松永安左ヱ門 年譜2
             (02.1.18)

昭和 9年 60歳 ・諸戸清六に東京麹町の別邸の茶会に招かれる。
          ・東邦電力の福岡市内における電気軌道と博多電
           気軌道とを合併して、新たに福博電車を設立す
           ることとし、軌道事業およびそれに属する財産
           を福博電車に譲渡する。
          ・弟英太郎の長男安太郎と養子縁組をする。
          ・東邦電力が受託経営中の九州水力電気の福岡市
           内における電灯供給権、地下配電線50馬力未
           満の電力供給権およびこれに属する財産を譲り
           受ける。
          ・
杉山茂丸より、自動車いっぱい分の茶道具を
          贈られる。
         
茶道を趣味とし、論語の六十にして耳に順
          う、七十にして矩を越えず≠ゥら「
耳庵」と
          号す。

         
・東邦電力は三池・武雄間の送電線および武雄変
           電所の設備を九州電力から譲り受ける。
昭和10年 61歳 ・熱海の小雨荘に、杉山茂丸・福沢桃介らを茶事
           に招く。
          
主催招待を含めて、以後頻繁に茶事に出席
          する。
         
・大同電力と共同で愛知水力を創立、初代社長に
           就任する。
昭和11年 62歳 ・東邦電力、日本電力、大同電力など7社の共同
           出資による中部共同火力発電を設立、社長に就
           任。
昭和12年 63歳 ・長崎商工会議所主催の座談会の席上、産業合理
           化につき発言中「官吏は人間の屑だ」と語り、
           いわゆる長崎事件を起す。
          ・東邦電力は合同電気を合併する。
          ・東邦電力は諫早電燈、平戸電燈製氷の電気事業
           を譲り受ける。
          ・東邦電力は中部電力を合併する。
          ・東邦電力は松阪市内におけるガス事業を合同ガ
           スに譲渡する。
          ・東邦電力は徳島市内におけるガス事業を徳島ガ
           スに譲渡する。
          ・
逓信省において開催された臨時電力調査会第
          一回総会に出席し、
激論を戦わせる
この後、
           第二回総会において業界案として「電力統制要
           綱案」が出される。
          ・東邦電力は肥前電気の事業を譲り受ける。
          ・
財団法人東邦産業研究所設立。
          
(日華事変勃発・7月7日
昭和13年 64歳 ・『
茶道三年』を発行。
          ・東邦電力多治見区域の事業を中部合同電気へ譲
           渡する。
          ・北海道樺太視察。
          ・日本発送電の設立委員に就任。
          ・東北地方視察。
          ・伊豆堂ヶ島の岩山を購入。
          (福沢桃介死去・71歳)
          (
国家総動員法公布4月1日
          (電力管理法、日本発送電株式会社法公布・
4月5日
昭和14年 65歳 ・東邦電力は濃飛電力をはじめ計17社の事業を
           譲り受ける。
          ・東邦電力は東邦証券保有を合併する。
          ・東邦電力の宇治山田市を中心とする電車事業を
           神都交通へ譲渡。
          ・電力界から手を引き、
茶道三昧の生活に入る。
          ・
伊豆堂ヶ島に一日庵を建てる。
          ・
武蔵野柳瀬山荘内に照月軒と自在軒が完成。
          (日本発送電会社創立)
          (
第2次世界大戦勃発9月1日
昭和15年 66歳 ・九州、朝鮮方面産業視察。
          ・東邦電力は有浦電気の事業を譲り受ける。
          ・東邦電力は和歌山市を中心とする電軌事業を和
           歌山電気軌道に譲渡する。
          ・東邦電力の代表取締役会長に就任(
11月13日
          ・近衛首相らによって大政翼賛会総裁や大蔵大臣
           に推されるが
、公職を一切断る。
         
この頃より柳瀬山荘に閑居する。
昭和16年 67歳 ・東邦電力は知多湾電気の事業を譲り受ける。
          ・東邦電力は篠島電気の事業を譲り受ける。
          ・東邦電力の代表取締役を辞任し、
取締役会長
           なる。(
8月25日
          (
配電統制令公布8月30日
          (
太平洋戦争に突入12月8日
昭和17年 68歳 ・東邦電力は電気事業設備を日本発送電および中
           部、関西、四国、九州の各配電会社に出資して
           解散、清算事務に入る。
取締役会長が解かれる
            
