殉国者慰霊碑


    
            
(芦辺町国分本村触)

 国分寺跡の西側に隣接して建てられています。地元の人達は、「忠魂
碑」とか、この広場を「招魂場」
(しょうこんじょう)と呼んでいます。

 
明治42年国分寺住職齋藤賢外(けんがい)和尚が発願して敷地全
部を寄贈し、当時の那賀村
大久保良三(りょうぞう)氏も協力され、戦役
に殉じられた
壱岐郡内の英霊を祭るために、この慰霊塔を建立され
ました。

 以後、第二次大戦までの殉国者
千九百余柱の追悼の聖域として今日に
至っています。

 塔は花崗岩で、前面に「
報国誠忠英魂碑 海軍大将東郷平八郎」、
裏面には「
嗚呼万霊供養塔」と刻まれています。

 東郷大将は、明治38年、日露戦争の折、ロシヤのパルチック艦隊を対
馬海峡で破り、一躍、帝国海軍の英雄となられ、後に元帥に昇進されてい
ますが、どんな思いで揮毫されたのでしょうか。

 戦後、占領軍の目をはばかり、撤去すべきとの声も出ましたが、遺族の
強い要望で、塔の後面を前にして据え置かれていました。戦後、33年が
経ち、碑の周辺も荒廃していましたが、日本の繁栄は英霊の犠牲の上に築
かれている事を認識され、
久保知事の特別な計らいと4町が中心とな
り、
昭和53年、塔の向きも復元され、敷地420uの聖域が完成しま
した。

 毎年
10月23日、ここで県戦没者慰霊奉賛会(会長は県知事)の
主催で郡内各界の代表者及び全遺族が参列して
慰霊祭が行われてきまし
た。

 しかし、戦後、50年を迎えた頃から、全国的に慰霊祭に対する雰囲気
が変わって来ました。極端なのが、もう廃止したら、どうかという動きで
す。
 壱岐でも、廃止になるらしいという噂が流れ、その時、一家の大黒柱で
ある御主人を亡くされ、戦後の厳しい社会情勢の中を女手一つで子供を育
てながら生き抜いてこられた一人のご婦人が、私(兄戦死・当時遺族会役
員)に「これまで頑張って来られたのは、このような慰霊祭が心の支えの
一つになっていたからです。ぜひ、続けるようにお願いしてください。」
と話され、その後、「赤紙一枚で呼び出しておいて…」と低い声で、つぶ
やくように言われた言葉が耳に残っています。

 確かに、変化が現れました。

 県の奉賛会から、
宗教色を抜いた追悼式形式で実施したいという申し
出がありましたので、壱岐郡連合遺族会は現状維持を強く要望しました。
 しかし、五島・対馬地区が早く県の申し出を受け入れましたので、壱岐
は三年間の猶予の後、切り替わることになりました。
(県奉賛会主催の慰
霊祭は、大村・五島・対馬・壱岐の四箇所で実施されてきました。)

 そして、
十一年度より、前半に県奉賛会主催追悼式続いて
四町奉賛会での慰霊祭(神式、仏式を交互)という二部方式になり
ました。

       
       
平成13年度慰霊祭(神式) 01.10.23

 なお、
四町及び各地区では、従前通り、慰霊祭形式で実施して行
く事が確認されました。

 
「国敗れて山河あり、城春にして草木深し」

 
戦後、55年が過ぎましたが、まだ、世界各地で争いが絶えませんが、
日本はこのような争いに巻き込まれることなく、平和が続いています。
 これは、この戦争で払われた何百万もの戦没者の犠牲により、日本人が
「目覚めた結果」です。即ち、この平和は戦没者の犠牲の上に築かれてい
ます。

 
英霊が命をかけて守ろうとされた、この素晴らしい自然に恵まれた日本
が恒久の平和の中に、世界の人達と共に子々孫々繁栄して行くように、悲
惨な戦争体験を風化させることなく、
慰霊顕彰も不戦の決意を込めて国
民的平和運動として盛り上がっていくことを願っています。

   

  ―戦後50年・鎮魂と追憶に咲くー
  
雪 わ り 草


  
戦後、50年の節目にあたり、深見弘美久保恵子
氏の手によって『
雪わり草』が発行されました。
  これには、44名の遺族や各界の方達が戦没者達への
慰霊・追悼の言葉や戦時中の体験、世界平和への願いなど
の投稿文、及び各種の資料が豊富に掲載されています。
 
主婦お二人のご熱意に敬意を表します。

 お許しを得て、一部を転載します。

       あ と が き
 

 平成7年は、戦後50年という感慨深い年でございま
す。
 50年たった今日も遺族の方々の悲しみは消えることな
く、胸の奥深くに刻まれてあることでしょう。
 戦争を体験した人も体験しない人も、心の奥にある平和
への願望と、人の命の尊さを守りたいという、根本的な思
いを新たに感じる年であってほしいのです。
 風化されつつある悲しみ、苦しみを、ここに真正面から
見てほしい。
 今の平和な時代が多くの方々の犠牲の上に成りたってい
ることを、そして今の平和に感謝して生きてゆきたい。
 戦争を知らない世代へ伝えてゆきたい。そんな思いから
「雪わり草」を出版いたしました。
 「雪わり草」とは、白一色の雪野の中から厳しい寒さを
押しのけ、芽を吹き、花を咲かせるたくましき生命力、そ
して清楚な花、そのイメージが遺族の方々の姿と重なって
見えるのです。
 本書刊行にあたりましては、多くの方々の投稿を頂き厚
くお礼を申し上げます。
 それに遺族会役員の皆様、(株)昭和堂印刷様、忠魂碑
の写真を提供して頂いた芦辺町の七種写真館様のご協力に
対しまして編集者一同心から感謝申し上げます。

「雪わり草」編集委員  深 見 弘 美・久 保 恵 子  

      印刷   平成八年一月三十一日
      発行   平成八年二月  一日
      発行者  
「雪わり草」委員会
      
代表     深 見 弘 美
      
〒811−5462 長崎県壱岐郡芦辺町箱崎大左右触
         рO9204−5−1617 

残部をお持ちのようです。心あられる方は、是非、ご購入されます
よう、私からも、お願いいたします。 (送料共・1500円)
直接、発行者へ注文してください。
なお、私(山口)宛、メールでも取り次ぎます。どうぞ! 


             各地区の殉国者慰霊碑