2000年3月19日開催の「第13回春一番 2000風のフェスタ」の
 パンフレットより、ご子息
目良睦夫(郷ノ浦町本村触・酒店目良新光屋経営)
 
の許諾を得て転載します。

  春 一 番」 と は…

         
      元郷ノ浦町文化財調査委員会
                  元日本民俗学会員

                   目 良  亀 久

 漁民達は春先に吹く「
春一番」「春一」「カラシ花落とし」と呼ばれ
る南の暴風を恐れた。この風が吹き通らぬうちは、落ち着いて沖に出られ
なかったからである。
 元居浦は延縄漁を主とし、漁船は4、5人乗組みの小型であった。五島
沖の喜三郎曽根は鯛の好漁場といわれ、月に一度か二度天候を見定めて出
漁していた。
 安政6年(1859)旧2月13日は快晴で、格好の出漁日和であった。ほ
とんどの漁船が喜三郎曽根に出漁、各船は順風に恵まれ、予定の時間に到
着した。直ちに延縄を張り始めたが、一船が南の水平線に黒雲の湧き昇る
のを発見、「春一だ」と叫んだ。それを聞くや、ことごとくの船が、今仕
掛けたばかりの延縄を切り捨て帰帆の用意にかかったが、強烈な南風は海
上を吹き荒れ、小山のような怒涛が漁船に覆いかぶさったきた。漁民達は
なすすべもなく、船もろとも海中に消えていったのである。遭難者の数は
53名であった。
 元居浦では、その後、「
五十三霊得脱之塔」を建立し、毎年、旧2月
13日は、どんなに天候が良くても沖止をし、漁民等一同が集まり、海難
者の冥福を祈念することを行事とし、今日に及んでいる。



        
五十三霊得脱之塔

          
            
所在地・郷ノ浦町本居浦八幡崎

得脱」について
○春一番の供養塔は、郷ノ浦港の入り口の側に建立されています。塔に
は、「
五十三霊得脱之塔」「安政六未年二月十三日」の銘が刻まれて
います。
得脱」は()「煩悩・苦悩を脱して佛果を得ること」ですが、五十
三霊の供養塔は「」の「ぎょうにんべん」を「
」を表す「さんずい
へん」にして刻んであります。(このような漢字は辞書にもありませんし、パソコン
でも出てきませんので、このホームページでは「得脱」としています。)
これは五十三霊
海難死のため、和尚様が敢えて替えられたのだと思います。なお、
)には「得佛」・「得度」・「得智」・「得道」・「得髄」・「得
解脱」などがあります。
中川美徳専念寺住職にお会いし、上記の説で良いか尋ねましたところ、
)では「渡」の「さんずいへん」をとった字でも「渡」と同義語とし
て使うので、と肯定してもらいました。

春一番」追録
 中川住職より、本居浦公民館長さんを紹介してもらい、次のことを教
えてもらいました。

○本居浦の海難者及び戦死者の戒名の一覧表があり、「春一番」の五十三
霊の戒名の中に「
童子」というのがある。
○「春一」の海難で、本居は壊滅状態になり、新しい家庭・地域づくりに
非常な苦労があり、地域では反って「春一」について余り触れたがらない
雰囲気が続いていた。
○53名の後にも、本居で43名の海難者が出ている。
○船の乗組みの人数は、「7、8名」で、帆は「莚
(むしろ)」程度のもの
を使っていた船があったのではないか。
○潮は、一般に五島方面から壱岐の方へ流れているが、五島方面に漁に行
く時は、夜の内に下げ潮(壱岐→五島)に乗って漁場に達し、潮の境目に
延縄漁をして、上潮(五島→壱岐)に乗って帰って来ていた。なお、帰る
時には、北の方に流されることがあり、直ぐ北の半城湾の場合は南に下
り、沿岸伝いに本居に帰って来ていたが、北の端の勝本方面に流された場
合は、東部海岸伝いに壱岐を1周するようにして帰港していた。
○鯛を獲りに行っていたのは、高級魚であるとともに、日保ちがよいから
だった。

                 
  続く

             春一番!風のフェスタ