 (9配電会社発足4月1日
昭和18年 69歳 ・新聞、ラジオ等の情報には一切触れず、世俗か
           ら縁を断つ。
昭和19年 70歳 ・『
茶道春秋』を刊行。
昭和20年 71歳 (広島、長崎に原爆投下・
8月
          (
第2次世界大戦終戦8月15日
昭和21年 72歳 ・東邦産業研究所理事長に復帰。
          ・柳瀬山荘を、収集した美術品とともに
国立博物
           館に寄付
。小田原に建てた新居に移り住む。
昭和22年 73歳 ・有力者と日本再建を計画。
昭和23年 74歳 ・『
桑楡録』を刊行。
昭和24年 75歳 ・電力問題、日本の再建などを論じた随筆『
折り
           に触れて
』を出版。
          ・
電気事業再編成審議会会長に選ばれる。
昭和25年 76歳 ・電気事業再編成審議会では、総司令部の十分割
           案を棄却。電力融通会社を含む
分割案(本案)
          と
松永会長案(参考案)の2本並列提案
に決
           定。
          ・審議会は第17回会議をもつて
2つの答申案を
           
を提出し、解散
          ・『
我が茶日夕』を刊行。
          ・
自由党政調会特別委員会の求めで再編成審議
          会の経過及び
松永案について見解を述べる。
          ・
随筆『淡々録』を刊行。
          ・
公益事業委員会委員長代理に就任、国家管理に
           よって失敗した
日本電気事業の実権を握る
          ・公益委員会と総司令部の協議で、翌26年6
          月からの
新会社発足が決定。
昭和26年 77歳 電力事業再編成(民営化)を強行し、「電力
          の鬼
」と俗称される

          (
9電力会社発足
昭和27年 78歳 ・自叙伝『
松永安左エ門』を発行。
          ・公益事業委員会廃止により職を解かれる。
昭和28年 79歳 ・財団法人
電力中央研究所理事長に就任。
          ・東南アジア関係の国内諸団体を統合し、アジア
           経済調査会を設立、議長に就任。
          ・随筆『
勇気ある自由』を刊行。
昭和29年 80歳 ・随筆『
私の人生読本』を刊行。
          ・弟英太郎死去。
          ・欧米視察旅行。
          ・
天皇陛下、堂ヶ島の一日庵にお立ち寄りに
          なる。
外欧中のため、嗣子安太郎お出迎え申
           し上ぐ。
昭和30年 81歳 ・『悔いなき人生の記』を刊行。
          ・
電力設備近代化調査委員会(後の電気事業近
           代化計画委員会)を設立。
          ・重要美術品
仁清作「吉野山図茶壷」を入手。
          ・
電力設備近代化調査委員長として第1次近代
           
化構想を発表。
          ・『
八十青年の欧米視察録』を刊行。
          ・
石油時代到来、原子力は20年先と予言
           
る。
昭和31年 82歳 ・
電力設備第2次近代化構想発表。
          ・かねてから構想していた新しい国造りのための
           政・財・学界を網羅する人選の、
産業計画会議
          委員長
に就任し、次々に勧告案を出す。
          ・
産業計画会議第1次勧告日本経済たてなお
          しのための勧告―エネルギー、税制、道路に
           ついて
」を発表。
昭和32年 83歳 ・
産業計画会議第2次勧告「北海道の開発はど
          うあるべきか」
を発表。
          ・
電力設備第3次近代化構想発表。
昭和33年 84歳 ・
産業計画会議第3次勧告「東京神戸間高速自
          動車道路について」
を発表。
          ・随筆『
世渡り太閤記』を刊行。
          ・
産業計画会議第4次勧告「国鉄は根本的整備
          が必要である」
第5次勧告「水問題の危機
          は迫っている」
を同時に発表。
          ・財団法人
超高圧電力研究所理事長に就任。
          ・
電力第4次近代化構想を発表。
          ・
一子夫人死去。
          ・
産業計画会議第6次勧告「あやまれるエネル
          ギー政策」
を発表。
昭和34年 85歳 ・
平林寺に一子夫人の墓碑建立
          
