巡見使と會良


 『
壱岐島史年表』に、
 「宝永七年(1710)五月七日 幕府巡見使小田切靭負直広・土屋数馬喬
直・永井監物白弘、壱岐に到着する(松浦家世年表)<一行に
曾良陪臣>
 同年五月二十二日 
曾良、勝本浦中藤家にて客死と伝える(墓碑)」と
載っています。

 『
歴史大辞典』は巡見使について、 「江戸時代、将軍の代替毎に、五
畿七道に派遣して国郡の治否を験せしむる臨時の職名、目付数人を以てこ
れに充つ。(徳川実紀)」と記しています。

 宝永六年(1709)、一組の巡見使35名が構成されました。徳川家宣
の庶政一新の布令によって、国内検察の制度が布かれ、全国を八分して三
年に一回各国に使を派遣して、各大名代官等の政治を調査し、併せて民間
の利害等を調査させて、各地の治世の実状を掌握し、幕政の正常化を図り
ました。

 曽良即ち岩波庄右衛門正字は、巡見使の中の九州方面担当の一行に加わ
り、曽良は主に社寺を担当したようです。
 壱岐に到着する前に、筑前筑後の二ケ国を済まして来たようです。二ケ
月の忙しい公務の旅行であり、壱岐に着いた時はひどく疲労しており、病
となり、当時海産物問屋を営んでいた勝本浦の中藤家において、宝永七年
五月二十二日、六十二歳の生涯を閉じました。

 巡見使の一行に参加した動機は、俳人ですから、自然の風物や地方の
人々に接してみたいという気持ちが湧いてきたのではないでしょうか。
 特に、芭蕉に従って東北地方は旅したけれど、筑紫路には足を踏み入れ
てはいないし、山国生まれで壱岐対馬の島国を見たいという気持ちが強か
ったのだと思われます。
 

    
曾良の略年譜(諏訪市博物館HPより)

慶安二年(1649)下桑原村=諏訪市諏訪2、高野七兵衛長男に出生。月日
不詳。幼名与左衛門。
 近所の母の里、銭屋河西家に引き取られる。間もなく伯母の嫁ぎ先、
福島村=諏訪市中洲福島の岩波家へ養子。岩波庄右衛門正字
(まさたか)
名乗る。

十二歳(万治三・1660)養父岩波久右衛門昌秀没(1月)。次いで養母
(伯母)が6月没。
  その後、伊勢長嶋=三重県桑名郡長島町、真言宗大智院在住の縁者
(伯父とされる。第4世住職深泉良成か)を頼る。

