(財)電力中央研究所
(昭和26年11月7日設立)は、創立50周年記念誌』
を発行(平成13年11月)されました。
 寄贈いただきましたので、松永翁に関連ある内容を、広報部の許諾を
得て転載します。
(01.11.16)


   
      
技ありて 未来あり
    人ありて 技あり  
@ 


■目次
第一章 
エネルギー産業の近代化を担う電中研を設立
   
  ◆初代理事長 大西 栄一 ◆第二代理事長 松永 安左エ門

第二章 新しい時代に向けて自ら歩み始めた電中研

     ◆第三代理事長 横山通夫 ◆第四代理事長 成田 浩

第三章 「21世紀のセンター・オブ・エクセレンス」をめざして
    
◆第五代理事長 依田 直

電力中央研究所に付き

対 談 50年の歴史と新たな取り組み
    
作家 上坂 冬子  理事長 佐藤 太英

 
第一章 エネルギー産業の
     近代化を担う電中研を設立


    
電力王・電力の鬼と呼ばれた男が言った…
    新しい時代に「電力技術の専門家が必要だ」


      
        
松永安左エ門(S42・92歳)

 電力中央研究所(以下、電中研)五十年の歩みを振り返る時、ある人
物の存在を抜きにして語ることはできない。その名は、松永安左エ門。
電気事業の今日をかたちづくり、電中研を誕生させた、いわば日本の電
気事業の父である。
 昭和二十年、第二次大戦終結により、日本の新しい国づくりがスター
トした。焼け跡からの復興、そして国の再建が始まった。その幕を開け
たのは、GHQ(連合国総司令部)であり、日本の民主化を柱として、
財閥解体、農地開放、そして電気事業の民営化を押進めようとしてい
た。政府(吉田内閣)は、昭和二十四年に委員長・松永安左エ門を含む
五委員からなる「電気事業再編成審議会」を設置し、これにあたった。
 このとき松永は、七十四歳。戦前は九州から関西、中部、関東の電力
会社を傘下におさめる電力王であったが、軍部による電力の国家管理に
くみするを潔しとせず、六十一歳で実業界を離れていた。以来、電力と
の関係を捨て、武蔵野の山荘にこもり、耳庵≠ニ号して茶道三昧の生
活を送っていた。そんな松永がなぜ、十年間のブランクを経て、再び表
舞台に立つことになったのか。それは、電気事業に精通していたこと、
戦争に反対を唱え、自由主義をつらぬいていたことなどが、GHQ主導
の審議会にふさわしいと目されたからである。実際、戦時の電気事業下
で、軍部とのかかわりを持たない電力関係者は、松永以外にほとんど見
当たらなかった。
 松永の方も、いつか自分の出番がやって来ることを予想していたので
はないだろうか。終戦の日、知人らが「戦争に負けてしまって、しばら
くアメリカの言うことをハイハイと素直に聞かなければなりませんね」
と言った。これを耳にした松永は「馬鹿者!これから日本はアメリカと
戦争を始めるんだ。それは、武力を使わない経済戦争だ」と大声で怒鳴
った。焦土と化した日本で、多くの国民が明日を知れない不安を抱えて
いたこの時期、大国アメリカと経済戦争を始めるなど、空言としか受け
取れなかった。が、その後の日本がどうなったか。今改めて、言うまで
もない。

        
       
   戦後、松永翁が住居とした老欅荘
       
(現在、松永記念館老欅荘として公開。小田原市)