産業計画会議第7次勧告「東京湾二億坪埋
          め立てについて」、
第8次勧告「東京の水は
          利根川から」、
第9次勧告「減価償却制度は
          如何に改善すべきか」
を同時発表。
          ・美術品の保存のために財団法人
小田原松永記
          念館
を邸内に設立した。

          
墓参のため、ヘリコプターにて郷土壱岐を訪問
           する。海上には万一に備え、海上保安部より艦
           艇が護衛に出動。

昭和35年 86歳 ・
産業計画会議第10次勧告「専売制度の廃
          止を勧告する。」
を発表。
          ・電気新聞に「
老欅荘夜話」の連載を開始する。
          ・
産業計画会議11次勧告「海運を全滅から
          救え」
を発表。
昭和36年 87歳 ・国宝「
釈迦金柑出現図」を入手。
          ・
産業計画会議第12次勧告「東京湾に横断
          堤を」
を発表。
          ・財団法人
日本地熱調査会会長。
昭和37年 88歳 ・産業計画会議にて作成した「吉野川総合開発
           調査報告書」を四国の水資源の基本対策とし
           て発表。
          ・随筆「
出たとこ勝負」を刊行。
          ・松泉会主催の
米寿祝賀会に出席し、祝福を
           受ける。
昭和38年 89歳 ・産業会議で作成した「
才能開発への道」に
           より科学技術の創造的英才教育を提唱。
          ・
松永記念科学振興財団名誉会長に就任。
昭和39年 90歳 ・『
人間福沢諭吉』を刊行。
          ・
産業計画会議第13次勧告「産業計画会議の
          提案する新東京国際空港」
を発表。
          ・
勲一等瑞宝章を贈られるが授賞式には欠席。
昭和40年 91歳 ・
産業計画会議第14次勧告「原子力政策の
          
 確立を要望する」を発表。
          ・皇太子殿下に「
電気事業の現状」を御進講す
           る。
          ・
産業計画会議「国際石油情勢と日本の石
          油政策」
について長期的国策樹立を提唱。
          ・随筆『
人つくり国つくり』を刊行。
昭和41年 92歳 ・
産業計画会議で農政の転換を策した「15年
          後(1980年)の日本農業―高生産性農業の
          形式―
」を提唱。
          ・
トインビー博士の著書『歴史の研究』を日本
          語訳として刊行することを主目的とした刊行
          会を設立し、
会長に就任。
昭和42年 93歳 ・来日中のインドネシアのマリク外相と懇談。
          ・
産業計画会議第15次勧告「危険な東京湾」
          
について記者会見。
          ・京都都ホテルに、来日中のトインビー博士を訪
           ねる。
昭和43年 94歳 ・
慶應義塾創立100年記念式典にて「名誉博
          士号
」を受ける。
          ・
産業計画会議に付議発表する第16次勧告
          鉄は日本輸送公社に脱皮せよ」
について記者
           会見。
昭和44年 95歳 ・対談録『
乱世に生きる』を刊行

         
 10月雪州会(壱岐出身在京者)及び松泉会(松永
              翁の友人)
に地元壱岐での記念館建設の熱意
          を伝えて賛同を得、その主だった者が翁を訪
          ね、ようやく翁の了解を得る。
         
地元では、松永記念館建設期成会が結成さ
          れる。

昭和45年 96歳 
石田村横山孝雄村長ら来訪し、財団法人壱岐
          松永記念館設立許可
を得たることを報告する。
         
松永翁の甥の松永吉二郎氏は、松永家の敷地
          (1600u)・生家・土蔵等を記念館建設の趣
          旨に賛同され、石田町に寄付される。
         
建設資金には、全国の電力会社・翁の関係し
          た会社・地元4町・翁の徳を慕う人々から多
          額の寄付金が寄せられる。


昭和46年 97歳 
1月13日真鍋儀十(壱岐・芦辺町箱崎諸津触出身・元
             代議士)
白川應則(壱岐・郷ノ浦町沼津新田触出身・
             元東北電力副社長)
来訪、壱岐松永記念館につき報
          告を受ける。

