猿 岩(さるいわ)砲 台(郷ノ浦町新田触)

       


        
 猿    岩

 壱岐名勝図誌
(江戸時代)の中では、猿岩は「柱本」と書かれて
おり、「続風土記伝、壱岐八本の石柱の一なり。故に名とす。○壱岐巡
云、黒崎柱元の柱ハ、海中より高さ二百間もあるへし。………断岸にて上
より下をみれハ、身の毛もよたちて怖るへき所なり。………」と載ってい
ます。

 『
黒崎 昔ものがたり』(郷ノ浦町・壱岐出会いの村)には、「現
在、さる岩と呼ばれているが、以前は柱本と呼ばれ、壱岐八本の石柱のひ
とつであった。伝承によると、『その昔壱岐は生
き島しまだった。玄海灘
を左右に動く暴れん坊だった。困り果てた神様は逃げないように周囲に8
本の柱を立て、つなぎ止めた。』その8本の柱の一つが、このさる岩であ
る。戦前、戦中はここが要塞地帯で立ち入り禁止であったが、戦後解除さ
れてこの岩を見た人が,突き出した口、窪んだ目など、猿にそっくりなの
に感動して命名したという。背中には体毛のような海浜植物を生やすなど
自然が造リ出した芸術品である。」と説明しています。


      黒 崎 砲 台

  

 
明治維新以後、政府は富国強兵を国是として軍備を増強し、日清戦争か
ら太平洋戦争まで帝国主義(軍国主義)の道を驀進しました。そのシンボ
ルが壱岐では黒崎砲台です。黒崎半島の大部分を要塞地帯として、人の居
住・立ち入りを禁じ、昭和3年(1928年)8月から5年間の歳月をか
けて砲台二門を造りました。この大砲は戦艦土佐の主砲で口径41p、全
長18・8mで東洋一といわれ、射程距離約35キロメートルで対馬海峡
の半分以上は飛ぶと言われていましたが、実戦に使われる事なく終戦を迎
え、昭和25年(1950)に解体されました。
 「
黒崎 昔ものがたり」によると、この砲台造りには沼津小学校の児童
がコンクリート用の石を拾ったりして奉仕作業をしたということです。
 なお、射撃実験の時は、付近の民家のガラスが割れたり、遠くの柱時計
が止まったということです。

 父の実家が要塞地帯の近くで、祖父母を訪ねた時、迷彩を施された入口
の門柱(現在の猿岩方面への周回路の出入り口付近)や支柱、そして張り
巡らされた鉄条網は、何時も、不気味なものに見えました。

 太平洋戦争が始まると、黒崎砲台より小型ですが、各四門で大島砲台・
名烏砲台・小呂ノ島砲台が造られていました。

 東京在住の斎藤隆之氏(H12年9月現在・27歳)から、「日本の
要塞
・日本国内に現存する旧陸軍要塞跡を巡る現状調査レポート」のHP
を作成しているとの便りがありましたので、紹介します。
   
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/6914/

      
       
 平和学習会発表資料の取材に砲台を訪れた
         那賀中生徒会役員 2000.8.6

     
歴史を学ぶ から 歴史に学ぶ へ!

 黒崎の砲台造りに、沼津小学校の子ども達も、コンクリートの材料にす
るために、海岸の石拾いの奉仕したということですが、砲台のコンクリー
トの残骸の中に、その丸い形の石を見ることができます。