壱岐松永記念館のパンフレット
●「
楽しく科学とふれあう広場でんきの科学館(名古屋市中区栄二丁目2番5号 
 052-201-1026)
の「でんきの戦後50年記念 電力の鬼 松永安左エ門展
 
(平成7年10月)の冊子
●「
電力中央研究所」発行の『松永安左エ門翁の憶い出(下巻・昭和48年)
松阪直美(壱岐・芦辺町深江鶴亀触出身・作詞家)の『わが人生は闘争なり、
 松永安左エ門の世界

真鍋儀十(壱岐・芦辺町箱崎諸津触出身・元代議士)
 『
郷土の偉人  松永安左エ門翁・仝 一子夫人を語る
 を参考にしました。(
は、主として壱岐に関係のあるものです。

     松永安左ヱ門 年譜1
            
(01.12.25)

明治 8年 12月1日 ・長崎県壱岐郡石田村印通寺、松永家の長男と
          して出生。幼名・
亀之助

明治15年  8歳 ・石田小学校入学。
明治18年 11歳 ・長州出身の伊藤博文が総理大臣になったことに
           刺激を受け、学問をして立派な人物になろうと
           考え始める。
明治19年 12歳 ・石田小学校卒業
          ・郷ノ浦武生水第十七高等小学校に入学。親戚宅
           に寄宿しながら通学する。
          ・父、二代目安左エ門に上京勉学をせがむが早や
           すぎると、認められず。
明治20年 13歳 ・新大陸アメリカに渡り、事業家になろうと企て
           るが父の反対にあう。
明治22年 15歳 ・第十七高等小学校を卒業。上京し、
慶應義塾に
           
入学
明治23年 16歳 ・コレラに冒され入院。友人多数が死亡する中、
           九死に一生を得る。退院後、帰郷し療養。
明治24年 17歳 ・慶應に復学。
          ・アメリカ留学の夢を捨てきれず、サンマース英
           語学校にも通う。
明治26年 19歳 ・
父死去(38歳).三代目安左エ門を襲名。
          学業半ばにして慶應を退学
アメリカ留学も諦
           め家業を継ぐ。呉服・醸造・海産のうち、酒造
           業を譲渡し、その他は全廃する。
明治27年 20歳 ・日清戦争の波にのり、上海交易で大儲けをす
           る。
明治28年 21歳 ・
家業を弟・英太郎にゆだね上京、慶応義塾に
          復学する

明治29年 22歳 ・向かいに福沢諭吉が住む三田の寄宿舎に入舎。
           この頃より、諭吉の娘婿桃介と経済論で議論を
           するようになる。
明治31年 24歳 ・
福沢諭吉の記念帳に「わが人生は闘争なり」
          と書く。

明治32年 25歳 ・
福沢桃介の勧めにより、慶應義塾を中退し、
          日本銀行に就職する。
明治33年 26歳 ・日銀を退社し、福沢桃介とともに丸三商店を
          開設し、神戸支店長となる。
4か月後の7月、
           丸三商店破産、閉鎖となる。
明治34年 27歳 ・神戸を引き揚げて、一旦上京するが再び神戸に
           戻り、500円の小切手で
福松商会を創立す
          る。石炭販売業で成功する。

明治36年 29歳 ・福松商会九州若松支店を設ける。
明治37年 30歳 ・日露戦争勃発以来、石炭の取引が盛んになり、
           販売業で活躍する。

          ・
竹岡カズ一子・20歳・大分県中津市)と
           結婚。
 [父茂平(第一期町会議員) 母キヨ 
            長男・
吉太郎(市会議長・中津市長) 次男・陽一
               東邦電力社長)
 長女・キセ 次女・サエ 
            三女・
カズ]
           ※戸籍簿にはカズとなっているが、松永家に入
           ってからは、いつの間にか
一子の文字が使われ
           るようになり、一般的に一子夫人で通るように
           なる。
(真鍋)
  
明治39年 32歳 ・生活の本拠を大阪に移す。
          ・株に熱中し、大儲けをする。
明治40年 33歳 ・株の大暴落で破産。
          ・大阪角田町の自宅が火事で全焼。灘の住吉に家
           を買い、2年間の予定で勉学修養生活を始め
           る。
明治41年 34歳 ・広瀧水力電気の監査役に就任。
          ・大阪ガスと契約しねコークスの販売を始める。
           以後、コークスが家庭燃料として普及、また工
           業方面にも使われるようになる。
          ・桃介らと発起した福岡市内に電気軌道敷設の出
           願に対し、特許命令書が下される。
          