          
          ・4月15日未明、苦痛を訴え慶應病院に入院。
          
          
6月11日壱岐石田町の横山孝雄町長(昭和45年
             8月1日町制施行)
山口麻太郎(民俗学者・松永翁が
             研究を援助)
の見舞いを受け、壱岐松永記念館建
          設の進行状況をきく。

          
          
6月16日午前4時26分死去。
          ・政府叙勲の方針に接し、遺族は故人の遺志を尊
           重して辞退。
          
・6月17日午後1時小田原市営火葬場にて荼毘に
           ふされ、武蔵野火止の平林寺(埼玉県所沢)
           にて故一子夫人の眠る墓地に納骨される。
           
遺志により葬儀は一切行われず、法号もなし。

            
               
平林寺の松永翁夫妻の墓

                 
                 壱岐の墓
(壱岐の墓に分骨されました。墓碑は
                   松永翁の書で、生前に建てられていたものです。
                   弟の墓と並んで建っています。)
         
          
6月26日松永記念館竣工
          
7月24日壱岐松永記念館横山通夫電研理事長
          
らを迎え、開館式挙行
     
     郷土の偉人 松永安左エ門翁・一子夫人を語る
            
真鍋儀十著が発行される。
昭和47年    ・『
歴史の研究』は、9月10日、25巻の刊行で完
          了した。

昭和55年     
わが人生は闘争なりー松永安左エ門の世界
            
松坂直美著が発行される。


真鍋儀十氏著『郷土の偉人 松永安左エ門翁・仝 一子夫人を語る
(昭和46年7月20日発行・非売品)より転載

「       十三、一人で夫人を葬むる

 
昭和三十三年(一九五八)、一子夫人が逝去された。夫人の生れは明治
十七年で、二十歳で松永家にはいっているから、五十五年間の同棲であ
る。翁は夫人の葬式は自分独りでやると云うて、亡くなられた国立病院の
一室で霊を祀り、そこから直ぐ子や孫を連れて火葬場に行き、骨壷を持っ
て平林寺の墓地に埋め、平林寺の和尚に案内をするでもなく、線香すらあ
げないでさっさと引き上げた。あとで翁はこう語っている。「私が死んで
家内が私の葬式をやると云うことは大したことはない、しかし家内が先に
死んだ場合、私を利用している人は、私の知らない人でも沢山押しかけて
来る、告別式をすれば断っても花輪を持って来てくれるし、花輪を断れば
香典などを届けてくる。」それよりも連れ添うた自分の家内だ。他人気な
しにしんみり葬ってやった方が愛情が移って宜いと云いたいのだろう。果
たせるかな翌三十四年になって夫人の墓碑を建つるに当って、みづから筆
を執って「貞淑慈愛」の四文字を認め、ついでに耳庵とだけ刻んだ翁の石
碑を隣に立てた。俺も死んだらすぐお前の脇にやって来るから、さみしが
らずに待って居れと云うこころであろう。
 翁は品行が悪かったと云われているが、それでいて幾ら道楽をしても待
合などに泊まることはなく、十二頃までには必ず帰った。特に金婚式前後
からは二人が差しで話をする機会も多くなって、或る日夫人から「あなた
はこれまで随分勝手なことをして人に迷惑のかけ放しだったからせ、これ
からはもっと大人しくなって、世間の妨げにならないようにしなくてはな
りませんね」と諭すように言われると、「馬鹿を言うな。お前はそれでよ
かろうが、俺はそうはいかない。それよりもお前はこの頃うちにばかり居
るからからだの調子が悪い。ひとつ飛行機でヨーロツパに出かけようでは
ないか」と誘いをかけると、「とんでも無い。うちに一人でいて、女中相
手に掃除でもしている方がずっとよい」でこの話は立消えになったが、そ
れでも羽田から福岡まで飛行機に乗せられた時は、まさに決死の覚悟であ
ったらしく、出かけに遺言状を書いておいた事が判って大笑いになった。
翁は頑固そうに見えて案外なこうした優しい面もあった。文学、美術、和
歌、俳句と多趣味な外に、とりわけ茶道に凝ってからは、夫人もこの道を
たしなむようになった。翁の和歌に「つゝじ咲く霧の那須野をわけ行きぬ
鳴く鶯の声をしるべに」があり、俳句に「春浅き京のすぐきを土産かな」
などがある。また夫人にも若い時かけた苦労を「すまなかったね」とあや
まる翁でもあった。この夫人を亡うと小田原の屋敷内に時仏堂を建て、朝
夕礼拝を欠かさなかった心根のいじらしさがにじみ出ていて面白い。」

