珠  丸  慰霊碑



        
        
(勝本沖を望む勝本町城山公園に建立)


昭和二十年十月十四日午前六時十五分厳原港ヲ出帆シ博多
港向け航行中同日午前九時長崎県壱岐郡勝本港北方十五浬
附近ニ於テ左舷後部二番船艙水線附近ニ触雷爆発瞬時ニシ
テ後部ヨリ沈没シ遭難サレタ珠丸乗客乗組員の亡キ御霊ノ
御冥福ヲ祈リ建立スル  

      昭和四十三年十月
   九州郵船株式会社



勝本浦郷土史(平成8年12月22日発行・798P)の引用・転載につい
て、著作者兼発行者の
川谷幸太郎先生(明治44年2月22日生・勝本町勝本浦
413)
の許諾を受けました。(2001.3.14)

   珠丸勝本沖にて触雷沈没する

 九州郵船所有の珠丸(800トン)乗客定員500名(昭和5年より博
多―壱岐―対馬航路に就航)は、大平洋戦争末期、米軍機の機銃掃射並び
に対馬海峡や壱岐水道に無数敷設された機雷を巧みに潜り抜けて奇跡的に
も被害から免れて来た戦後唯一隻の博多から壱岐対馬を結ぶ連絡船であっ
た。珠丸は昭和20年10月8日、対馬最北の町上対馬町比田勝港で、朝
鮮からの着のみ着のままの,一日も早く故国日本の土を踏みたい一念にか
られ、小さな帆船、漁船を雇い、命からがらやっと対馬に辿りついた引揚
者と、対馬からの復員兵等、321名の船客を乗せて、同日午後2時比田
勝を出港して、同日午後6時頃厳原に入港した。丁度その頃九州地方を襲
った、鹿児島の阿久根に上陸した台風のため、13日まで5日間厳原港に
避泊した。
 珠丸は14日厳原で、更に377名を乗せて、同日朝霞煙る午前6時1
5分、阿久根台風明けの対馬海峡を、博多に向けて出港した。その日は台
風一過、空は青く晴れ渡り、風向は北北西の風3メートル位の風速であっ
たが、数日来の台風のうねりはまだかなり高く、不気味な波が時に船体を
左右に揺さ振り、そのうえ船足は戦後のことであり、船底のカキも除去す
る暇もなく、又エンジンの手入れもすることが出来なかったのか、当時高
速を誇っていた船足も、かなり落ちていた。珠丸は厳原を出港して約3時
間、対馬の山々もいつしか緑色から青灰色に変わり、だんだんとその姿が
視野から遠ざかり、水平線上には女性的な姿をした、壱岐島が浮かんで来
た。カンカンーカンカンと、午前9時の当直を告げる鐘が鳴り響き、船内
は和やかな雰囲気を漂わせていた。珠丸は丁度その頃対馬美津島町、網掛
崎南東18哩、壱岐勝本港北方15哩の勝本沖を、平和な航海を続けてい
た。しかしそこには直経86センチの丸い球型に不気味な4本の触角を突
き出した機雷がひそんでいた。この機雷は太平洋戦争末期の昭和20年4
月16日から、6月1日までの間に5回にわたり、日本海軍が壱岐対馬海
峡封鎖機雷作戦を実施、6000個の九三式機雷一型を敷設した。その機
雷の一個が非情にも珠丸の運命を決めたのである。機雷には鉛製の触角の
中に、ゴムで覆ったガラス瓶があり、その中に重クロム酸という液体が入
っている。その触角が不幸にして珠丸の左舷二番船倉水線附近の船体に触
れ、硝子瓶は瞬時にして割れ、重クロム酸液が流れ、炭素と亜鉛の棒を浸
し、電流となり、百キロの爆薬に作動、その全工程は千分の一秒か二秒と
いう速さである。珠丸はドッカーンとすべてを引き裂くような、轟音と振
動が船体を震わせ、巨大なまっ白な水煙があがり、無数の破片がバラバラ
に雨のように降り、左舷に船が傾き、船尾の方から沈み始め、哀調を帯び