心機一転、壱岐生まれから「一州いっしゅう」と
           号す。
明治42年 35歳 ・
福博電気軌道株式会社を設立、専務に就任す
           る。
          ・社長は福沢桃介。
明治43年 36歳 ・常識よりはるかに安いコストと、工事開始から
           150日余りという超短期間で福博軌道を建設
           し、世間を驚かす。
          ・九州電気株式会社設立発起人総代として広瀧水
           力電気と合併契約を締結、九州電気の取締役と
           なる。
明治44年 37歳 ・九州電気常務に就任。
          ・久留米電燈の経営に加わる。
          ・博多電燈軌道の専務に就任。
明治45年 38歳 ・
博多電燈軌道(福博電軌と合併)は九州電気
大正 元年      
を合併し、九州電燈鉄道に商号変更、常務に
          就任。

          ・福沢桃介らと共に発起人となり、佐世保電気を
           創立。
          ・田中徳次郎らと共に発起人になり、糸島電燈を
           創立。
大正 2年 39歳 ・九州電燈鉄道は周囲に散在する小事業者5社
           (唐津軌道、糸島電燈、七山水力電気、佐世保
           電気、大諫電燈)を合併する。
          ・津屋崎電燈の経営に加わる。
大正 3年 40歳 ・
九州地方のガス会社10社を合併して、西
          部合同ガス株式会社
を創立、社長に就任す
          る。

          
※壱岐電燈株式会社設立する。
           
社長・松永安左エ門 
           
常務・長嶋主税(田河村・現芦辺町諸吉出身 
                  郡会議員・県会議員・田河村長 大正14年逝去
                  ・44歳 松永翁に電燈会社設立を懇願・
壱岐電
                  燈株式会社設立の功労者

           支配人・松永英太郎(松永翁舎弟) 
           
主任技師・市川春吉(九州電灯鉄道唐津営業所技師
                     後関西配電社長へ)

           所員・12名 
           
40キロワットモーター・一基
           
送電戸数・1203戸
           
離島では最初の事例てある。

大正 4年 40歳 ・母ミス死去。
          ・九州電燈鉄道は津屋崎電燈、宗像電気の事業を
           譲り受ける。
大正 5年 42歳 ・九州電燈鉄道は長崎電気瓦斯、馬関電燈、久留
           米電燈の3社を合併。→東は山口県から西は長
           崎県中心部までを掌握。
          ・諫早電燈、塩那電気、
九州耐火煉瓦会社を設
           立、
それぞれ社長に就任。
大正 6年 43歳 ・
博多商業会議所会頭に推される。
          ・
福岡市選出代議士に当選。
大正 7年 44歳 ・九州電燈鉄道は長府電燈の事業を譲り受ける。
          ・中国旅行に出かけ、奉天督軍張作霖と会見す
           る。

          
後藤正足氏(松永翁の恩師)、翁の経済的援助
           を受け、『
壱岐郷土史』を刊行する。

大正 8年 45歳 ・欧米視察旅行             
大正 9年 46歳 ・九州電燈鉄道は彦島電気を合併。
          ・第14回総選挙に立候補するが、落選し、政界
           より引退する。
          ・
雑誌の読者投票で、日本三大美男の一人に
          選ばれる。

