俳聖芭蕉翁の伴侶
    曽良翁終焉の地 壱岐・勝本
                    原田 元右衛門


       
(八)曽良翁二百五十年忌

 昭和三十四年五月二十二日は曽良翁二百五十年忌に当たり追善供養が
勤修された。
 当日は豪雨沛然たる中、壱岐支庁長谷口伝、勝本町長斉藤政平、壱岐
郷土館長西川福雄の各氏を始め郡内の俳人七十余名能満寺本堂に参席
された。当時の模様を記念誌『
浪の音誌上に「雨日記」として次のよう
に記載されている。

「           
 雨  日  記

 
前日の二十一日に、第二会場の勝本小学校の講堂に、勝本の北斗会同
人全員を主体として、郷ノ浦から西川郷土館長及び勝本町教育委員会事
務局員等の方々で、全国有名俳人士から寄せられた、色紙短冊等の追悼
句及び献句を中心に、郡内俳句並びに川柳を掲示、参考品も数十点展示
し、さしも広い講堂を飾り尽くすことを得た。
 当日の二十二日は、未明より雷鳴を伴う文字通りの土砂降りで、遠方よ
りの参会者の有無を気遣ったが、島内各地よりぞくぞくと、風雨を冒して
七十名からの参会者があり、婦人も十数名見えていた。
 第一会場でもある、能満寺本堂の式場で、定刻十時、撃析の音により一
同着座し、山口社会教育主事の司会進行のもとに、能満寺住職を主座とし、
神岳山寺住職並東光寺住職の補佐により、いとも荘厳に、曽良翁二百五十
年忌の法要の読経がなされた。
 勤修の後、曽良顕彰会長殿川重吉氏の故人に捧ぐるの祭文に続き、壱
岐支庁長谷口伝氏が、文学面其他に多大の功績貢献された故人を讃える
長文の追悼の辞の後、勝本町長代理の豊坂文雄氏が是又故人を賞揚し、
年忌に際し当時を偲び断腸の感ある旨、身に沁みる追悼文を霊前に読み
上げられ、其の後に富安風生氏、星野立子氏等、全国的俳人有志二十数
氏よりの追悼句の朗詠にひきつづき、東京都よりの真辺儀十氏、並びに
上京中の勝本町長斉藤政平氏よりの丁重懇切な弔電を読み上げ披露を終
えた。
 電文読み上げの後、中藤家当主外親族並に各種団体長及び参列者の順
で焼香がなされた。
 次に祭主の曽良顕彰会長殿川重吉氏が経過報告を兼ねての謝辞があっ
て、本堂での式を閉じた。尚降りしきる風雨をついて墓参がなされた。
寺から五十米の所に墓があり、墓地は良く手入れが行届いていた。能満
寺住職の読経の後参拝者がかわるがわる焼香し、心からの翁の冥福を祈
った。
 二百五十年の永い年月の雨露に曝された苔の墓石は、鮮やかに喜びの
色をたたえていた。
 法要の式と、墓参を済まして、参拝者は三々五々、第二会場の勝本小
学校の新校舎で、来賓共々に、折詰弁当、外に「春にわれ」の染抜きの
フキンと、菓子が配られ、昼食後は講堂に掲示された全国よりの真筆の
玉吟を見覧、多大の感銘を与えていた。
 又、郡内俳句兼題「卯浪」と「新樹」並に川柳兼題「電話帳」と、「雨蛙」
の互選に入り、披講もなされた。
 その後、曽良翁に造詣の深い、山口麻太郎氏と、山川胤美氏の講演が
なされ、有益多彩な、且又意義深い曽良忌の祭典は、晴間を見せ始めた
午後四時三十分に散会となった。

  法要式次第
一、開式の辞
二、読  経
三、祭  文 曽良顕彰会長
四、追 悼 文
   追悼のことば 壱岐支庁長
   追悼文    勝本町長
五、追悼句披露
六、弔電披露
七、焼  香
八、祭主挨拶 曽良顕彰会長
九、閉  式
十、墓参―第二会場勝本小学校講堂
  追悼玉詠並に献句
    二百五十冊 展覧

