壱岐の神社・5

       月 読 神 社 
         (芦辺町国分東触)

       
 
 
国分寺跡から東へ約5分ほど歩いた所にあります。
写真にあるのは、
本殿の裏側にある古い石祠で、正面に月読神社
と刻銘されています。

 
ここには、
月読(月夜見・月弓)尊を祭神としています。
 天照大神が昼の神様で、月読尊は夜を司る神様として崇拝されてきま
した。

 
榊原伸宮司は、「月は潮の満ち干のもとで漁業・出産などに関係があ
り、月も万物に恵みを与えると素直に受け入れ、信仰の対象になったも
のと思われます。」と話されました。

 郷土史家、占部英幸氏の島の科学掲載の内容から要約しますと、

 
「鎮座年は487年。延喜式に壱岐郡月読神社「名神大」とあり。古
事記の上巻に月読尊の誕生のことが載っている。
西暦487年には県主
が分霊して京都にお祀りした。
京都の松尾大社
の横に月読神社がある。
 
伊勢神宮の内宮に月読神社、また外宮に月夜見神社があり、壱岐の月
読神社が全国の月読社の「
元宮」(もとみや)とされている。」とのこ
とです。

(石田町の「
遣新羅使の墓」に葬られている雪連宅麿は、京都月読神社を
創建した県主の子孫です。)⇒
京都月読神社  
          


    
※月神社・月読神社は全国で四社!!
神宮および官国弊社一覧」に書かれた、大日本帝国の統治下に置かれ
た217社の中で月神・月読神を祀っている神社は、三重県の
伊勢神宮
山形県の
月山神社、壱岐島の月読神社、京都府の松尾大社の摂社月読神社
の4社しかない。(
下に掲載の月の社より

月のハナシ月の社」 ⇒ 

出羽三山の月山神社・伊勢神宮内宮別宮の月読神社 ⇒ 

 
 最近は、「月」は「つき」(幸運・繁盛・勝利)を呼ぶとして、漁業者を
はじめ、商業・会社経営者などの参拝が多くなっています。中には市長・
プロの棋士も来られています。

 平成12年10月13日、四日市市から帰省した鯨伏出身の
山口明博
を案内
(小山弥兵衛・双六古墳等も)して回り、ここに来ましたら、婦人と子息
(青年)の三人連れに会いました。福岡から来られたということですが、
本殿の横の方にある古い社殿(
石祠・上掲の写真)の前では、三人とも靴
を脱いで裸足になって膝まづき、礼拝されました。その敬虔な姿に月読神
社に対する信仰の深さを知らされました。

 なお、同月26日に元京都大学名誉教授・元大阪大学学長の
上田正昭
生(著書:日本神話(岩波新書)、古代伝承史の研究、日本古代成立史の
研究、日本古代国論の研究、他40冊余り)が、「壱岐、対馬の国境文化
を探る旅」のメンバーの講師役として來島され、講話がありましたが、そ
の中に、上記の占部氏の説と概略同様な事が出てきました。そして、壱岐
の人達が余りにも、月読神社について知らな過ぎると指摘されました。


 


 
 
ここの「月読神社に神道の揺籃をみることができる」と言う神社の研究
者もいると宮司さんは話しておられます。

 神道の起源説について、「
壱岐島史年表」によって考察してみますと、
487年に「月読神社に天月神命を祀り、高御祖神社に天月神命の祖
    高産霊尊を祀る
」(神社考)となっています。
     このころは、壱岐では
古墳時代中期にあたります。そして、大
    和政権は盛んに朝鮮半島への進出をはかっています。


369年に、・任那に日本府をつくり、百済・新羅・高句麗などと戦い、
       朝鮮南部に領土を広めています.
      ・中国との国交も進めています。
      ・仏教がこの頃伝わっています.(
538年
562年に、新羅が任那を滅ぼしています。
632年に、・「第一次遣唐使犬上御田鍬帰朝の記事中に伊岐史乙等
        の名あり
」(壱岐国史)とあります。


239年に書かれた「魏志倭人伝」に「一大国」と壱岐国について記
      載されています。

 上記年代の「
239年632年約400年間に、壱岐につ
いての事象は、
月読神社御高祖の記録だけ
」で、他はありませんので、
いかに、
占い・祈祷などで、この神社が対外的にも重要な役割をはたし
ていたかを示していると思います。
 
 とくに、「
487年に京都に分霊して祀る」ということが、壱岐の
神道の中心性・指導性を
しめしています。

 そこで、自然に,神道の構成・内容に、ここの国防の第一線の神社の
占い・祈祷などの技術が取り入られて行ったのではないでしょうか。

 この点から、月読神社の神道発生論がでてくるのだと思いますすが、
どうでしょうか。
  
司馬遼太郎氏の「街道をゆく13」の「壱岐のト部」に、月読神社に関
する内容があります。



   
        壱岐の神社(トップ)