大正10年 47歳 ・関西電気福社長に就任。
          ・関西電気は近隣の群小会社の統合に乗り出し、
           翌年6月までに知多電気、天竜川水力電気、北
           勢電気、愛岐電気興業、時水力電気、八幡水力
           電気、尾州電気を合併。
大正11年 48歳 ・
関西電気は九州電灯鉄道を合併。
          ・関西電気はガス事業などを分離し、新ガス会社
           を設立する方針のもとに名古屋瓦斯を合併。
          ・東邦瓦斯の監査役に就任。
          ・東邦電機工作所の監査役に就任。
          ・
関西電気は商号を東邦電力と変更、副社長に
           就任、同社の経営の責任者になる。本社を東京
           に移すことを決議。
          ・創立後未開業の岐阜興業の株式過半数を東邦電
           力が取得し、同社の商号を岐阜電力と改称、取
           締役に就任する。
          ・東邦蓄積を設立し、取締役に就任。
          ・5大電力(東京電燈、東邦電力、大同電力、日
           本電力、宇治川電気)といわれる時代を作り、
           その首位を争う。
大正12年 49歳 ・東邦電力の四市市、半田、津島、一宮における
           ガス事業を東邦ガスに譲渡る
          ・群馬電力の福社長に就任る
          ・わが国における超電力連系の研究を進め、東
           北、関東、関西を連絡し、各地のピークの時差
           を利用して電力の有効供給を目的とする送電会
           社の設立を計画する。
大正13年 50歳 ・早川電力の変態増資の目的で、東邦電力は早川
           興業を設立し、社長に就任。
          ・
社団法人日本電気協会会長に選任される。
          ・早川興業を早川電力に合併させる。
          ・早川電力の社長に就任。
          ・東邦電力は、愛知電気鉄道の電気供給事業の一
           部を譲り受ける。
          ・超電力連係の提案を基礎とする大日本送電株式
           会社創立案を発表。
          ・東邦電力全体の電力需給10年計画を策定。
          ・三河水力電気が創設され、早川電力はその株式
           の大部分を引き受けたので三河水力は東邦電力
           の傍系となり、取締役に就任。
          ・登山の趣味を持ち始める。
大正14年 51歳 ・寸又川水力電気社長に就任。
          ・早川電力と群馬電力を合併して東京電力を発
           足、副社長に就任。
          ・東邦電力は引佐電力の設備を買収。
          ・東邦証券を設立し、監査役に就任。
          ・九州送電を設立、監査役に就任。
大正15年 52歳 ・東邦電力、わが国の全電力会社にさきがけて力
昭和 元年      率料金制を実施。
          ・東京湾電気の取締役に就任。
          ・東邦電力は岐阜電力を合併。
          ・東邦電力は第二岐阜電力を設立し、岐阜電力と
           改称。
          ・須川電力の代表取締役に就任。
          ・日英米共同出資の日本電気証券が設立され、社
           長に就任。
          ・揖斐川電気の役員に就任。
昭和 2年 53歳 ・東邦電力の長崎市におけるガス事業を東邦瓦斯
           に譲渡。
昭和 3年 54歳 ・『
山登り』を刊行。
          ・日本動力協会が設置した五大電力首脳者わ中心
           とする電力統制委員会に委員として参加。
          ・電気事業の重複投資、不当競争の原因とその弊
           害を指摘した「電力統制私見」を発表。
          ・東京電燈の取締役に就任。
          ・
東邦電力の社長に就任
昭和 4年 55歳 ・逓信省の臨時電気事業調査会の委員に任命され
           る。
          ・欧米の電気事業を視察。
          ・東邦証券保有は新潟電気の株式の半分近くを保
           有し、同社は東邦電力の傍系会社になる。
          ・新潟電気の取締役になる。
          ・東邦電力は五島電燈の供給地域の一部を買収、
           また奥宇陀水力電気の事業を買収。
          ・
武蔵野柳瀬村に山荘を造営する。
          ・東北電気を設立し、社長に就任。
          ・東邦電力は室生村信用購買利用組合の電気事
           業、および岐阜電力の事業を譲り受ける。
昭和 5年 56歳 ・新潟電気を新潟水力に合併し、新潟電力と改称、
           社長に就任。
          ・中部電力創立に伴い、取締役に就任。
          ・東邦電力の奈良、四日市区域を合同電気に譲渡。
          ・東邦電力の豊橋区域を中部電力に譲渡。
          ・東邦電力は愛知・三重県下における東京電燈の事
           業の事業を譲り受ける。
昭和 6年 57歳 ・「電力統制案」を発表。
          ・『
自叙伝松永安左エ門』を刊行。
          ・東邦電力は愛知電力の事業を譲り受ける。
          ・東邦電力は玉島水電の事業を買収する。
          ・「電気日報」に五大電力の統制に関し「東邦電
           力松永社長案」を発表。
昭和 7年 58歳 ・
翁の支配資本は14億円に及び名実ともに日
          本の「
電力王」と呼ばれるようになる。
          ・東邦電力と合同電気との岐阜、三重区域の相互
           譲渡実施。
昭和 8年 59歳 ・満州事変以来、独善的反米的な風潮となり、軍
           官閥によって電気事業の圧迫が始まる。
          ・東邦電力下ノ関支店区域を山口県に譲渡。

          
玄界の涛に洗はれて(国民時論社)を刊行。
          
7月1日、19年目の壱岐帰省、550トンの北九州汽
           船の「睦丸」にて郷ノ浦に着く。
           7月2日、墓参、午後小学校の講堂で開かれた歓
           迎会に出席し、「愛の力」について演説。柏山
           校長の求めで「愛化育万物」と記念揮毫する。
          
山口麻太郎の郷土研究に経済的援助の
           約束をする。山口は、「
郷土研究所」を自宅に
           開設し、秘書を雇い、研究に没頭する。
          
瀬戸浦の倉光藤太(元代議士)氏の病気見舞い
           に行く。


       
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