「歴史の研究」の翻訳
               
(02.6.8)


 
イギリスのトインビー博士は、西欧中心の歴史観でなく、イスラム、
仏教、それに特殊な存在としての日本にも着目して、各文明国の発展
を描いた「
歴史の研究」を著されました。

 
松永翁と親しかった、哲学者・仏教学者の鈴木大拙博士は、「歴史
の研究
」が日本人の間に読まれれば、敗戦でコンプレックスに陥って
いるのを克服する良薬になるのではないだろうかと説かれました。
 そこで、
松永翁は昭和29年(1954)9月、ロンドンを訪れた際、
トインビー博士に会い、翻訳刊行の許可を得られ、刊行会(電力中央研究
所内)
を設立されて会長に就任されました。

 この後の翁の情熱あふれる取り組みを、
水木楊氏(壱岐松永記念館も取材
されました)
は『爽やかなる熱情(日本経済新聞社発行)で、次のように紹
介されています。


 「帰国した松永は翻訳陣を整え、ライフワークとも言うべき作業に
取りかかる。邦訳が完成して出版となったのは、昭和四十一年(一九
六六年)四月である。その刊行の辞を書くため、松永はオスヴァルト
・シュベングラーの
西洋の没落」を原書で読み、赤や青の線で一杯
にした。
トインビーの「歴史の研究」が「西洋の没落」の影響を強く
受けていることを知っていたからだ。このとき、
松永九十二歳。驚く
べき頭脳とエネルギーである。
出来上がった大著を横にして、松永は
周囲の者に力説した。
 「日本人はいかにも視野が狭い。そのためにあんな戦争を始めて負
けてしまったんだ。これからの日本人は広い視野に立たねばならない。
それには、この『歴史の研究』を読ませるのが一番だね」


 
歴史の研究」は、松永翁が他界された翌年の昭和47年9月10
日に25巻が翻訳刊行され、完了しました。

 
松永翁の刊行の動機・経過を理解するために
刊行のことば」を
紹介します。

          刊行のことば

 アーノルド・ジョセフ・トインビー博士が、すぐれた歴史学者であ
る所以は、該博な知識もさることながら、深い哲学的思索によって裏
付けられているからであろう。
 ある西洋の学者は、『西洋の没落』の著者であるドイツの哲学者オ
スワルド・シュベングラーの思想がはいっているというが、トインビ
ー博士は、文明の歴史を六千年前まで遡って、考古学や新発掘品等に
よって、さらに科学的に跡付けることに努めている。蓋し、世間の云
う "歴史は繰り返す" という漠然たる感想をもって筆をとったので
もない。
 歴史は繰り返えしもあれば、そうでないこともある。変遷、発展の
過程において、繰り返えすというよりも、むしろ同似性、同時代性を
みたのである。そのうち、同似性は歴史の過程においては " 親と子"
の関係をもっており、"西欧文明" というものを、そうした見解から
指摘することによって、この西欧文明がいかに他の文明に影響を与え
たかということを丹念に述べんとしている。
 トインビー博士がこれらの考えを抱いてギリシアに遊学し、深く古
典を渉猟し、これによりギリシア・ローマの文明が、ローマ帝国の版
図である中欧・北欧、ブリテン諸島におよぶものと、ビザンチン帝国
の進出により、ロシアを含む東ヨーロッパの文明の二つの、大きな流
れを生み出しており、この文明社会が世界文明の中心になっていると
力説している。しかし、なお東方においては、四千五百年前の中国に
おける黄河流域の文明についても、大きな関心を寄せている。そうし
て、歴史の動きは必ずしも形態化され、また固定化されるものではな
く、例えば、アメリカ合衆国の独立により、新たな血液を西欧文明に
灌ぎ、その若返えりというよりはむしろ老化、衰退を防ぐことに役立
っているという見解は、最も注意すべき研究といわねばならない。
 いうまでもなく、トインビー博士は、第一次大戦に際しては、英国
外務省情報局にあって政府関係の仕事にたずさわり、大戦後のパリ平
和会議には英国代表団の一員になった。第二次大戦中は王立国際問題
研究所(チャタム・ハウス)の研究部長として、第一次大戦中と同様、
戦争の原因の研究に没頭し、第二次大戦後のパリ会議にも再び英国の
代表団に加わって、二度にわたる大戦争で十分な経験と研究を重ねて
いる。この実際面での活動は、博士の歴史研究に、非常に役立ったと
思う。すなわち、戦時中の記録・情報を数十人にのぼる人を使って整
理・調査したことは、戦争の起る遠因・近因について深く思索を練る
実験台となったであろう。私が一九五四年に博士を訪ねたのも、この
チャタム・ハウスであった。 そもそも、本書の出版を私に薦めたの
は、鈴木大拙博士である。大拙さんは私が一九五四年に海外へ出かけ
るに先立って、つぎのような見解を述べられた。