「            
 祭  文
 
本日茲に、郡内多数来賓各位の列席を得て、曽良顕彰会員一堂に集い、
蕉門、河合曽良翁の二百五十年忌、追善供養の祭典を挙ぐるに当たりま
して、うやうやしく追悼の誠を捧げます。
 翁は、宝永七年初夏巡国使の随員として、巡検の途上、当地中藤家の
一室に於いて、五月二十二日病の為、無念にも六十二歳を一期として、
永眠の途につかれました。星霜の流れ、いとも早く、ここに二百五十年
忌を迎えるに到り、感慨無量なるものがあります。
 顧みますれば、元禄二年三月芭蕉に随行して、七ケ月に亘る奥州行脚
の旅に出て、道々その専門的である神道学と地誌学の知識をもって、師
の芭蕉の参考のためにと提供して、遂に文学史上不朽の名作といわれる
「奥の細道」を世に送った蔭の功労者として、其の名声は、古今東西に
高く、又神道学乃至は地誌学者としての高い教養を買われて、幕命によ
る巡国使の随員に選ばれ、特に神社行政面の監察に大きな功績を残され
ました。其の人となりと、学問的の業績は大きく後の世まで評価されな
ければならないと信じます。
 春にわれ乞食やめても筑紫かな
 苔むす粗石に刻まれた「賢翁宗臣居士」の墓石は、数多遊子の旅愁を
慰め、在りし日の面影を偲ばせます。
 ここに、ささやかながら、翁の二百五十年の忌の行事を修するに際し、
心から翁の御冥福を祈り、香り高い、その業績を讃え、遺徳を顕彰せん
とする次第です。
 招典の霊、こい願わくば微意を享けられんことを。
 昭和三十四年五月二十二日
            曽良顕彰会会長    殿川重吉    」

 曽良翁の忌日五月二十二日には、毎年顕彰会員と郡内俳句同好者相集
い、能満寺の本堂にて、平畑裏千家宗幸の供茶法要を営み、墓参の後、
追悼俳句会を西川左生氏指導の下に開催、盛会の後散会している。現在
の曽良顕彰会長は高田義敬氏である。

          
 (九) 後   記

         
 勝本町文化財調査委員長  原田元右衛門

 
芭蕉翁のお伴をして「奥の細道」紀行に随行した曽良翁については、
終焉の地である勝本浦で亡くなられている筈なのに、色々の説があるた
め、人々は、事の真偽がいづれであるかに迷っていられる事と思われる。
 そのため地元の勝本町としても、この儘放置することはできないので、
文化財調査委員の立場上、人々の参考に供すべきと思い、関係の資料を
集め、曽良の一生について伝記を作成した。
 曽良翁が亡くなられてから約二百七十年、宿舎であった中藤家も其の
間二度の火災に会われたりして家財を失われ、又朝鮮へ移住される等し
て、そのため曽良翁関係の資料が失われたと思われてならない。
 お墓は勝本と諏訪との二ケ所にあるが、諏訪の方は、勝本のお墓をま
ねて建てられているのである。
 私は後日又筆をあらためて、曽良翁外伝を書き、皆様方の関心に答え
たいと思っている。この書が皆様方の参考になれば幸いである。
   昭和五十八年十月一日

筆者略歴              
 明治三十五年一月十日、壱岐郡勝本浦黒瀬の二男として生まれ、殿川保衛といい、
 後に勝本浦正村原田家(つたや)に入り、第四代原田元右衛門を世襲する。
 勝本浦北斗会会員(大耕)であり、また郷土史研究をすすめてきた。
   昭和八年より昭和十年まで   香椎村議会議員(勝本町の前身)
   昭和十年より昭和二十一年まで 勝本町議会議員
   昭和四十八年より昭和六十三年まで 勝本町文化財調査委員会委員
                    壱岐郡文化財調査委員会委員
   昭和六十三年十二月七日  逝去  享年八十六歳



            
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