たブーの避難信号を吹き鳴らしながら、一条の水煙をあげ、赤茶色の船底
がアッという間に棒立ちとなり、船首には鈴なりに人が縋りついたが、一
瞬のうちに勝本沖の滄海深く沈み、珠丸は再びその姿を見せる事ができな
かった。まさに轟沈であった。乗客は乗船名簿によると、船客、船員数7
30名(船客698名、船員32名)となっている。比田勝港321名、
厳原港で277名乗船しているが、当時の輸送状況は、戦後の事であり、
乗船切符を入手するのは非常に困難な時代であり、闇切符が横行、更に入
手できない人は、自分の家に一時も早く帰りたい事から、無切符で乗船し
た人もかなりおり、今もって確かな乗船数は把握できない。また現在では
調査する事も不可能である。名簿では730名となっているが、当時の状
況から推測すれば800名をかなり上回り、1000名以上乗船している
ともいわれている。生存者は船客、船員185名(船客174名、船員
11名である)行方不明者は船客520名、船員21名となっている。
 かりに1000名余乗船していたとすると,約800人余が行方不明者
となるが、乗船名簿を基準とする外にない。昭和20年10月14日は、
聖母神社の大祭である。戦後二カ月やっと平和が訪れ、家の軒先には古び
た御神灯が下がり、久し振り祭り気分に浦の人々はひたっていた。港内は
戦後の事であり漁船の数も少なく、静かでのどかなみなとであった。
 その日の午後4時頃、珠丸遭難者50余名が救助された一隻の鮮魚運搬
船で勝本浦に入港上陸した。勝本浦の人々は、素足で異様な姿をした人達
が珠丸の生存者である事には気がつかなかった。
 珠丸遭難の報は、九州郵船勝本港代理店主、篠崎清吉氏に告げられ、珠
丸遭難の第一報は、当時連合軍の占領下であり、電話回線を確保するには
非常に困難な時代であるにもかかわらず、篠崎氏の尽力により、対馬の無
線中継所経由で、対馬へ連絡された。勝本浦の漁民も翌15日早朝から戦
後の燃料不足の時にも拘らず、沈没海面附近の救助活動に従事した。勝本
沖の珠丸沈没附近海上が眺望出来る城山公園の一隅に、珠丸遭難者慰霊の
碑が建立されている。碑は勝本浦篠崎勝氏が遭難者の御冥福を祈り、尊父
清吉氏の意思を継ぎ、尽力されて九州郵船会社により、昭和43年3月9
日建立された。その碑文には「昭和二十年十月十四日、午前六時15分、
厳原港を出港し博多向け航行中、同日午前九時、壱岐郡勝本町勝本港北方
十五マイル地点で、左舷二番船倉水線附近において、触雷爆発瞬時にし
て、後部より沈没、遭難せられた。乗客乗員の亡き御霊の御冥福を祈り、
建立する」と記されている。珠丸の海難事故は、戦後では青函連絡船洞爺
丸が、台風のため函館港外で、座礁沈没、乗客乗組員1155名が死亡す
る事故に次ぐ、海難事故といわれている。
 今日私達は史上かってない、繁栄の中に生きておりますが、この珠丸の
事故は、海難事故の中でも戦争による事故であり、従って戦争の犠牲者で
ある。平和の中に生きている我々は、平和こそがかけがえのない尊いもの
だと思われます。しかし勝本沖北方15マイル地点の滄海の底深く白骨と
なり、今も尚眠っていられる多くの珠丸遭難者の方々からは、こうした悲
惨な戦争は二度と御免だとの叫び声が潮騒と共に私達の耳元に囁きかけて
いるように思われる。
 この珠丸遭難記は珠丸に乗り合わせ生存されていられる前対馬支庁、壱
岐支庁に勤務された現在郷ノ浦に在住の日野忠彦様に本史のため特にお願
いして寄稿いただいたものである。
(『勝本浦郷土史』より)



