河原書店茶道雑誌平成13年8月号に掲載された後藤正敏管理
の「松永安左ヱ門の足跡」を、河原書店および後藤氏の許諾を得て
転載します。なお、河原書店から、このホームページ以外への使用は禁
じられています。
(01.8.28)                                   


      
松永安左ヱ門翁の足跡
        −ふるさと壱岐でのことー

      
壱岐松永記念館管理者 後 藤 正 敏

 
松永安左ヱ門翁は、新しい日本の幕開けともいうべき明治八年(1875)
生を受け、明治・大正・昭和にかけて、電力の普及と振興に務め、とくに
敗戦後の日本の電力再編成と、電力事業の立て直しに力を注ぎ、今日の電
力界の基盤を確立するとともに、我が国の産業経済の発展に大きく貢献し
た偉大なる先覚者であり、「日本の電力王」「電力の鬼」と称せられまし
た。
 翁は進取の気性に富み、先見の明があり、無欲で負けず嫌いな性格でし
たから、これが世の中のためになる、人のためになると思うと勇気を持っ
て突き進んで行く明治気質の立派な指導者でした。安左ヱ門翁につきまし
ては多くの本が出ていますので、ここでは「ゆかりの地」という視点でい
くつかの足跡を紹介したいと思います。

           
誕生と旅立ち

 松永家は長崎県壱岐の島の石田町印通寺浦
いんどうじうらにあって、安左ヱ
門誕生の頃は造り酒屋に海産物問屋、回船問屋などを営んでいました。当
時松永家では毎月一日は「お竈
くどまつり」といって、酒蔵の前に莚むしろ
を敷き、使用人をはじめ家族ともども酒盛りをする習わしでした。明治八
年十二月一日、この日も恒例により「お竈まつり」が開かれておりまし
た。ちょうどその席に、お産に帰っていた母ミスの実家、瀬戸浦の赤木家
より男子誕生の朗報がもたらされ、みんな大喜びで「亀じゃ亀じゃ、亀之
助じゃ」ということになり亀之助という名前がつけられたということで
す。亀之助(後に安左ヱ門を名乗る)が産湯を使うために利用したとされ
る芦辺町瀬戸浦「貴船神社」前の井戸の側には、この付近の有志の方々が
建立されたのでしょう、「電力王 松永安左ヱ門産湯の井戸」と彫られた
小さな石碑がございます。

       
        
芦辺町瀬戸浦にある産湯の井戸

 亀之助は十一歳のとき、父より「平民出身である伊藤博文さんが、天皇
の次に偉い総理大臣になった」と聞き、平民から総理大臣になれるのなら
「俺もやったろうではないか」という気持ちになったそうです。お父さん
も良くできた人で、亀之助が勉強したければさせてやろうという気持ちを
もつていましたので話が進み、福沢諭吉先生の「天は人の上に人をつくら
ず,人の下に人をつくらず」の『学問のすすめ』を読んでいた亀之助は、
行かせてもらえるなら慶應に行かせて戴きたいということで、慶應で勉強
することになりました。当時、鳥も通わぬ玄界灘
げんかいなだといわれる離
島壱岐、よほどのことがないかぎり、交通不便で、経済的にも負担のかか
る本土、しかも東京へ子どもを勉強に出せるような家庭はなかったと思わ
れますが、松永本家から独立し、種々の苦労と困難を乗り越え、新しい松
永家を興しただけあって、安左ヱ門の家庭は思いきりのよい家庭だったと
思われます。
 こうして亀之助は大きな人生への船出をし、福沢諭吉先生、その娘婿福
沢桃介氏とのふれ合いによって、その後の人生を大きく伐り拓いてゆくこ
ととなるのです。

           
壱岐松永記念館

      
      
松永安左ヱ門の現在の生家(壱岐松永記念館内)

