長崎県    壱 岐 市   (い き し)


・壱 岐 市  面積138.45平方km 東西15km 南北17km
・位  置   東経129°41’47”   北緯33°44’45”
・世帯人口   11,471世帯
        人口32,794人(男15,553人 女17,241人)
        (平成17年9月1日現在)
・市制施行   平成16年3月1日
・市の予算   209億8,700万円(平成17年度一般会計当初予算)
・市  木   まき      ・市花木   やぶ椿
・市  花   水仙      ・市 鳥   めじろ

・市名の由来  
   「壱岐」の由来は「魏志倭人伝」に記述のある「一支国」からきたと言われて
  います。
   平成16年3月1日に壱岐郡の4つの町が合併し「壱岐市」となりました。こ
  の新市の名称は全国より公募した名称の中から4町の町民が慣れ親しんでおり、
  対外的にも認知されている歴史ある地名(島名)であるということから「壱岐市」
  に決まりました。

・壱岐市章

             

  
 壱岐の「i」をモチーフに躍動する曲線で「海とみどり、歴史を活か
  す癒しのしま、壱岐」の更なる飛躍する姿を力強く表現。
   漢字の「人」で波を表し壱岐に来る多くの人々の出会いと交流をイメ
  ージし、赤は活力と未来へ輝く太陽、緑は自然に恵まれた豊かな暮らし
  を意味します。      (平成16年3月1日制定)

【地  勢】
 壱岐市は福岡県と対馬の中間地点で、博多港から郷ノ浦港まで西北76km、佐賀県
呼子港から印通寺港まで北26kmの位置にあり、南北約17km、東西約15kmのやや
南北に長い亀状の島です。地形は一般に丘陵性の玄武岩をなし、高度100mを超える
山地が占める割合は極めて少なく、海岸線には屈曲が多く見られます。
 昭和43年7月22日、壱岐の一部地域が壱岐対馬国定公園に指定され、また、昭
和53年6月16日、辰の島、手長島、妻ヶ島の3ヶ所が海中公園地区に指定されま
した。
 また、壱岐では世界最北端の珊瑚礁地帯があるなど自然環境に恵まれています。

【歴 史】
 
東アジア地域における壱岐の地理的条件から、壱岐の文化は大陸との関係を色濃く
伝えています。
 弥生時代の壱岐は「魏志倭人伝」に「一支国」として紹介されています。首都は
「原の辻遺跡」であり、集落は外濠、中濠、内濠の三重以上の濠に囲まれ、南北約
850m、東西約350mの楕円形をした大規模な環濠集落でした。
 古墳時代には勢力を持った豪族たちが巨大な古墳を次々にと造営するようになり
ます。それは「鬼の岩屋」とよばれ、江戸時代の記録によると338基とあります
が、現在は半壊したものを含めて270基が残っています。この数は長崎県全体の
古墳の約半数を占めます。壱岐がいかに繁栄した国であったかは、多くの出土品が物
語ってくれます。
 また、大陸と日本を結ぶ架け橋でもありました。遣新羅使、遣渤海使、遣隋使、遣
唐使など使節団は壱岐を寄港地として往来しました。故に最も新しい華やかな文化を
開花させていました。しかし、外交上不利な問題が起きると、国境の島として、国防
の最前線として幾多の外敵の侵入を受け悲しい歴史も生まれました。刀伊族の襲来の
ときは、殺害された者148人、奴隷として連れ去られた者239人、わずかに生き
残った者は35人と、痛ましい数が記録されています。
 鎌倉時代、元寇により壱岐は死の島と化し無残な傷痕を残します。その後、唐津・
岸岳城主波多宗無をはじめ、石志・志佐・佐志・山城などの松浦党の諸氏が壱岐に渡
り勢力を広げていきます。壱岐の統治を求めて幾つかの戦いが起こりますが、1571
年に平戸松浦氏の領有となりました。
 天正19年、豊臣秀吉は朝鮮出兵のため、壱岐国勝本城を松浦氏に築かせます。秀吉
の九州征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いという歴史的事件を通して、松浦氏は戦国大名か
ら近代大名へと変化していきます。
 平戸藩により壱岐は在(農村)と浦(漁村)とに分けられ、在の者は農業、浦の者は漁業、
回船、商業等で生計をたてていました。
 土地は地割制度がとられ、家族の労働力に応じて公平に田畑を割り渡すものでした。
産業の中でも鯨組(捕鯨業)はとりわけ大規模で800人を超す人々を要しました。特に
瀬戸の恵比須、勝本の田ノ浦は最高の漁場基地でした。
 また、奥の細道の松尾芭蕉に同行していた河合曾良(岩波庄庄右衛門)は、壱岐国内の
巡見の折、勝本浦で客死したと言われています。現在の勝本城跡には曾良の句碑が建て
られ、毎年墓前では曾良忌が行われています。
 幕末期の「異国船打払令」により、壱岐は異国船の警固に追われました。異国船は毎
年100艘を超えましたが、攻撃を受けることなく明治時代を迎えます。
 明治4年の廃藩置県により、平戸県、11月には長崎県となりました。明治22年市
町村制施行時に、2郡12村だったのが、同29年壱岐郡となり、昭和45年に郷ノ浦
町、勝本町、芦辺町、石田町の4町となりました。
 そして、平成16年3月1日壱岐4町は合併して壱岐市となり現在に至っております。

【観光・文化】
 壱岐は、本島と21の属島(有人島5、無人島16)からなる全国で20番目に大きい
島です。国産みの神話では、大八島の一つで5番目に誕生した島です。
 紀元前2〜3世紀から紀元3〜4世紀にかけて出来た、大規模環濠集落「原の辻遺
跡」は、「魏志倭人伝」の「一支国」の王都と推定されています。現在もなお遺跡が発
掘され、最近では人面石が発見されました。(3〜4世紀に作られたもの)平成13年に
は、弥生時代のものとしては国内3ヶ所目の国特別史跡に指定され、壱岐高校では「原
の辻コース」が新しくできました。
平成21年には原の辻遺跡を核とした一帯に、県全体の埋蔵文化財調査研究拠点、東ア
ジア的視点に立った考古学の研究拠点、壱岐全体の地域振興拠点となるよう県立埋蔵文
化センターが建設される予定です。原の辻遺跡を取り巻く環境はめまぐるしく変化して
いることから、いかに注目されているかがわかります。
 壱岐では自然を活かした観光地を多く見物することができますが、見るだけでなく実
際に自然を肌で感じてもらおうと体験型観光を実施しています。「磯あそびin勝本」
「シーカヤック」「無人島散策」など全部で24個のメニューがあり、これを目的に遊
びに訪れる観光客も増加しています。
 イベントも多彩で、島内外から参加者が集い壱岐を盛り上げます。1月の新春マラソ
ン大会、6月サイクルフェスティバル、8月ビーチフェスティバルなどが行われていま
す。また壱岐島ならではのイベントも多く、祭りになると、住民が一丸となって盛り上
げます。
 その祭りに欠かせないのが壱岐の焼酎です。壱岐は麦焼酎発祥の地で、約500年の
歴史を持っています。島内だけでなく、島外からもリピーターが多い壱岐の焼酎は平成
7年に「地理的表示の産地」に指定されました。
 自然を活かした景観、観光、物産。これからも壱岐は多様化するニーズに合わせつつ
も壱岐ならではの色を最大限に活かしていこうと前進中です。



       
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