の所へ出かけ

「壱岐にぜひ電灯会社を作って下さい」
と強引に頼み込んだ。
「電灯もよいが、電灯会社を作っても電気をつける人がおるまい」
「いえ、いえ、はじめは少なくとも私たち各村長が勧誘して、余りご迷
惑はかけないようにします」
 安左エ門は九州各地の電力会社が、営業面でうまくゆかず、合併吸収
して来ただけに、人口の少ない壱岐で電灯会社の経営は無理だと考え
た。しかし長嶋村長の青年らしい熱意と、郷土のために自己の財産まで
投げ出してでもというファイトと誠意が安左エ門の心を引きつけた。
 安左エ門は弟英太郎にまかせている母のことを考え、一つ親孝行に壱
岐に電灯をつけて母を喜ばせよう、そして文化の点でも立ち遅れている
壱岐のため、何らかプラスになればと決心し、すぐに九州電灯鉄道唐津
営業所勤務の市川春吉を壱岐電灯の主任技師に任命、設立にのり出し
た。
 壱岐電灯会社が生れたのは大正三年(1914)一月、安左エ門四十
歳の時のことである。
   社長    松永安左エ門
   常務    長嶋主税
   支配人   松永英太郎
   主任技師  市川春吉
 この時の資本は発起人長嶋主税が、全島に送電するので島内十二ケ村
の各村長に呼びかけて一部を分担したが、その大半は松永安左エ門が出
資した。
 一月に会社は生れたが実際に送電を開始したのは八月からで、当時の
所員は十二名。電灯使用戸数は一,二〇三戸、その頃の壱岐の人口は三
八,六六九人であった。
   (中略)
 市川技師の努力にかかわらず、点灯戸数が少ないことが会社を長い間
赤字にしていたようで、やっと黒字になり、機械代を償却し、借入金を
返済したのは昭和七年のことで、実に十八年間かかったのである。
 会社が自力でゆけると見た安左エ門は弟の英太郎に社長をゆずった。
 壱岐電灯創立発起人長嶋主税は四十四歳の若さで、大正十四年に亡く
なっていた。
 安左エ門の母ミスは、電灯がついた翌年の大正四年四月十六日安心し
て亡くなった。


 「松永安左エ門は偉い人かも知れないが壱岐には何もしてないじゃな
いか」
 という人があるそうである。これは空気がいつもあるのでその尊さが
わからないのと同じで、私達少年の頃ランプのホヤを磨きながら大人に
なった者には、電気の有難さがよくわかる。離島でいち早く電灯の恩恵
に浴したのは安左エ門のおかげである。しかも十八年間も無配の会社を
経営してゆくことが営利会社にとってどんなに困難であるかを思う時、
壱岐電灯がつづけられたことは安左エ門が大株主の社長であったからで
ある。
 電気なしでは壱岐の文化も産業も今日のような発展は望めなかっただ
ろう。
 壱岐電灯は昭和十八年戦時下の配電統合令によって、九州配電株式会
社に統合され松永英太郎は社長を辞任した。
 そして、昭和二十六年安左エ門の手により、日本中の電力会社が九分
割された時、九州電力株式会社壱岐出張所に生れ変った。そしてこの時
九州電力の社長となった佐藤篤二郎は、安左エ門の東邦電力子飼いの社
員であった。
 現在(五四年)壱岐の人口は四万二千余名、点灯戸数は一0,四三九
戸、壱岐全島すみからすみまで電灯の恵みに浴しているのだ。
 今から六十五年前、はじめ四十キロワットで、一,二〇三戸に送電開
始した壱岐電灯会社は、いま一八,九〇〇キロワットとなっている。そ
れでも製氷其の他中小企業の電力を充たすことは困難で、最近の壱岐の
新聞によると、地元の要求で出力の大きい発電所を、芦辺町の青島に新
しく建設することを九電本社でも認めたと報じている。これをみても松
永安左エ門の遺徳は今日もなお続いているのだ。
 単に電気だけでない。安左エ門は壱岐の島に残る遺跡、民俗学、考古
学に深い関心を持ち、考古学者鳥居龍三博士、民俗学者本山桂川などを
呼び、いろいろ研究させている。
 郷土史として唯一の文献といわれる後藤正足著「壱岐郷土史」が大正
七年刊行された時の出資者が、後藤正足の教え子であった松永安左エ門
であることを知る人はすくない。
 郷土のすぐれた民俗学者山口麻太郎に、戦前に古文書や遺跡の調査研
究を依頼し、山口はこれにこたえて文化財の保護に保存に、八十歳の老
いを忘れいまも元気で筆をとり続けている。
 山口は郷土研究に貢献したかどにより長崎県知事表彰、長崎新聞文化
章、西日本新聞文化章、壱岐郡文化功労章、勲五等瑞宝章と数々の表彰
を受けている。
「昭和八年以来、郷土の文化史を単明するために松永先生は私に嘱望さ
れ、委嘱し援助鞭撻された。これに対し私も、充分とはいえないけれど
も、ともかく若干のお答えはすることが出来たと思っている」
 山口は「松永安左エ門の憶い出」の中で経済援助に対し感謝の言葉を
謙恭に述べている。
「愛郷心のない者は魂のない者にひとしい、親孝行の出来ぬ奴はダメ
だ。何をしても、何を作りあげても、それが美術、芸術にしても親孝行
の出来ぬ者の作ったものは魂がぬけている。人のやることの根本となる
ものは、親孝行という素直な美しい精神が中心とならなければダメだ」
 壱岐人の集り雪州会長を死ぬまで引きうけたのも、いつもこのような
考えを持っていたからであった。