「        十七、世紀の偉人今や亡し

  翁の逝去は新聞にテレビにラジオに、週刊誌に至るまで、ことこまか
に報道されたから改めて叙説する必要は無い。枕頭には
木川田井上
山、白川、椿原など近親が侍った。筆者が届いた時にはもう意識不明で、
わづかに手を握ったに過ぎなかった。ここでみんなが考えた遺言状のこと
だが、たゝ゛毎日新聞の端に走り書きで、葬式はやってくれるな、騒いで
くれるな、勲章はもらってくれるなとしたゝめてあるばかりだった。併し
言い遺すことはこれで尽きていた。いかにも翁らしい、誰も真似ることの
出来ない大遺言であった。近親はみな翁の意を体してこれに従うことにし
た。
 お通夜の晩も、密葬の日も、香典も供物も一切ことわり続けた。従って
松永邸には香煙ひとつ立ち昇らなかった。遺体は小田原で荼毘にふし、東
京を素通りして菩提寺所沢の平林寺に運んだ。たゝ゛困ったのは翁の参禅
で相識の和尚である。既に葬式はやって呉れるなの遺言は伝えられてあ
る。骨壷は一旦本堂に預けたが、多くはその本堂にもはいらなかったから
中の模様は解からないが、いざ墓所で骨壷を中に入れると云う段になって
袴の股立てを高くとって甲斐々々しく世話を焼いて呉れる一老人が居た。
余り手慣れているので、あれは誰かと尋ねたら、お経を差し止められたこ
の寺の大和尚のせめてもの思い入れであったと判り、緋の衣の代わりに羽
織袴で、払子持つ手に鍬を執って来られては、さすがの翁も一本取られて
地下で微苦笑を禁じ得なかったろう。
 終りに一言したい。松永と云う雷(かみなり)親爺のまたの通り名は電
力の鬼であった。鬼と言われても情(じょう)にはもろく、義理には固か
った。勝手気侭にしているようでも、我慢するところはちゃんと知ってい
た。人はよく翁が雷を落すと怖がっていたが、周囲の者の考え方は丸っ切
り反対で、親爺に叱られるうちが花だ、叱って貰えないようになったらも
うお終い、活を入れて貰うことを却って楽しみにしていた向きもある。翁
の人徳というものだろう。もうその雷のどかんと落ちることも無いのかと
想うと、まったく淋しい。
(46・7・4稿了)」


松坂直美氏著『わが人生は闘争なりー松永安左エ門の世界―
 
(1980年12月1日初版発行・香椎産業株式会社出版部・東京都中央区八重洲1ノ5ノ10
  マスヤビル四F)
より抜粋。

「         あ と が き


 (前略)ご生家の保存に関し白川応則先輩の依頼で、横山孝雄町長と
の接渉に当るようになった。
真鍋儀十椿原常太郎(※壱岐・芦辺町住吉出
身・九州耐火煉瓦社長)
白川応則氏等雪州会の先輩と再三会合を重ね、
壱岐松永記念館」設立の話は進んだのである。記念館設立案は十数年
前から郷里であったが、先生の反対にあい立ち消えとなっていた。
 これを実行する為に、秘書の
井上繁氏とも相談し、先生には内密に進
め、後で先生の承諾を得る方法を取ることとなった。
 幸いに電力各社の御後援により、二年後に松永記念館は完成したが、
先生は落成式の一ケ月前に亡くなられていた。(後略)       」

 

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