中部壱州会だより(10周年記念号・平成13年11月発行)に、
中部電力秘書部長・
藤岡旭氏が『松永さんと壱岐』を寄稿されておら
れます。藤岡氏及び中部壱州会会長・
坂本和久氏の許諾を得て、転載し
ます。
(02.5.13)

    松永さんと壱岐
   中部電力株式会社 秘書部長  藤 岡  旭


 中部壱州会設立十周年、誠におめでとうございます。
 中部壱州会の名誉会長・東海長崎県人会会長で、当時中部電力会長・
中部経済連合会会長を勤められた
松永亀三郎氏が亡くなられて、もう四
年が経ちました。
 病身をおして、亡くなられるまで情熱を燃やして取り組まれていた中
部国際空港は無事着工し、二〇〇五年の開港をめざして工事も急ピッチ
で進んでいます。
 中部地方在住の壱岐出身者の会『
壱州会』を作るという話を松永さん
からお聞きしたのは、もう十年以上も前になります。当時、私は松永さ
んの秘書をしておりましたが、現壱州会会長の坂本さんが松永さん宅を
何度も訪問され、熱心に勧誘された結果、名誉会長に就任されたことを
思い出します。しかし、考えてみますと今まで当地域に壱岐出身者の会
がなかったことも不思議でした。名古屋市には港区に一州町という壱岐
にちなんだ地名があり、私ども電力会社に働く者にとり、壱岐は大変な
じみ深い土地という感じを持っておりました。
 壱岐を愛していた松永さんは、生まれ故郷の石田小学校に長年「写真
ニュース」を寄贈し続け、書籍も毎年石田町役場に寄贈され、島の子供
たちの教育の手助けに気を配っておられました。また随時、壱岐の焼酎
や塩ウニなどを取り寄せ親しい方々に配り、壱岐の物産を紹介しその宣
伝にも努めてみえました。壱岐物産展が、壱州会会員の皆様のご尽力で
名古屋で開催されることになったときはとても喜んでみえました。
 小学生の頃壱岐を離れたことで、望郷の念が松永さんにより一層、壱
岐を愛する気持ちを起こさせたのではないかと想像しております。
 松永さんが愛した壱岐の島の発展と壱州会のご繁栄をお祈りし、拙文
を終わらせていただきます。

※松永安左エ門翁は、石田町出身で、戦後電力の民営化に取り組まれ、
亀三郎氏はその甥になられます。名古屋市港区には安左エ門翁が、発電
所工事の時、切り倒されそうになった一本の木を残し憩いの場所にした
事にちなんだ「
一州町(いっしゅうちょう)」という町名があります。



 坂本和久
(昭和39年生・壱岐郡芦辺町中野郷仲触出身)より、故松永亀三郎
と中部壱州会との関わりについて、お便りをいただきましたので掲載い
たします。
(02.5.14)


        
松永亀三郎氏について
 
       中部壱州会会長 坂本 和久

(前略)
 故松永亀三郎氏は、12歳までしか壱岐にお住まいではなかったので、
ご自身はむしろ関西人だと生前話して居られました。そこへ、ずうずう
しく世間を知らない当時27歳の私が日参し、平成3年11月中部壱州
会の設立と同時に名誉会長に、平成4年6月7日東海長崎県人会を設立
し会長にご就任頂きました。
 私にとっては名古屋での親代わりであり、当時、中部経済連合会の名
実ともにトップでありました。私が、「壱岐を出た人が壱岐に向かって
手を結ぶことは、壱岐で生まれた者の責務」と日参したため、「おまえ
が来るからしようがない」が当時の口癖でした。ご本人も壱岐のことは
あまり語られなかったため、壱岐のご出身だということを知る人も少な
く、平成4年7月の中日新聞のコラム「紙つぶて」に壱岐のことを出さ
れた時の財界人の衝撃も大きかったようです。
(後略)


 
坂本会長より送付していただいた資料(中日新聞夕刊・『紙つぶて』・平成4年
7月23日)
より、故松永亀三郎氏の寄稿文を転載します。(02.5.14)



       壱        岐

      中部電力会長    松永 亀三郎

 夏になると郷里の壱岐を思い出す。
 私の郷里は玄海灘の小島、壱岐である。家から少し歩くと印通寺の浦
で、夏には泳いだり、舟を漕いで遊んだものである。泳ぎは上級生から
海に投げ込まれ、バタバタしながら覚えたものだ。漕いでいた舟がひっ
くり返り、やっとのことで助けられたこともある。その傷跡は、半世紀
以上たった今も額に残っている。動き回ってちっともじっとしていない
子を、島の言葉で「うんなか坊」というが、私もうんなか坊といわれて
いた。
 壱岐は人口四万人足らず、車で二時間も走れば一周できる小さな島で
ある。かっては大陸文化の交通路で、歴史的遺跡も多い。龍神崎の高台
には、元冦の際、弱冠十九歳で戦死をとげた武将、少弐資時の墓があ
る。朝鮮出兵に際し、秀吉が命じて築城させた武末城の遺構もある。江
戸時代には回船業が盛んで「玄海のフェネキア」と呼ぶ人もいる。
 島の自然は厳しくかつ豊かで、独特の景観を作り出している。豪壮な
左京鼻の眺め、はらほげ地蔵の並ぶ八幡の浦、白砂輝く筒城の浜、錦
浜。島一番の高台、岳の辻には民俗学者で歌人、折口信夫が島を訪れた
ときに詠んだ名歌
  葛の花踏みしだかれて
    色新らしこの山道を
      行きし人あり
の歌碑もある。
 しかし、島の基幹産業である農業や漁業は振るわず、若い人の多くは
高校を出ると島を去って行く。
 離島ブームで観光客は徐々に増えているが、島の経済を支えるには至
っていない。こういう壱岐を応援しようと、中部在住の壱岐出身者で「
中部壱州会」が昨年発足、私もそのお手伝いをすることになった。
 息をのむような男性的な玄海の夕景、素朴で贅沢なうにめしの味、昔
ながらの人情や風俗をいまなお残している壱岐を、一度ぜひ訪ねていた
だきたいと思うのである。   


   
中部電力・藤岡部長より、資料の提供を受けました。

      
故松永亀三郎氏の略歴

・大正 4年19903月2日 長崎県壱岐郡石田町に生まれる
・昭和11年4月       合同電気株式会社  入社
・  12年4月       東邦電力株式会社  引継
・  17年4月       中部配電株式会社  引継
・  26年5月       中部電力株式会社  引継
・  46年5月        同  社   取締役東京支社長
・  50年5月        同  社   取締役静岡支店長
・  52年6月        同  社   常務取締役
・  56年6月        同  社   代表取締役副社長
・  60年6月        同  社   代表取締役社長
・平成 3年6月        同  社   代表取締役会長
・   7年6月        同  社   相談役


・平成 3年5月  中部経済連合会 会長
・   3年5月  21世紀万国博覧会誘致推進協議会 会長
・   3年5月  中部新国際空港建設促進協議会 代表理事
    他、公職・団体等社外役職・関連会社役職等多数


・昭和59年4月     藍綬褒章 受章
・平成 7年4月     勲一等瑞宝章 受章
・   9年9月     従三位に叙せられる

・   9年9月29日  逝去


       
      松永安左エ門翁(トップ)