曾良の句碑「
春にわれ…」の建立に貢献された方です。
本山桂川・塩谷鵜平
本 山 桂 川(もとやまけいせん)
桂川氏の孫・一城氏より便り
本山・塩谷両氏について情報をお願いしておりましたところ、2000年8
月10日、桂川氏の孫の一城氏より、お便りがありました。
「 祖父が昭和36年に出した【芭蕉名碑】に次のようにあります。
壱岐・勝本城山公園曾良句碑(塩谷鵜平筆)
(前後略)当時わたしは地元世話人たちに頼まれ、俳紙『海紅』
の同人であった岐阜の故塩谷鵜平氏に揮毫してもらった。 」
本山桂川氏のホームページ
一城氏は漫画家で、祖父桂川氏のホームページを作成し、自分のペー
ジにリンクされています。
「本山一城氏のホームページ」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/9429/
「本山桂川氏のホームページ」(管理人・本山一城)
http://isweb42.infoseek.co.jp/diary/kazzuki/
本山桂川氏の「壱岐に関する論文」
◆「壱岐に於ける神功皇后伝説の分布」
(『旅と伝説』・昭和8年11月号)
…『壱岐の風土と歴史』(中上史行著・1995年)に、中上氏が上記の論文を
転載されていますので、壱岐の「神功皇后伝説」についての研究では、これ
以上のものはないものと思われます。
◆「壱岐の神社と祭事」
(『旅と伝説』・昭和9年4月号)
…「熊野神社参詣記」(壱岐郡勝本町立石南触)があります。
(桂川氏のホームページに掲載してあります。)
◆「船祭神事の瞥見−祭礼民俗誌一節−」
(『旅と伝説』第百号記念特輯・昭和11年4月1日)
…(十九)「長崎県壱岐郡石田村字筒城には郷社白沙八幡宮が祀られてある。
壱岐七社の一で、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の三柱を祭神とする。
其十一月十五日の祭礼には、三部落から選み出される担輿丁数十名、三台
の御輿を担ぎ、汀際の浜殿(御旅所)に駆け下る勇ましい浜下りの神事が
行われる。」
本山桂川・山口麻太郎両氏の交友
(資料は、本山一城氏より送付してもらいました。)
◆「日本民俗図誌」の復刻を喜びて 山口麻太郎
本山さんは柳田民俗学創立当初の一闘士であり、地方開拓者の
一人でもあったということになろう。
「土の鈴」は写真いりの活字雑誌であったが、他にガリ版図入
りの本も幾つか出ている。「民俗図誌」の予備作業のようなこと
もされた。「土の鈴」の後千葉に移られたが、それからも民俗資
料の刊行は続けられた。
壱岐に来られたのは昭和八・九年の頃だったかと思う。一か月
間滞在されたので、句会や民俗採集などに親しく御厚誼をいただ
いた。「ガリ版でからだをくずしてしまった」とも述懐された。」
昭和十六年から東京堂の「日本民俗図誌」が始まった。戦火益
々激甚を加える中で、十九年十一月までに十八冊を刊了して、第
九冊産育篇、第十冊葬祭篇の二冊を残すのみで、十八冊はみごと
に世に出たのである。
晩年は石碑の研究に転ぜられて、「万葉百碑」「旅と郷土の文
学碑」「古典文学碑」等も出版された。
何と云っても本書は図誌であることが第一の特色である。一線
一線を自分で納得して描かれたものである。見やすくして確実さ
があり理解しやすい。写真では出せぬ良さがある。
地域民俗誌・地方民俗誌を了えて、やがて日本民俗誌を書かれ
ねばならぬ。明治・大正の郷土資料は貴重である。しかも本書は
戦争中の出版で刊行部数が少なく、今日では徒に古書の価格が高
く、且つ入手が困難である。この時に当って村出書店では万難を
排してこの復刻を遂行されるという。学を念とするものの喜びは
謝するに言葉がない。
※ これは、本山翁の歿後の昭和52年に復刻本『日本民俗誌』が出
される時、山口翁が一巻の序文として書かれたものです。山口翁
は86歳でした。なお、この序文は復刻のチラシ広告の「推薦の
ことば」としても引用されました。
◆「土の鈴」復刻の経緯 村田書店店主
「土の鈴」の存在を聞かされたのは、確か「日本民俗図誌」の推
薦文を壱岐の山口麻太郎先生にお願いした折であった。
御高承の如く山口先生は長崎県壱岐島の民俗学の神様みたいな方
で当然長崎県内で會て発行された「土の鈴」については良く御承知
であった。特に生前の本山桂川翁とは若い時より知己の間柄であり、
「民俗図誌」の推薦文を書くに当っても「本山さんの代表的な業績
だから」とわざわざ海路を長崎県立図書館まで八十六歳の身を運ば
れ再度桂川翁を調べられた由であった。
「土の鈴」に関しては現今八十歳以上の方でないと知らない。特
に、百名足らずの会員にのみ配布され、図書館の寄贈等も全く行わ
れていなかったので、雑誌という非保存性の性格から全巻を架蔵し
ている人はまず少ない稀覯誌の類である。
桂川翁がその生涯御自身でガリ版をきられ多くの自家出版をされ
た事は有名である。しかし、「土の鈴」は御覧の如く立派な活版印
刷である。しかも口絵にロゴタイプや多色版まで挿した堂々たる本
格誌である。
本山桂川二十八歳、日本民俗学草創期にしかも研究者として白面
の時代に長崎ちという隔地で全国に令を発し得たという事は驚嘆の
他はない。しかしその経済的負担は過酷であり、その救済法として
始められた郷土玩具店「あいらしや児童百貨店」も短命に終り、当
然「土の鈴」も幕を降ろした。
その「土の鈴」発刊当時より六十年近くの歳月が流れた。内容的
にも当時の事である。印刷所の誤植や校正ミスも多々あった。しか
し有難い事には珍しく全巻の半数以上に正誤表が残されていたので
その修正を行うと共に、他の部分についても出来る限りの悪活字・
誤植を正した。 (昭和54年)
塩 谷 鵜 平(しおのやうへい)
●1877年(明治10年)5月30日生
1940年(昭和15年)12月8日没
●俳人・本名は熊蔵、後年宇平・初号は華円
●岐阜県鏡島村江崎192番地(現岐阜市江崎町192番地)
の地主に生れる。
●自由律俳句の作者
塩谷鵜平氏の文学碑
●岐阜市御手洗町 「JR長良荘」前の公園
「正史にはさありとも雁の涙おつ」
● 同 江崎町 塩谷氏宅庭内
「曼珠沙華いよいよ長良川のいろ」
● 同 北方町 桑原氏
「山かげりきっこの鮎が淵」
※塩谷氏についての資料は、壱岐では探せませんでしたので、インター
ネットで検索し、その一部分を掲載しました。
機会がれば、岐阜を訪ねたいと思っています。
俳人 會良(トップ)