 九州電力壱岐営業所を訪ね、発電の現状などをお聞きしました。その
折、『
あしべ今昔』(昭和58.3.1 著者・中村八郎氏 発行者・芦辺文
化協会
)の中に、壱岐電灯会社の揺籃時代のことが載っていることを教
えてもらいましたので紹介します。
(02.2.6)


壱岐電灯会社長嶋主税氏・田口伊勢四郎

 大正三年一月田河村長・長崎県議会議員だった諸吉八頭家の長男
長島
主税氏が、当時日本人で西洋文化の先駆者福沢諭吉先生の娘婿福沢桃介
氏と慶応大学時代の友人であった、のちに電力王といわれた本郡石田出
身の
松永安左エ門氏の協力で、持ち前の気質で壱岐電灯会社を発起、実
行に移された。
 その裏には、時の政友会の指導者であった弟の長嶋若枝、田河村会議
長の叔父の中村一郎太、松永安左エ門氏の慶応大学の後輩で弟の中村
進、松永氏の福博電鉄・福松商会役員の義弟の東直太郎の兄弟コンビで
の競争がある。
 競争に勝った長嶋氏は、芦辺浦・清石浜入口空地の原野の中央に火力
発電所を設立、島内に初めて文明の明かりををつけたのが壱岐電灯会社
の始まりである。
 当時は、現在の小学校より当方には一軒の家もなく、風害を大変恐れ
た場所であり、
発足当時はわずか七十五馬力で光力は微弱だったが
あったが、その後、設備も着々と整っていった。
 壱岐電灯会社が九州電力壱岐営業所となり、初代の所長は
田口伊勢四
氏は、大正三年の壱岐電灯発足当時からの人で、当時の郵政省の高
等職員養成所に学んでおられた。経理と社交力に富んだ若い田口青年を
長嶋主税氏が認めたのが、田口氏の電力会社職員のはじまりである。
 大正十五年十月に百五十八馬力、昭和七年九州電力となり、七月二百
五十馬力百ボルト、二十六年四百馬力、三十一年一千キロ発電器増設、
同年六月より
昼夜送電、三十三年五百キロ増設、昭和四十八年壱万四千
四百キロの発電で職員十四名となる。営業所は三十七名の壱岐最大の会
社となる。
 昭和二十九年より発電器の冷却水を海水利用、昭和五十年に営業所を
近代建築で整えた。
 その後、壱岐の電力消費量は年々増加の一途を辿っている。昭和五十
六年から八幡湾内青島に橋をかけ、第二発電所建設を進めているが、電
力の供給はもちろんだが、内海湾の美しい風景に大きな橋、観光の名所
になる事も疑いないだろう。

          

 又、
清石発電所先に長嶋主税氏の顕彰碑があるが、これは壱岐電灯
発祥の地を表し、長嶋氏の功績を後世にに伝えるために、田口伊勢四郎
氏の発起で関係各位の協力でたてられたものであるが、顕彰碑の文字は
時の九州電力社長の直筆である。



    
壱岐島の電力の現況 (平成14年2月)

発電能力 

九州電力
     
芦辺発電所 (発祥地)       17500kw
     
新壱岐発電所(青島)         24000kw
芦辺町
     
風力発電(2基・第三セクター・箱崎) 1500kw            
     
太陽光発電(社会福祉協議会「つばさ」内)30kw
             


      
      松永安左エ門翁(トップ)