遣新羅使、雪連宅満の墳墓 3
        
松  本   清

6.宅麿ゆかりの神社又は史跡

一、壱岐月読神社<壱岐国史>より
 
社 名  月読神社 名神神社 旧称 清月、山の神
 
祭 神  天月神命
 
由 緒  延長五年(九百二十七年)の延喜式神名帳によれば式内社
     (名神大社)とされ、延喜式の月読神社は芦辺町箱崎鎮座の
      八幡神社とされ、旧号を海裏宮とも海裏八幡も言ったとさ
      れ、その鎮座地は男岳山であったという。
       延宝四年(1667年)六月橘三喜は本社を国分の現在地と
      され、藩主鎮信は石祠と木鏡一面を献備して、その木鏡面
      に奉備二十四座之内月読神社御正体木鏡一面とあり、神階
      を進められたとある。

      
註・「壱岐の占部」・「壱岐の月読神社」については
         ⇒
「国分〜亀石周辺・1」
       ・「
橘三喜」⇒延宝四年、藩主松浦鎮信は、老臣滝川弥
        一右衛門時成・寺社奉行村松伊織正供・国学者
橘三喜
        に命じ、壱岐国延喜式登録の神社の位置・祭神等を調
        査させ、のちに
木鏡、石祠を献ずる。

二、京都洛西月読神社

  洛西月読神社は、五世紀の末、顕宗天皇三年二月(西暦四八七年)
 遣任那使、阿閉臣事代がご神託をうけ、山背国葛野郡歌荒
註・木巣
 田を献り、壱岐県主の祖先押見宿禰が壱岐から移住し、お仕えした神
 社である。この神社は押見宿禰の裔孫が連綿相承けて祠職をつぎ、明
 治維新に及んでいるが、今日では松尾大社の境外摂社となっている。
 
 
延喜式神名帳
  
葛野坐月読神社、名神大、月次新嘗(名神大は神格を示し、月次以
 下は官よりの奉幣の祭事の種目を示す。)
 
三代実録 
  
貞観元年正月二十七日 月読社、神位正二位進位 とある。

     
           
(松尾大社の二の鳥居)

     
      
(松尾大社・中央は本殿・左は側神・右側は拝殿の一部分)
    
     
            
(京都月読神社)

     
            
(月読神社本殿)

    

      ※上掲の写真は、四日市市在住の山口明博氏(勝本町鯨伏出身)より
       提供していただきました。(01.10.13) 
        


三、真根子命
  真根子命は続群書類従によれば、天児屋根命より十三世後の人で、
 武内宿禰命が三韓経営に当り筑紫に来られた時、弟の甘味内宿禰によ
 って、兄に謀反の心があると天皇に嘘を告げられたため、兄の武内宿
 禰が官兵にまさに殺されようとした時、武内宿禰の忠誠心を知ってい
 た真根子命が、たまたま自分の容姿が武内宿禰に全く似ているのを幸
 い身代わりとなって殺された。そのお陰で武内宿禰は大和朝廷のもと
 に帰り、磯城川浜で甘味内宿禰と対決し、探湯
くかたちをして勝ち、疑
 いを晴らすことができた。(『
群書類従より)

四、福岡壱岐神社
 
所 在 福岡市西区壱岐大字下山門字生の松原
 
御祭神 壱岐真根子命
 
創 立 延宝八年(明治五年 村社)
 
由 緒 壱岐真根子命が武内宿禰の身代りとなつて死亡したことは上
     述の通り。
      信仰篤き黒田藩主はその忠魂をたたえ、松林四千百弐拾八
     坪近くを安永四年五月に寄進された。

五、久留米高良こうら大社と真根子社
 ●
高良大社史編纂室長 古賀寿氏研究資料より
  
真根子社について。
  真根子社は高良大社の境内末社の一で、本殿向かって右の透塀の外
 に鎮祭されている。同社は「壱岐真根子」を祭る社であるが、これは
 高良大社の主祭神「高良玉垂命」を「武内宿禰」とする祭神説に基づ
 く。(高良玉垂宮略縁起)
  末社としての成立は比較的新しいものと思われ、古代〜中世の文書
 記録絵図等には全く記載されていない。地誌類では安永六年(1777)
 成立の「筑後志」にその名が見えるのが最も古い。
  明治24年(1891)12月31日付の「高良神社並諸末社明細表」
 「明治12年 社寺明細表」御井町役場行政資料、久留米文化財収蔵館
 蔵)に「元禄元年創立」とある。何に拠ったものか明かでないが元禄
 元年(1688)頃第55世座主寂源僧正が、高良山の復興に力を注いでお
 り、廃絶した末社等も再興されているので、この記事は信ずるに足る
 ものと思う。
  寛政元年(1789)刊の「高良玉垂略縁起」は武内宿禰の伝と共に壱
 岐真根子の事蹟を詳述しているが、同書が最も重視した史料は「旧事
 本紀大成経」である。(現在は偽書とされている)
  「大成経」には反正天皇の御世武内宿禰の霊が壱岐真根子の霊を随
 えて出現し、神と祀られたという話があることから武内宿禰である高
 良玉垂命の伴神として、真根子社が創立されたものであろう。そして
 それは元禄元年のことであったとしておきたい。以上。
  尚「高良玉垂宮略縁起」の一部を原文のまま記してみれば(前、後
 略)「其の後紫垣宮反正天皇の時武内大臣の魂壱岐真根子の魂をひき
 いてあらわれまし、国の守に告げて曰、吾天下に功あり、天帝われを
 許して筑紫国にいて、神とならしむ、又真根子は朝の為に忠あり、友
 に交て信あり、賢を惜しんで智あり、命を捨て勇あり、よって天帝か
 れを許して神たらしむ 何ぞ私に是をひきいんやと のたまう。ここ
 において祠を建立し篤く崇め祭る。旧日本紀に出たり、即ち高良玉垂
 命の神廟を山上にいわいまつる。これより高良山と申し待るなり。
 −中略―」とある。

七、あとがき
 本稿をなすについては収集した資料もあまりなかったので、遠慮す
 べきと思ったが、宅麿のお墓の守り役ということもあって、研究もし
 てみたいということもあり、取りかかってみた。短期間のこと故、資
 料も不充分と思うが、今後も更に努力していきたいと思う。
  今回は宅麿にかぎって研究を進めたが、宅麿にかかわりのある神
 社、史跡の由来等については、尚不明なところも多い。特に「壱岐月
 読神社」が男岳山、次に上里の東屋敷、次に下里の辻、次に新庄村の
 宮地山、次に箱崎の根祇山
もとのかぶやまに箱崎八幡宮として祀られ、延
 宝四年の橘三喜の式内社調査に当っては、現在地の国分東触月山に「
 月読神社」となっている。
  以上の変遷については、「壱岐国史」
註・山口麻太郎著、昭和57年刊
 よったものであるが、今後一層研究を深めることも必要と思う。



      
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