 「自分は、トインビー博士に貴君が行くことを手紙で知らせて置い
た。できるなら、博士の『歴史の研究』を日本人に読ませたいからだ。
戦前の日本人は、一種偏狂の頭でっかちで、物質面と精神面の調和を
とり損なって、識者からみれば判り切った敗戦という惨めな時代をつ
くり出した。戦後は反対に、工業力においても、生産技術においても、
世界のどこの国にも負けない状態になりながら、なおかつ敗戦と敗北
感につながるコンプレックスが、とくにインテリ的な指導者の間に甚
しい。『歴史の研究』が広く日本人に読まれることになれば、こうい
う傾向に対し良薬になるだろう。」

 私もこれを諒としてチャタム・ハウスにトインビー博士を訪ね、オ
ックスフォード大学出版部から『歴史の研究』全巻の日本語版の版権
を得たのであった。
 その頃、蝋山政道博士、長谷川松治教授らが、D・C・サマヴェル編
の縮抄版を出版された。これはなかなか良い本で、日本でも随分読ま
れ、今なお続いているのは結構である。しかし、如何にせん、縮抄は
どこまで行っても縮抄で、これによって原著のもつ精緻な論証を知る
ことはできない。例えばローマ帝国の崩壊については縮抄版でもかな
り原著に忠実に、大部を当ててはいるが、原著における支配的少数者
に替って、新しい社会を建設したローマ帝国の内的プロレタリアート
と外的プロレタリアートの協力による活動の論証、さらに全巻に溢れ
る考古学的考察、かずかずの歴史的例証などは、美しい宝玉を一つ一
つ点検するかの如く、完訳にしてはじめて納得しうるものであると信
ずる。
 私は、この旅行から帰ったのち、鈴木大拙博士に御教示を仰ぐ一方
翻訳を進めた。一九五六年には、トインビー博士が来日され、親しく
教えを蒙った。しかし、完訳の出版は原著のもつ格調を失わず、しか
も七千頁にのぼる浩翰な本文をことごとく訳了することは、たんに労
力だけの問題ではなかった。ある程度予想していたものの、この事業
は実際には予想以上に困難であった。また翻訳に関係した人が途中で
病に倒れるなどのことがあり、中絶のやむなきに至るかと思われた。
だが終始配慮してくれたのは下村亮一君で、数年前から下島連氏や山
口光朔教授らの協力を得て軌道にのり、ようやく完成の目途がついた。
 一九六五年に、オックスフォード出版局のチェスター氏が来日され
た折、スペイン語訳は順調に出版されているが、ある国では三年ばか
り前に、とうとう完訳の出版を断念し、翻訳権を返上してきたという
ことを話され、「他国語に翻訳することは、相当に困難でもあり、勇
気のいるものであるが、貴君のところは今まで一日も中断されていな
いではありませんか!」と、むしろはげまされた。こういう経過で刊
行会をつくり、やっと出版にこぎつけた次第である。
 トインビー博士が親しく筆をとって寄せられた序文にも見られるよ
うに、近くはアジアの旅行によって逐次思索を新たにし、認識を深め
られ、遂にはじめの予定を越えて、全十二巻を完成せられた精進の気
迫は、私はじめ刊行会の関係者一同を勇気ずけ、成功に導く動機をな
すものと信ずる。

     一九六六年三月
              
松 永 安 左 エ 門



でんきの戦後50年記念 電力の鬼 松永安左エ門展
(名古屋市中区・でんきの科学館・平成7年10月1日発行)より、中部電力(株)
より許諾を受けて転載しました
(中部壱州会長・坂本和久氏のご尽力を得ました。)

