各地区の殉国者慰霊碑


 
壱岐郡内では、旧12ケ町村を単位として、地区遺族会が結成されて
います。この上部遺族会が、壱岐郡連合遺族会です。
 慰霊碑は、各地区に建立されていますが、国分の忠魂碑は那賀地区の
慰霊碑としてだけでなく、全体の中心的慰霊碑としての役割を果たして
います。
 ここには、『
雪わり草』に掲載されている写真や説明文を発行者のご
厚意で紹介します。


             
渡良地区
    


 
往時の「嗚呼萬世遺光之塔」に替わる「殉国の碑」が、昭和54年
12月、地区慰霊奉賛会(川畑行隆氏)によって建立され、日清・日露
の戦役から大東亜戦にいたる地区内戦没英霊176柱を祀る。
 毎年10月、地区慰霊奉賛会主催の慰霊祭がしめやかに執り行われて
いる。
 碑周辺の清掃作業は、戦没者の妻や遺児によって間断なく実施されて
いる。

              
初山地区
    


 
初山「忠魂碑」は久美能の丘、壱岐第二の高地180メートルに位置
し、大正10年3月、当時の復役在郷軍人会が建立計画を始め、台湾、日
清、日露の戦場に散った御霊を祀る目的で、会長長嶋勝三郎氏を工事長と
して、初瀬浦平尾台地の鬼の岩屋の自然石を運び、各触一般住民の協力で
完成。
 碑は赤レンガにコンクリート。台石は人力車で運ぶことが出来ず2つに
割ったと聞く。題字は時の陸軍大臣、元帥影山閣下の自筆による。施工者
は武生水・殿川、志原・渋村の両左官。
 昭和23年4月、大東亜戦争戦没者の御霊を合祀、遺族会の下で、毎年
3月に慰霊祭を執行。昭和48年、103柱の芳名塔を御影石で建立。北
松鷹島町、有山石材工業の手により完成。400戸の住民総出資で280
万円を奉賛。遺族会長成石武恒、奉賛会長浦口卯平、建設委員長市山通喬
の諸氏の協賛による郷ノ浦町で一番早く奉賛会を設立。3月の慰霊祭、8
月15日の終戦記念日には、日の丸を掲げ戦没者の遺徳を偲ぶ。

             
志原地区
     


 志原地区「
殉国之碑」は、日清、日露、日中戦争、太平洋戦争などに
よる志原地区64柱の英霊を祀る・
 この碑は、昭和29年3月10日、当時の志原村長、松本秀法氏の発起
によって志原小学校敷地内に建立された。建立費260,000円。昭和
54年に設立の地区殉国慰霊奉賛会による慰霊祭が、毎年実施されてい
る。
 なお、昭和57年には、「芳霊の銘碑」が新たに建立されるなど周辺の
環境整備も整い、みたまの安らかな冥福を祈る聖域となっている。

            
武生水地区
     


 武生水地区「殉国の碑」は、昭和29年3月、地区遺族会が町(町長、
平田庄次郎氏)の協力で、福岡県糸島の名石を求めて金500,000円
で建立。地区179柱の英霊を祀る。
 昭和57年3月、地区慰霊奉賛会(会長、長嶋誠氏)が新たに「芳魂の
銘碑」を奉献、勇士の名を永久にとどめることになった。
 戦没者の妻による碑の清浄作業は毎月欠かすことなく行われている。

             
柳田地区
     

 柳田地区「
忠魂碑」は、明治39年、日露戦争戦没者慰霊のため、祥雲
寺五世住職(蓬莱広信大和尚)らの発起で建立。碑文は、東洋大学創始
者、井上円了博士(1858〜1919)が揮毫。円了博士は、明治の啓蒙家、宗
教改革家として知られ、壱岐にも「修身教室」設立を呼びかけるなど、青
年の精神修養に大きな足跡を残した英傑。
 昭和55年、地区遺族会は、風化の著しい往時の芳銘碑に替わって新た
に黒みかげによる芳魂の銘碑を建立、いさおしのとこしえならんことを期
している。

             
沼津地区
     

 沼津地区「殉国の碑」は、昭和51年3月、地区遺族会が、遺族及び
地区内外350万円余の浄財をもって建立。塔座の奥深く、英霊140余
柱の名を書き、刻んだ霊石が収められている。
 塔碑は、自然石で6メートル。碑文は、県知事久保堪一氏が揮毫し、銘
碑文は浦川春之氏によるもの。
 この建立には、当時の遺族会長、松本長朝氏(故人)、副会長、福井時
雄氏(故人)、同、坂口義臣、婦人会長、高村マサ子、青年部長、久原更
正各氏らの尽力に負うところが大きい。

        
勝本地区・鯨伏地区
  

 「
靖国之碑」は、勝本町が昭和30年6月10日、中上十次郎氏を建
立委員長として、神岳山、金蔵寺境内に金500,000円で建立。勝本
地区298柱、鯨伏地区138柱の英霊を祀る。
 毎年、春分の日には勝本町主催、秋分の日には勝本地区遺族会主催の慰
霊祭が厳かに執り行われている。

            
箱崎地区
       

 「
忠霊塔」は、昭和32年9月、ビルマ会有志により、箱崎村役場横に
建立されたが、昭和47年5月に、現在地の壱岐護国神社内に移転。日
清、日露、第二次大戦等の英霊222柱を祀る。
 年1回の壱岐神社大祭の折、慰霊祭が行われている。
 年2回、青壮年部・婦人部の手で清掃作業を行っている。

            
田河地区
   


 田河地区「
殉国之碑」は、昭和29年9月、復員軍人を中心に田河小
学校校庭に建立されていたが、昭和45年、地区遺族会の希望で、清
浄、崇高な神域、高御祖神社側に移転を計画、同年11月12日、22
0万円の浄財をもって移転を完了、明治維新以来、国難に殉じた地区
281柱の英霊を祀る。
 昭和51年9月には、「憩いの場」を併設。慰霊祭は毎年9月24日に
執り行い、毎月2回輪番で碑の清浄作業を実施している。

            
石田地区
   


 石田町の「
嗚呼 萬霊供養塔」は、昭和42年5月、当時の石田村
(村長 横山孝雄氏)が、金140万円で石田西触白水台地に建立。
 日清、日露、第二次大戦など町内戦没英霊235柱を祀る。
 昭和42年3月、町は105万円を投じ、碑周辺の環境整備を行い、
昭和62年2月には「殉国勇士芳名塔」も建立された。


     個人で建立の慰霊碑
 ここでは、戦没者の慰霊顕彰のために、個人の私財を投じて建立さ
れた慰霊碑を紹介します。

          
勝本町北触 (2000.12.8)
          


            碑 文

        干戈既に治まりて五十年
        鎮魂の英霊、往時を偲び
        勲功を讃え、慰霊顕彰と
        追悼の誠を捧げ、謹みて建之

          永元一千代建立

 勝本町北触の永元一千代さん(77歳)は海軍に入隊し、無事、帰還
されました。しかし、同触からは、弟さんと同級生二人を含む15名の
戦没者が出ました。
 永元さんは、平成5年(1993年)3月、この戦没者の慰霊顕彰の
ために自力で『
北触出身戦没者追悼之碑』を建立されました。
 正面に戦没者名、側面に碑文が刻字されています。
 なお、永元さんは、毎年12月8日正午に、和尚さんを招き、慰霊祭
(追善供養)を行われています。



    
        殉国者慰霊碑