壱岐の神社・2
昭和十六年五月十日発行
編集兼発行者 長崎県神職会壱岐支会
(平成8年、「壱岐『島の科学』研究会」より再発刊)
内容 各社の鎮座地・祭神・由緒沿革等
この中に、わたしの小学生時代の同級生、佐藤秀子さん(現松尾姓・
大村市在住)の父上の佐藤秀夫氏(国幣中社住吉神社禰宜の後、初代
長崎県護国神社宮司として赴任)が「総 説」を書かれています。
秀子さんのお許しを得て転載します。
なお、昭和16年12月8日、日本は太平洋戦争に突入しました。
総 説
吾壱岐国ハ玄海ノ孤島ニシテ、地図上豆大ノ小国ナルモ、神代ヨリ天一
都柱ト称シ大八州ノ一州トシテ其ノ名国史ニ著ルク、随テ古来ヨリ勧請ノ
神社頗ル多シ、尚神功皇后三韓征伐ノ途次親祭ノ神社多キハ各社々記ノ伝
フルトコロナリ。又壱岐ヨリハ世々神祇官ニ占部氏ノ奉仕シアリテ、絶エ
ズ神社ノ優遇ニ付上奏セシニハ非ザルカ、延喜式神明帳登載ノ神社ノミニ
テモ、其ノ数実ニ二十四座ノ多キニ及ビ、当時此ノ外多数ノ神社鎮座アリ
シ事ハ想像ニ余りアリ。
中世交通ノ便開クルニ伴ヒ、貴人豪士本土ヨリ此ノ国ニ移住スルト共
ニ、原籍地ノ氏神ヲ勧請セル例又多シ、武家政治ノ時代ニ至リテ八幡神社
ノ創立アリ、国難天災地変アル毎ニ神明ノ加護ヲ祈願シ、国家安泰祈請ノ
為創立セラレタル神社アリ、上古ハ霊嶽ノ風光是絶佳ノ地、又ハ閑静ナル
巨樹鬱蒼タル境地ニ勧請セラレタル小祠ヲ神社ノ始メトス。
中世以降、建築術ノ進歩ニ伴ヒ社地ニ広闊ナル良境ヲ選ビ、之ニ配スル
ニ人家稠密ニシテ道路開ケ、産業ノ発達セル交通利便ノ個所ヲ以テシ、此
処ニ社地ヲ移転セラル。
延喜式内ノ神社ハ、皇室ヨリ篤ク尊崇セラレシヲ、王政変リ封建時代ト
ナルニ及ビテ神祇官大イニ衰微シ、神社ノ制度ニ変革ヲ来シ、奉幣ノ重儀
サヘ中止サレ自然官社ノ資格サヘ認ムルニ由ナキニ至レリ。従テ、祭式ニ
モ何日シカ僧徒ノ参加スルトコロトナリ、神祇道ニ神仏混交ノ紛乱ヲサヘ
来タスニ至レリ。又刀伊ノ賊ノ入寇、文永・弘安ノ役ヨリ明ケテ戦国時代
トナリ、兵火ノ難ハ神社ニモ及ビ、神社ヲ繕フニ由ナク、又祭礼モ極度ニ
衰頽スルニ至レリ。
元亀年間吾壱岐国、松浦藩ノ領有ニ帰スルニ及ビ、藩主数代ヲ経テ、天
祥鎮信ト云ヘル名主現ハレ、延宝四年、藩ノ国学者橘三喜ヲ遣ハシテ式内
二十四座ヲ査定セシム、調査終ルニ及ビ、社殿ヲ失ハレタル神社ハ之ヲ再
建シ、又各神社ニ鳥居ノ石額及木鏡ヲ献ゼラレ、篤ク崇敬ノ誠ヲ効サル、
又藩主崇敬ノ七社及ビ十七社ヲ制定シ、此ノ神社ノ大祭ニハ神幸式、
流鏑馬ノ神事ヲ執行セラレ、内七社ハ城代ノ参向アリ、外十七社ハ馬廻ノ
武士ヲ代参セシメラル、而シテ、一ノ宮天手長男神社ヲ国中総廟トシ、
城代ノ居館所在国津意加美神社ヲ御願本ト定メ、七社ト均シク城代ノ参
向ヲ見タリ。尚社殿ノ造営ニ際シテハ、藩主ヨリ白銀七枚ヲ、十七社ノ造
営ニハ白銀五枚ヲ献ゼラルルヲ例トセリ。
藩主崇敬ノ七社ハ、正殿ヲ三戸前作リト定メラル、之諸社ノ正殿ト異ナ
ルトコロナリ。
然ルニ、七社以外ニシテ三戸前作リハ、石田天満神社、渡良国津神社
(明治年間迄三間扉)アリ、天満神社ハ元亀以前唐津藩ノ領分ナリシ時代、唐
津直接ノ良津印通寺所在ノ社ナル故カ、国津神社ハ豊臣秀吉朝鮮出兵後、
山城守ノ直参ノ社、後年ニ及ビ公文職ヲシテ明治初年迄代参セシメタル社
ナレバ深キ故アルナラン、降テ、明治維新王政復古ニ及ビ神社ノ制度改革
トナリ、神仏混交ノ弊習ヲ廃セラレ、僧徒等ノ祭典ニ参加スルヲ禁ゼラ
レ、神官ノ専ラ奉仕スル所トナリ、茲ニ於テ、神明ヲ安ジ奉リ、報本反始
ノ実ヲ挙ゲ、大義明分ヲ弁へ、神威六合ニアマネキ国体ヲ明徴スルニ至レ
リ。此ノ大改革ニ伴ヒ、社有ノ土地、宝物等皆他ニ移転セシハ惜ミテモ余
リアリト謂フベシ、又多クノ氏子崇敬者ヲ有セシ神社モ、村、触ノ区別ヲ
限ラレ所属神社ノ氏子トナリ、興隆衰頽ノ懸隔甚シキ者アリ、故ニ本社ハ
村社トナリ、末社ハ無格社トナリテ独立セリ、又両祠官奉仕ノ神社モ一祠
官トナレリ。
惟フニ、神社ハ国家ノ宗祀タルベキニ、郡内村社以下ニ至リテハ維持極
メテ困難ナル現状ニアリ、随テ神社本来ノ使命達成上遺憾ノ点少カラザル
ハ吾人ノ等シク憂慮ニ堪エザル所ナリ。
茲ニ、輝カシキ紀元二千六百年ヲ契機トシテ神祇道弥々発揚セラレ、向
後島内神社ノ益々隆盛ニ赴カン事ヲ希望シテヤマザルナリ。
昭和十五年二月十一日
編集委員長 国幣中社住吉神社禰宜 佐 藤 秀 夫
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