二十歳(寛文八・1668)このころ長嶋藩松平良尚に仕官。河合惣五郎と称
 する。

二十八歳(延宝四・1676)「曾良」の俳号で歳旦吟「袂から春は出たり松
 葉銭」(初見句)。

三十三歳(天和元・1681)このころ長嶋藩を致仕。江戸に出て、「吉川神
 道」の吉川惟足
(きっかわこれたり)に入門。

三十五歳(天和三・1683)山梨に滞在中の芭蕉を訪問し「鶯のちらほらな
 くや夏木立」。このころから
芭蕉との交友が始まる。

三十七歳(貞享二・1685)このころ江戸深川五間堀に住み、晩年までここ
 を本拠とする。

三十九歳(貞享四・1687)芭蕉の「鹿島詣」(鹿島紀行)に宗波とともに
 同行。

四十歳(元禄元・1688)髪を剃って法体となり、惣五郎=「惣五」を「宗
 悟」と改名。

四十一歳(元禄二・1689)芭蕉の奥羽行脚(「おくのほそ道」の旅)に
 行
が決定。行脚予定コースの延喜式神名帳抄録および名勝備忘録を作成
 し旅に備える。
  3月20日(陽暦5月9日)、芭蕉とともに江戸深川を船で出発。千
 住に上がって行脚を始める。日光―黒羽―須賀川―福島―仙台―松島―
 一関―尾花沢―羽黒山―酒田―新潟―高田―金沢をへて7月28日(陽
 暦9月11日)石川・山中温泉に至る。
  山中温泉滞在中の8月5日(陽暦9月18日)、曾良は「腹を病み」
 (「おくのほそ道」所載)、3月以来132日間にわたる2人旅をひと
 まず打ち切り、芭蕉と別れて1人先行。敦賀―大垣をへて8月15日
(陽暦9月28日)長島大智院着。休養。
  9月3日(陽暦10月15日)、大智院を出て大垣に戻り芭蕉と再
 会。芭蕉、路通らを案内して同6日、大智院入り。3泊した芭蕉は寺に
 「うき我をさびしがらせよ秋の寺」のあいさつ句を残す。
  9月15日(陽暦10月27日)、芭蕉と別れた後、11月13日江
 戸深川の自庵に帰着。

四十三歳(元禄四・1691)3月4日、近畿巡遊の旅に江戸を出発。伊勢長
 島をへて京都入り。南下して奈良、吉野山、高野山を山越えし南紀へ。
 和歌山から大阪へ。西は姫路まで一人旅をして4月29日再び京都入
 り。6月26日、芭蕉らといったん別れ、再び近畿一帯の旅を始める。
 京都から大阪に出、再度吉野、奈良を通り伊賀上野へ。ついで伊勢神宮
 に参り、7月15日神道のお祓いの儀式、「中臣(なかとみ)講」を早
 朝から昼過ぎにかけて行う。同17日から長島に潜在。8月初めに江戸
に帰庵。(この間の行脚記録は自ら記帳した「近畿巡遊日記」に詳しい)

四十六歳(元禄7・1694)5月11日、帰郷する芭蕉を箱根まで見送り、
 「ふつと出て関より帰ル五月雨」。道中、芭蕉から礼状や大智院に一泊
 したことなど書状3通届く。
  10月12日
芭蕉、大阪御堂前・花屋宅で客死。51歳。同22日、
 芭蕉の訃報を受け桃隣、杉風、岱水、孤屋、利牛、野披、ちり、素竜、
 此筋、子珊らと追悼歌仙を巻き、「むせぶとも芦の枯葉の燃しさり」。
 11月16日、神道の師・吉川惟足没。79歳。

五十四歳(元禄15・1702)秋、更科に行脚。帰途、郷里諏訪に立ち寄り
 「ゑりわけて古き住屋の月見哉」。

六十一歳(宝永6・1709)10月27日、幕府派遣の第4回諸国巡見の
 「
巡見使随員(全国8地区のうち九州方面担当)に任命。

六十二歳(宝永7・1710)歳旦吟「ことし我乞食やめてもつくし哉」。諏
 訪の一族に対し「正字」の名で「立初る霞の空にまつぞおもふことしは
 花にいそぐ旅路を」の歌を送る。
  3月1日、幕府巡見使江戸を出発。九州方面担当は総勢138人(3
 班)。巡見予定は筑前、筑後、肥後、肥前、日向、大隈、薩摩、壱岐、
 対馬、五島。曾良は岩波庄右衛門の本名で、旗本二千石の書院番・土屋
 数馬喬直率いる班(44人)に「用人」として属す。
  4月27日唐津領巡見、呼子着。
  5月7日壱岐島(長崎県壱岐郡)郷ノ浦入港。同8日、陸路、風本
 (勝本町)着。
  5月15日、一行は対馬出発に備え乗船。その後、連日悪天候のため
 風本にとどまる。


   
曾良の墓   勝本町能満寺(中藤家墓地)
(墓石は、正面中央に「賢翁宗臣居士也」、その右に
「宝永七庚刀天」、左側に「五月二十二日」。右側面に
「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」と刻まれている。)