 戦後の復興において、産業や人々の生活を支える電力がいかに重要か
を知っていた松永は、それまでの日本発送電(株)と九配電会社の体制
を改め、自主自営の電力民営化・九分割案を提唱する。これは、松永が
民は官より尊し≠ニいう恩師・福沢諭吉に深く共感し、「民営化をつ
づけてこそ自由競争の原理が働き、豊富で低廉な電力を供給できる。こ
れによってあらゆる産業が低価なエネルギー源を利用して繁栄してい
く」という信念をもっていたからである。この考えは、今日の電力自由
化にも通じるものがある。
 しかし、電気事業再編成審議会の他の四委員および政官財界は分割案
に反対し、国策会社を実質的に残そうとする案を主張。松永と真っ向か
ら対立し、その後も意見の一致を見ず、審議会は二本立ての答申を行っ
た。
 死に体であった九分割案だが、松永は高齢を押して幾度となくGHQ
に足を運んだ。そして、自分の考えを繰り返し、根気よく説明し、決し
てあきらめることはなかった。
 運命の日となる昭和二十五年十月二十一日、GHQはマッカーサー総
司令官の書簡により、吉田首相に対しポッダム政令を発令した。なん
と、それは松永案に基づく電力再編成であった。ポツダム政令は、国会
審議を経ていなくても受け入れなければならない連合国最高司令部の特
別命令である。国会をはじめ世間はこの大逆転劇で大騒ぎとなったが、
松永は大粒の涙を流して感激したという。
 こうして電気事業再編成の実行機関である「公益事業委員会」が設置
され、昭和二十六年五月一日に民営九電力体制が発足した。当時の電力
各社は、朝鮮戦争による特需で電力需要は増えていたが、設備や資金面
で苦しい経営をしいられていた。早速、委員会は適正価格に基づく採算
可能な電気料金の算出を各電力会社に依頼した。ところが、出てきた電
気料金は七十%以上の大幅値上げだったから、大変だ。当然、世論は強
く反発した。これに対して松永は「十年先、二十年先の電力の需要を見
通した投資をするためには、料金の値上げが必要であり、それが日本の
復興につながる」という信念で立ち向かった。国会の場で、値上げに反
対する主婦連を相手に、松永が「電気事業は、牧場で牛を飼うようなも
のである。乳をとるためには、牛にエサをやらなければならない。乳は
とりたいが、エサをやるのはイヤだということを仰せられませんよう
に」と説得した話は有名である。
 明日の電気事業のため、松永は知恵と人力を惜しまなかった。松永の
目はいつも未来を見据えており、さらなる構想を描いていた。その一つ
が電気事業共通の研究所であった。
 この構想は、松永が昭和二十三年に提出した電気事業再編成の基本方
針の中に見ることができる。「電力経済ならびに電力技術の調査、研究
を盛んにするため、必要なる機関を設置または拡充し、さらなる専門家
の養成を行い、電気事業の健全なる進歩発展を図る…」。松永は、戦後
の電気事業において、研究開発とスペシャリストの養成が必要不可欠と
考えていたのである。
 この理念のもと、松永を中心とした電力各社と公益事業委員会は、日
本発送電の資産をもとに、新電力会社発足からわずか半年の昭和二十六
年十一月七日、東京郊外の狛江の地に『財団法人 電力技術研究所』を
設立させた。理事長には前日本発送電総裁の大西栄一が就任し、百三十
六人でスタートした。
 初代理事長になった大西は、ダム土木の権威で工学博士、日本発送電
時代は優れた経営手腕を発揮、戦前戦後を通じてわが国の発電水力開発
の先駆的役割を果たした人物である。とくに戦後まもなく、米国の海外
技術調査団を招くなどして、佐久間、奥只見、田子倉等の大規模水力開
発の緒をつくった功績は大きい。電中研理事長になってからも技術の改
善と向上に尽力する一方、国際大ダム会議加入を主唱し、日本国内委員
会初代会長となり、大規模ダム技術の発展に努めた。昭和二十八年四月
に松永が二代目理事長に就任し、大西は理事長代理に退いたため理事長
としての任期はずか一年半と短かった。いかめしい顔つきであったが、
大西は高潔で滋味豊かな人柄で人望を集めた。
 また、研究所のマークは、電力技術研究所時代に所内募集をしたもの
だが、審査して選ばれたのは大西理事長自身の案であった。
 "Electric Power Research Laboratory"の頭文字を組み合わせ
たデザインで、大西のセンスがうかがえる。このマークは電力中央研究
所に改称された後も使用され、昭和四十年十一月に松永理事長が「前身
の研究所以来の歴史的なものであるから大いに尊重して、引き続き当研
究所のマークとして使用する」と、正式に決定した。

