唐  人  神

 壱岐名勝図誌』(江戸時代)に、黒崎半島の先端部と付近の島の
(絵)が「唐人神野 柱石」のタイトルで描かれています。の中では、
猿岩には「ハシラ」と書きこまれています。
 
 
猿岩の側の小高い山の頂上にあった唐人神が有名だったようで、『
』は「続風土記云、……嶺に東西拾二間、南北廿二間、周囲五十五間半
の松林あり。……石垣あり。其中に小祠・小鳥居
各辰巳向なり。あり。俗に呼
て唐人神といふ。日本の神祇にあらす、蕃国の流霊なり。然れとも往々霊
験あり。故に遠近の男女、自然に信仰して誓願をなして参詣
ことに正七月十七
日群集す。
す。○俗間伝云、むかし黒崎に唐船漂着していすハり動かす。化
して巌となる。
今の唐松崎是なり。又其碇二ツ海中にあり。今にいかりねと称
す。其後唐船の磯に至るものあれハ必祟りあり。故に里民誓て老人をして
唐人神と斎る。一云、老人磯に至り石をてほに入帰りて、唐人神とまつれ
り。一云、唐人神といふ処ハ断岸孤絶のところなり。西洋海にむかひて景
地なり。此嶺より南ハ遠く平門・生属・小徳
値カ賀・五島、西ハ対馬根遠く
見渡され、しらぬ高麗も波間により見えぬへき心地して、言語道断の致景
なり。」と記しています.

 黒崎半島が要塞化された時、唐人神は移転され、後には砲台関連の観測
所が設けられ、頂上附近には施設や壕の跡が残っています。
 現在は、展望台が設けられ、湯ノ本湾入り口の島々や勝本方面、対馬海
峡を眺望できます。ここには、猿岩の駐車場の近くから登る道が整備され
ています。

      
    
左下より猿岩・駐車場・砲台跡 中央沖は種ケ島 最遠方は勝本の辰ノ島

 郷ノ浦町発行の『
黒崎 むかしものがたり』には、「黒崎に『唐船岬
というのがある。昔ここに唐船が漂着してそのまま石となったという伝承
がある。その時の唐人の上半身は対岸の勝本町本宮の地に葬り、下半身は
ここの唐人神山に葬った。ところがその辺を通る人に始終かがりついて悪
さをしたのである。どういう風に憑くかというと『魂の風』が身内に入る
と歩けなくなるのである。 そこで祠を建て神社として祀ったのである。
その霊は男女の下半身の病気にたいへん霊験がある。正月と七月の十七日
が縁日で、この日には全島から青年男女が集団で参詣したという。
各地に
も分霊されている小社殿や石祠が建てられた。
お礼参りには、ブリキ製
の小鳥居や、木で作った柱器や、足の模型があげられている。大正12年
黒崎半島に砲台が築造されるため、ここの唐人神も移され、登比川神社と
比売神社の境内に祭ってある。『わたしゃ黒崎唐人神よ、腰の御用ならい
つも聞く』と歌われている。このほか、
唐人神郷ノ浦高校下、印通
寺、山崎、瀬戸、本宮、鋤崎、立石東
などにもある。」と載っていま
す。



     

             
印通寺浦の唐人神鳥居
          
      
            
印通寺浦の唐人神

 
唐人神については、司馬遼太郎氏が街道をゆくの取材のために壱
岐に来て、地図を広げて興味を持ち、先ず取材されたのが印通寺の『
唐人
』でした。唐人神について、その由来などはっきりした根拠などないよ
うですが、異人に対する神秘性なども、その一つになっているのでしょう
か。 とにかく、いつの時代でも変らぬ人間性を示しているようです。

 「古くからの言い伝えによると、中世の頃、この地に唐人の下半身が流
れついたので、土地の漁師が丁重に葬り祀ったという。
 その後、この祠に詣でると腰の病が治る、つまり霊験あらたかというこ
とから、夫婦和合、安産、良縁の神様となり、お参りをする人が多くなっ
たといわれている。

   
わたしゃ唐人崎の唐人神よ  腰のご用ならいつも聞く

といった、歌とも、言葉ともつかぬものが誰言うとなく語りつがれてい
る。また、このあたりを唐人崎ともいう。」(平成9年石田町教育委員会
刊『
石田町の文化財』より。引用・転載の許諾を得ています