  5月22日、風本滞留中、宿舎の海産物問屋、中藤五左衛門宅で病
 
。中藤家菩提寺、能満寺墓地の墓石に「(為)賢翁宗臣居士 江戸住
 人岩波庄右衛門尉塔 宝永庚寅天五月廿二」。
  5月26日、巡見使一行出発、対馬着船。(江戸帰着は9月)


 
曾良終焉の地 記念碑と中藤家(勝本町勝本浦)



 
長崎県立壱岐商業高等学校郷土社会部発行(昭和四十六年・1971)の
島人』(第6号)に、「中藤家と曾良について」がありますので、
当主
中藤定光様の許諾を得て、一部を転載します。(2000.6.28)


「     中藤家と曾良について

           1年B組   中 藤 恵 子

 わが中藤家は初代が1760年(宝暦十四年七月二十七日没)で現在は
十四代目にあたります。
 家系の由来について過去帳に次のように記されています。
(虫害等のため判読不明の個所あり)

    家譜
中藤家は肥後国熊本城主加藤清正、其子二代熊本城主忠広より出ず。
忠広、徳川氏の怒りにふれ領地悉く没収され一族離散せり。
忠広の子忠(判読不明)徳川氏を憚り、姓を中藤と改め諸国流浪し、壱岐
に渡り勝本に移住す。
これ中藤家の始祖なり。移住年月日不詳
初代 円山大通禅定門(名前不詳)
    宝暦十四年七月二十七日死亡
二代 真譽宗伝禅定門(中藤五左衛門)
    享保三戌二月十九日死亡
曾良 賢翁宗臣居士
    宝永七年五月二十二日没
   
(中略)
十四代 中藤定光
    大正十一年一月二十一日生
 曾良は二代目中藤五左衛門の代に来遊し、死去したものと思われます。
   
(中略)
 中藤家のことにもどりますが、明治になるまでは家業も盛んであったよ
うですが、九代目中藤五左衛門が1866年に死亡、妻も1854年に死
亡し十代目(1843年生―1915年)が若くして弟妹の面倒を見てい
ましたが、使用人がある時、中藤家の家財等を持ち出し小舟で逃亡し、そ
の時にも曾良の遺品等を持ちだされたのではないかといわれています。
 明治の初頃に曾良の生地信州諏訪での法要に遺品である頭巾、頭陀袋等
を貸し、そのまま返されなかったとのことです。
 尚、曾良についての研究やら俳諧人等戦前より多くの人が尋ねて来られ
たとのことで、現在では中藤家には曾良に関しての遺品等はありません。
 昭和十八年頃、高浜虚子が朝鮮平壌の大江河、牡丹台に句碑を建立し、
帰途京城のデパートで芭蕉展が開催された際、京城大が蔵書として曾良日
記が出品されていたように記憶していると父が云いました。     」

               
 
   
諏 訪 市 博 物 館 ⇒ 





  平成11年度 ●企画展・イベント ⇒ 
     ※河合曾良関連の資料が豊富に掲載されています。


      
河合曾良生誕三百五十周年記念特別展
      曾良と歩く奥の細道
               津野祐次写真展
 
                  ・
開催にあたって
                 ・
旅びと曾良の生涯
                   
原博一(河合曾良研究家)
                 ・写真集から
                   
撮影・津野祐次
                 
河合曾良略年譜
                   生誕から現在まで
                 ・河合曾良句碑一覧
                  全国にある句碑の一覧
                 ・来館者投句作品集
                  特別展にご来館いただいた
  ・講演会 旅人・曾良の生涯
    平成11年9月12日(日)実施
         講師 岡田喜秋 先生
     (紀行文作家・河合曾良研究家)




 ※
全国の松尾芭蕉研究のホームページを集めたもの

「松尾芭蕉関連リンク集」(東京のラップ・エディック・ソフト社の制作運営)

  
 河合曾良関連のページを掲載  (相互リンク)


         俳人 曽良(トップ)