 
   明日の電気事業を先取る松永翁のもと
    電中研が先進のテクノロジーを発信

 
電力技術研究所は当初、技術の調査研究を目的に設立された。しか
し、松永は「より適切な料金体系を電力会社に提言し、一般業務の効率
化にも寄与できるような電力経済分野の併設および諸計算機の整備が必
要である」と考えていた。
 そこで、昭和二十七年七月、設立二年目の電力技術研究所の研究内容
に電力経済に関する研究を追加して、名称を『電力中央研究所』に変更
した。現在も電中研には『経済社会研究所』があり、外部から「科学技
術の研究所に、経済社会の研究分野があるのは珍しい」と言われるが、
これは松永の一流の実業人としての発想からであり、現在もシンクタ
ンク・電中研≠ニして大きな特長をなしている。
 松永は後にこんなことを言っている。「どんな事業、どんな計画も抽
象論じゃいけないね。…実際においては、能力と技術面を根本からまず
築き上げておくべきだ。そうしなければ、事業や計画のベースがないこ
とになる」と。直接ではないが、まさに電気事業における電中研の役割
を指摘している。
 さらに松永は、九電力会社がそれぞれに研究開発することは合理的で
ない、電気事業共通の課題は一つの研究機関で総合的、効率的に取り組
むべきだという考えに基づいて、電力各社から給付金を受け、電中研を
運営するしくみをつくりあげた。財団法人でこのようなしくみは珍し
く、電中研が初めての試みであった。自由に研究開発ができる研究所を
めざした松永の理念がうかがえる。
 昭和二十八四月、電中研の二代目理事長に就任した松永は、電気事業
をリードする重鎮として活躍する場をさらに広げていった。昭和二十九
年、七十九歳の松永は三カ月にわたり欧米を視察した。その結果、日本
の復興には民間の力を総合して、産業計画を審議・提言する場が必要で
あると考え、昭和三十一年三月に自らが主宰する『産業計画会議』を発
足させた。委員長は松永、日本の政・財・学・官界のトップリーダー約
百二十人の委員で構成し、さらに常任委員会を設けて研究会や意見の交
換を行った。電中研内に置かれた事務局では、職員が中心となって活動
し、外部の学識経験者の協力を得て、さまざまな調査・活動を展開し
た。
 産業計画会議でもっとも注目を集めたのは、昭和三十一年から四十三
年までの十六次にわたるレコメンデーション(勧告)である。その内容
はかなり厳しく反発も多かったが、専売公社の廃止、国鉄の民営化、高
速道路の整備、東京湾横断堤など、現在そのほとんどが実現している。
 八十代の高齢をものともせず精力的に活動を続ける松永は、人一倍の
勉強家であり、研究熱心であった。理事長室や秘書室で新聞や雑誌を広
げ、天眼鏡を片手に赤鉛筆で線を引くのが日課であり、もっと知りたけ
ればその道の第一人者を呼んで直接話を聞いた。
 ある日、松永は秘書を呼び「ちょっと買い物を頼む」と言って懐から
厚く膨らんだ財布を出した。その財布はなぜかゴムひもでまかれてあっ
たが、すぐに理由がわかった。
 財布の中はお金よりも新聞・雑誌の切り抜きでいっぱいだったのであ
る。これほどの勉強家である松永に対して、生半可な知識の者は太刀打
ちできるはずがない。理事長室や会議室では、しばしば松永の怒鳴り声
が響きわたったという。
 どんな偉い財界人であれ、役人であれ、しかりとばす松永であった
が、一方では「おじいちゃん」と慕われる面があった。女性に対して大
きな声を出すことはなかったし、電中研の研究員には「がんばってくだ
さい」と気軽に声をかけ、彼らの声にも耳を傾けた。赤城山麓の広大な
配電実験場の設置、直流送電や50万V送電の研究開発は、松永が研究
員の発案を実践に移したものである。また、待遇面においても、昭和三
十六年に日本初の週休二日制を導入したほか、夏時間を採用し、研究員
のスポーツを奨励した。
 ただし、松永の勉強熱心が電中研の職員を困惑させることもあった。
当時、『頭のよくなる本』がベストセラーになり、「米を食べると頭の
働きが鈍くなる」という説が広まった。すっかり信じた松永は、食事を
パンかそばに改めた。これを耳にした狛江の研究所の食堂も、松永に合
わせてご飯をやめてパン食にした。当分それが続いたが、さすがに職員
らの評判が悪く、またご飯に戻したという経緯がある。松永の方はご飯
をまったく食べなかったわけでなく、大好物のウナギのときだけは別だ
ったという。
 この松永だったが、電気事業については的をはずすことはなかった。
最初に取りかかった仕事は電力設備の近代化と電源開発の推進であっ
た。会議では、図面を床に広げ、なりふり構わず四つんばいになって見
入った。ダム建設があると聞けば、現地を知らなければダメだと山中に
も分け入った。
 そして、高度経済成長に伴う大容量火力発電の時代をいち早く予測
し、水主火従≠フ電源開発を火主水従≠ニし、燃料も石炭から石油
へと移し始めた。昭和三十一年には、世界的にも例のない発電用大型ボ
イラーの原料燃焼に向け、原油生だき実験を行っている。