      
 A.j.トインビー博士と安左エ門
     

 昭和41年4月5日、トインビー博士の著書「歴史の研究」を日本語版
として刊行することを主目的とした刊行会を設立し会長に就任、同日「歴
史の研究」第1巻を刊行しました。(以後安左エ門の生存中に22巻を刊
行、没後、未刊であった3巻を刊行し、全25巻を発行しました。)昭和
42年11月には京都都ホテルにトインビー夫妻を訪ね、12月にはパ
レスホテルにて昼食を共にしています。

     アーノルド・ジョゼフ・トインビー 
(1889〜1975)
イギリスの歴史家。1911年、オックスフォード大学卒業。アテナイの考古学院の研
究生としてギリシアに行き、帰国後、母校で研究員としてギリシア・ローマの古代史研
究と授業にあたる。1914年の第一次世界大戦の勃発により「われわれは歴史の中に
いる」という実感に目覚める。1929年には太平洋問題調査委員として来日。王立国
際問題研究所理事、外務省調査部理事等を務める傍ら「ギリシャ歴史思想」「平和会議
後の世界」等を執筆。最も有名な著書は「歴史の研究」全25巻。

       
トインビー博士と寄せ書き
       

 トインビー博士と安左エ門がしたためた書であり、おそらくトインビー博士にとって
筆で文字を書くことは最初で最後のことであったと思われます。

安左エ門書
「長空不礎白雲飛」
 
意味
→白雲は悠々として大空を泳ぎ何ものもさえぎるものはない。

トインビー博士書

「The heart of the mystery of the universe cannot be
approached by one road only
 …Quintine Anvelins Symmockans ,
the last spokesman of the pre-Christian religion of Greece and
Rome.」
意味→宇宙の神秘神髄は、とうてい1人の頭脳をもっては極めることは出来ない。
      …クィンティン・アンベリンズ・シモカンズ
      
 キリスト教以前のギリシャ・ローマ宗教における最後の代弁者




      世界中の友とともに惜しむ
                
               
アーノルド・J・トインビー 

 
1971年6月16日、松永安左エ門翁の死去の知らせを受け、私
は深い悲しみにおちいりました。
 95歳の高齢よりすれば、死そのものは驚くに足りませんが、松永
翁は恰も死を知らぬ存在であるかの如く、私ども常に思っておりまし
た。事実、1967年に翁にお目にかかった折など、元気溌剌、まさ
に矍鑠たるものでした。
 妻と私は、松永翁の友人のなかに加えていただいていることを誇り
としていました。翁はその祖国である日本ばかりでなく、世界中に多
くの友人を持っておられ、また実は翁は、"最初の世界市民"であっ
たということができます。
 松永翁と個人的につきあう幸に恵まれたすべての人が、翁の活力と
進取の気性のなかに霊感を見出しております。翁の偉大なる人徳は大
きな影響力を有していました。
 いま、この言葉をつづっておりますロンドンのチャタム・ハウスで、
翁が私の浩瀚な著書である『歴史の研究』の全文の翻訳と、出版を計
画していることを話されたのは、1954年のことでありました。爾
来、翁と私自身とは、まことに並々ならぬ間柄になりました。それは
私にとって大事件でありました。松永翁のおかげで、私の著作が日本
の読者に読まれるようになりました。そして、世界中のあらゆる地域
の、多くの著述家が、日本の読書界と近づきたいと熱望しているので
す。
 この大事業は最終巻である第25巻の翻訳を終えて完成期が近いと
のことであります。翁の生前に完結しなかったことを残念に思います
が、翁はこの仕事の内容にはすべて目を通し、また刊行のスケジュー
ルの手配を済ませて、完成することを確信なさるところまではきてい
たということです。このことは松永翁の活力と雅量によって保証され
ていたのです。
 私は松永翁のこの事業の成就に協力されたすべての学者諸子ならび
に日本と世界の松永翁の友人の皆さんに、私の心からなる哀悼の意と
感謝の言葉をお送りいたします。
(『松永安左エ門翁の憶い出』上巻・電中研刊)
 
      

        
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