 
明治二十八年(1895)、安左ヱ門は慶應義塾に復学するにあたり、
家督を弟英太郎に譲り、再び上京してからはあまり郷里に帰ることもあり
ませんでした。昭和三十四年(1959)七月、八十四歳のとき、翁はヘ
リコプターに乗り、墓参のため故郷の小学校運動場に降り立ちました。
 運動場には安左ヱ門をひとめ見ようと大勢の村人たちが出迎え、講堂で
挨拶があるというのでそちらのほうにも島内各地より多数の有志が集まっ
ておられました。壇上にあがった安左ヱ門翁は「久しぶりに里帰りしまし
たが、どなたもお変わりなくなによりです。みなさんにあえてよかったで
す」と、いとも簡単な挨拶で終わってしまいました。どんな話をされるだ
ろうかと、内心期待もしていたであろう人々は、しばらく拍子抜けの様子
でした。安左ヱ門翁にとっては、故郷に錦を飾るといった場ではなく、先
祖の墓参に帰ったというごく私的な思いであったのでしょうか。そのお
り、時の石田村の横山孝雄村長より「島民のみなさんの間に松永記念館を
設立したいという声がありますが」と記念館設立の申し出がなされました
が、あっさり断られてしまいました。それから十年後に多くの人々の間に
この件が再燃し、ようやく承諾を得られ、全国の電力会社および関連企業
・地元壱岐四町ならびに経済団体等の浄財と、生家の所有者である安左ヱ
門翁の甥にあたられる松永吉二郎氏より、土地建物のご寄贈をいただい
て、昭和四十六年(1971)八月一日安左ヱ門翁の生家跡地に「壱岐松
永記念館」が設立されたのでした。
 館内の展示物は、翁生前の遺品や書、本人が貰うのを喜ばなかったとい
う勲章類、写真家杉山吉良
きら氏撮影による人間安左ヱ門といいますか、
飾り気のない普段着の安左ヱ門翁の素晴らしい写真が展示してあります。
また、本人が電力関係に入るきっかけとなりましたのは明治四十三年(1
910)福岡市に初めて市内電車を走らせたことだということで、福岡市
内を走っていました電車の車両も展示してあります。

      
             
鈍翁筆耳庵扁額

 耳庵
じあん(翁の雅号)愛用の茶器・美術品等は、長い間福岡市にお世話に
なったということで福岡市美術館に寄贈されております。

        
          
松永翁93歳の時、揮毫された扁額

 鳥も通わぬ玄界灘!といわれた壱岐の島も、昨今は交通の便がとても良
くなり、島外よりたくさんの観光客が、大型観光バスごと乗り込んで見え
るようになりました。しかしながらスケジュールの関係や、時間的制約の
ため松永記念館に立ち寄られる割合はとても少ないのが現状です。それよ
りも五人六人から二十人程度の小グループの方々がよく立ち寄って下さい
ます。ご来館いただいて私の拙い説明を聴いて下さった方々は、「こんな
立派な方が壱岐の島から出られたのですか、少しもしりませんでした」と
か「島内あちこち見て回りましたが、ここが一番勉強になりました。来た
甲斐がございました」とか、「今の日本こそ、安左ヱ門さんのような立派
な指導者がいて欲しいものですね」などと、、安左ヱ門待望論が多く聴か
れます。今の日本国民の切なる願いではないでしょうか。
 毎年、壱岐島内の小学校から四年生の児童のみなさんが、社会科の学習
のため、来館いたします。安左ヱ門の偉大さをいかに手短に、いかにわか
りやすく説明するか、とても気苦労しますが、これからの日本を背負って
立つみなさんの心のどこかに、安左ヱ門翁の人となりが刻みこまれ、人生
の支えになればと願うとともに、安左ヱ門翁に次ぐ人材が生まれることを
願いながら頑張っています。

※写真は、「壱岐松永記念館の玄関前の広場」と「同 展示室」が掲載してありました
が、前者は他のページに出していますので除き、後者は手持ちのパンフレットにありま
せんでしたので、「
不老」の扁額に替えました。なお、「耳庵」の扁額の所在の問合わせ
がありましたので、後藤管理者より写真を送付してもらい、挿入しました。


           
茶道雑誌
          定価 620円(送料別)
            (本体 590円)
※平成13年8月28日現在
          一年  7440円(送料共)
          半年  3720円( 〃 )
  
編集兼発行者       河 原  紀 久 子
  
発行所    株式会社 河 原 書 店 
  
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