    
     
高速増殖炉共同研究のためのフェルミ炉委員会(S41〜48)

 さらに、大型火力発電を推進しつつ、将来は原子力エネルギーへの移
行を見通して、高速増殖炉(FBR)に着目し、昭和四十一年に電中研
に事務所をおく『日本フェルミ炉委員会』を発足させた。電力業界の識
者や技術者を米国シカゴ大学へ派遣し、技術の取得に努めた。日本のF
BRの先駆者の多くは、このときに研修した人たちである。
 超高圧送電に関する試験研究を行う『(財)超高圧電力研究所』は昭
和三十三年に設立され、日本初の50万V送電開始に向けて研究を行っ
た(同研究所は、昭和五十二年に解散したが、その事業は電中研超高圧
電力研究所として継承され、武山試験センターを経て現在の横須賀研究
所に引き継がれている)。
 ユニークな研究開発もある。昭和三十二年、農業の電化・機械化を目
的に『農電研究所』を設立したが、当初は「松永の道楽研究だ」という
声もあった(同研究所は、生物環境研究所となり、昭和六十一年に土木
研究所と統合し、我孫子研究所となる)。研究所では設立の前年に「水
稲の箱育苗および田植え機械化技術」を開発した(この研究は、四十年
後の農業試験研究一世紀を記念して、農林大臣賞を受賞した)。これ
は、現在の自動田植え機の基礎となる技術である。当時、研究員は特許
を考えたが、「電気利用の研究で、特許を取ることはよくない。これ
は、公表・公開して農業の発展に寄与しなさい」と松永の一言で特許申
請をしなかった。このほか同研究所では、硫黄を食べるバクテリア(脱
硫細菌)を使って石油の中の硫黄を除去する研究なども行っている。
 また、昭和四十四年六月には、電気事業研究の国際的な協力と情報交
換の必要性を提唱し、IERE(電気事業研究国際協力機構)を発足さ
せるなど、松永は国内外に視野を広げ、今日ある電気事業と研究開発の
基礎を築き上げていった。

      
        
トインビー著『歴史の研究』の日本語訳に着手
                
(S41年、松永翁90歳)

 松永は、学術文化についても情熱を注いでいる。英国の歴史学者アー
ノルド・トインビー著『歴史の研究』全巻の邦訳を手がけたほか、日本
の古美術の海外流出に心を痛め、国宝『釈迦金棺出現図』などを買い集
めて、(財)松永記念館で公開した。
 「金や名誉に執着する者はいい仕事ができない。今、オレがやらなけ
ればだれがやる」という気概で電気事業の近代化を推し進めてきた松永
であったが、昭和四十六年六月十六日、東京の慶應病院で息を引きとっ
た。享年九十五歳、戦争下の隠居時代を除けば、生涯現役を通した松永
であった。
 松永を惜しむ声が強かったが、社会の時計は止まることがない。当時
の日本経済は高度経済成長期にあり、だれ一人として順風満帆の未来を
信じて疑わなかった。しかし、晩年の松永は周囲の者にこんなことを洩
らしていたという。「これからは大変な時代になるよ」と。果たして、
松永が何を予測していたのだろうか。


      
      
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