 珠丸遭難時の勝本浦の様子を取材しようと思い、慰霊碑の建立に尽
力された
篠崎勝(泉屋商事代表者・勝本町勝本浦289)を、お訪ねした
ところ、自分はシベリヤに抑留中
(3年間)だったので、当時のことを、
よく知っている姉を呼んでやると言われ、迎えに行かれました。

 姉上の
石橋久子(勝本町新城西触)は、先代清吉様の次女で、当時23
歳だったということです。兄弟姉妹七人中一人だけ、ご両親と終戦を
迎えられ、珠丸の遭難に出会われたのです。石橋様のお話を要約して
お伝えします。                 
 (2001.3.28)



「終戦時は、篠崎家は九州郵船勝本代理店「泉屋回漕店」を営んでい
ました。珠丸の遭難した日は、勝本はお祭り気分に浸っていましたが、
船員が裸足で、「泉屋さん!珠丸がやられました」と言って家に跳ん
で来られました。その日は、親類が朝鮮から苦労して船を雇い、勝本
に着く日でしたが、てんやわんや、大騒動という状態になりました。
 早速、漁師の人達が、沖に向かって助けに行き、ボツボツ、救助さ
れた人達が上がってきましたが、どれくらいの人が乗っていたのか、
不明ということです。助かった人の話では、早く帰国したいという気
持ちが強く、多くの人が飛び乗ったということですから、定員以上の
乗客がいたわけです。又、溺れかけた人から助けてくれる様に言われ
ても、自分達の乗ったボートが沈むので助けられなかったという話も
聞きました。
 又、乗船名簿からみて、一等室などに居た人達は、ほとんど助かっ
ていないということです。
 助かった人達を裏の二階などに収容し、世話をさせてもらいました。
 当時、山下汽船の代理店をしており、高粱などが送ってきていたの
で、これを搗いて腹一杯食べてもらったりしました。 又、軍属船の
チリ丸が、B29の攻撃を受けて箱崎の海岸に座礁して、その乗組員
の人達が家に出入りし、沢山の本革のスリッパを持ってきていたので、
それを履いて帰ってもらいました。(その乗組員の人が、可愛がって
いた三毛猫を飼うようになりましたが、十三年間生きていました。)
 船長さんをはじめ、乗組員の多くは助かっていました。特にボーイ
さんは、全員助かっていました。
 船長さんは、子供達が滅多に入れない、この家の一番上等の部屋に
寝起きされ、母と私が、上げ膳、下げ膳で接待していました。
 船長さんは、途中で奥さんを呼ばれ、一ヶ月余り滞在されましたが、
他の船員さん達は、乗客達と同じ頃、帰って行かれました。
 終戦後、間もない頃ですから、九郵と回漕店の上下の関係が、この
船長さんなどの意識の中にあり、それが生活態度に表れていたのでし
ょう。
 私の家族だけでなく、勝本浦の人達は、本当に親切にしていました。
特に、油も少ない時代に、助けに行った漁師さんたちが、助けたこと
を手柄話にするでなく、また、報酬を求めたりなどしませんでした。
実に感心な人達です。是非、褒めて書いてやってください。」

 

 篠崎勝より、機雷光岡明著 講談社発行 1981年7月10日第一刷
発行
をお借りしましたので、抜粋します。

「あとがき」
「……私は軍隊を知らない。もちろん海軍も知らない。しかし、私の父は
職業(?)軍人であった。陸軍中佐である。敗戦後、父は土木人夫として
働き、私を育ててくれた。父の嘆きは戦争に対して一切黙する形で現われ
た。上手に世を渡ることもしなかった。育ててくれた感謝とともに、父を
そこに追い込んだ政治を恨む。この恨みは深い。
 ……この小説に出る事件はすべて事実である。……(光岡氏)


(『機雷』の「戦中の内容」より抜粋)
・昭和二十年三月二十六日…・…。…敷設艦常磐の士官室に、艦長土村三
次大佐が副官を従えて入って来た。…「海護総電令第四二四号を伝達す
る」……「佐鎮護衛部隊指揮官は左により、なし得る限り速やかに対馬海
峡の機雷堰を構成すべし」………「対馬西水道北機雷堰は、……。次ぎ、
対馬東水道……」
 それは対馬海峡の完全封鎖に近い作戦だった。要するに朝鮮半島南端と
日本本土西南端を機雷で仕切ろうという計画なのだ。日本海を抱きかかえ
ようというわけだ。 ……「
若宮島灯台の三〇〇度四・五キロメートル
内院島連結線上、起点より四十キロメートル、その他の敷設諸元西水道に
同じ。次、
壱岐水道北機雷堰二神島西部の零度二キロメートル・・……」
・十六日早朝、常磐をはじめ敷設隊は門司を出撃した。・…常磐と高栄丸
は対馬の郷崎灯台の北西端に到達すると、すぐ二隻雁行しながら敷設を開
始した。・・…常磐は深度三十メートルで、高栄丸は十五メートルで敷設し
ていた。機雷間隔七十メートル。
(註・若宮島は勝本港口にある島。壱岐水道は、壱岐
と本土の間、二神島は壱岐島の南西側。

(「戦後の内容」より抜粋)
「貴様は十月七日の女王丸の触雷は知っているな」「報告書で読みまし
た」関西汽船の
女王丸千二百五十トンは内海―九州航路再開第一船として
大阪を出航した途端、触雷沈没、三百三十六人の死亡者、行方不明者を出
した。「大事故だから日本国民はみんな知っていると思ってるだろう」
「そりゃそうでしょう」「それが掃海関係者を除いて誰も知らんのだな。
新聞、ラジオ、全部GHQが差し止めた」
・一月二十五日、駆潜特務艇二四八号が
壱岐水道で、旧十八戦隊が敷設
した九三式繋留機雷に触れて爆砕され、十二人死亡二人行方不明の被害が
出た。その通信文を持って入ってきた電信部員は面を伏せて去った。

《付記》
 第一回安全宣言が行われたのは、昭和二十七年一月五日である。その掃
海面積は五千平方キロメートルに及ぶ。

 
戦後掃海事業で死んだ七十七人。その顕彰碑は香川県琴平町金毘羅
宮本殿
下の広場にひっそり立っている。……
 いま機雷性能は世界各国、最高の軍事機密である。

機雷の中では、「珠丸遭難」に関するものは見つけることができませんでした。
         
                  (2001・3・30)

              
      
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