大 韓 民 国 人 慰霊碑


    
         
(故郷朝鮮半島に向かって芦辺町清石浜側に建立)

            碑 文
1945年10月11日、祖国大韓民国の独立に歓喜に満ちた希望を
抱き芦辺港に寄港、台風により遭難し、不幸にも海底の弧魂となられ
た韓国人約160名の霊を慰めるために芦辺浦清石ケ浜に献身的に
「大韓民国人慰霊碑」を建立し、1967年3月19日、その除幕式
を盛大に挙行実施した。ここに韓日両国の友好増進の実現と人類愛に
あふれる博愛精神を後世に残すことを祈念する。
      1992年   
建立者 坂 本 金 敏

           功 績 者
    芦辺町 大韓民国居留民団対馬地方本部 
        伊豆末男   布谷嘉章

                     平成4年9月23日




芦辺町所蔵の「遭難者の関係書類」より、町の許諾を得て転載します(2001.4.5)
                           
 昭和59年、安倍晋太郎外務大臣より、4名の方が表彰されておら
れます。遭難活動に尽力された
京崎美太郎氏と碑の建立に貢献された
坂本金敏、布谷嘉治、伊豆末男の3氏です。


 
         感 謝 状
                    
京崎ヨシ子殿
 故京崎美太郎殿は終戦直後我が国に住んでいた朝鮮半島出身者が祖国に
向け帰国の途次壱岐付近で台風に遭遇遭難した際これら遭難者の救助に努
めるとともに遭難者の遺体を丁重に埋葬する等日韓友好親善に貢献されま
したよってここに感謝の意を表します
                 昭和五十九年九月二十八日
                
外務大臣 安倍晋太郎

         京崎氏の推薦調書

○生年月日   明治36年5月8日生
○住  所   芦辺町芦辺浦205番地
○事  蹟
    故京崎美太郎氏は終戦直前の昭和20年7月31日、合併
        前の田河村役場職員として採用され、農林業事務を担
        当、間もなく終戦となりました。その頃は不安と動揺の
        毎日でした。
         20年10月、終戦によって日本国内在住の当時の朝鮮半
        島出身の人達を乗せた引揚船が台風を避けて芦辺港内に
        避難停泊中、台風が壱岐周辺を直撃したため、引揚船が
        転覆、多くの死者が出ました。本人は情報を受け、自ら
        率先して職員を代表して地元警察官と共に現場に赴き、
        遭難者の救助に当り、更に、生存者の協力を求め、死体
        を収容、埋葬業務の責任者として、夜を徹して死体を大
        八車で現在地(埋葬地)まで運び、丁重に埋葬した。そ
        の行為は戦後の混乱の時だけに、国境を越えた人間愛と
        して称賛に値いするものである。
         よって、故人に代わり、未亡人京崎ヨシ子殿に対
        し、その労をたたえて頂きたい。
○家庭の状況  未亡人京崎ヨシ子 (現芦辺町母子会副会長)
        子供5人は成人し、夫々家庭を持ち、郡外在住
           昭和59年8月6日
            
芦辺町長 山 口 定 徳


          三氏各人への感謝状
「貴殿は終戦直後我が国に住んでいた朝鮮半島出身者が祖国に向け帰
国の途次、台風に遭遇、遭難した多くの遭難者の遺体が壱岐、芦辺町
清石浜に仮埋葬されていることを知り、これら埋葬遭難者の霊を慰め
るため、有志とともに現地に「大韓民国人慰霊碑」を建立し、毎年慰
霊祭を行う等、日韓友好親善に貢献されました よって、ここに感謝
の意を表します
            昭和五十九年九月二十八日 
            外務大臣  安倍晋太郎  」

            三氏の推薦調書
 「昭和20年10月当時は、
       
坂本金敏氏は、佐賀県呼子町在住
       
布谷嘉治氏は、南満州
       
伊豆末男氏は、軍隊で外地
と何れも本町に在住していなかったが、当時の大惨事の状況を知り、又は
伝え聞くうちに、祖国を目前にして遭難死亡した異国の人達の霊を慰める
ことが出来ればと、自主的に慰霊碑建立を計画、何度か協議を重ね、その
建立費の大部分(一部町費助成)は三人が私財を投じて建立したものであ
る。
 その行為は、
1.人種を越えた人間愛として賞賛に値すること
2.隣国との友好親善に寄与していること
3.過去、数回、大韓民国の人々が慰霊碑を参拝され、尊敬と感謝の念を
  表していること
4.それぞれ、多額の私財を投じて建立しておきながら当然のこととして
  いること   
      昭和59年8月6日  
 芦辺町長 山口定徳 


 大韓民国人慰霊47年忌並びに碑文碑除幕式

     

   
          
(平成4年9月23日)

          

 
芦辺町の天徳寺では、毎年行われている「十夜歎仏供養」の時に、
韓国人の遭難者の供養を続けてこられましたが、この供養が祖国のお寺に
引き継がれて行われるようになりました。
 その事情・状況を示す資料がありますので、紹介します。

      
 朝鮮半島遭難者十夜歎佛供養
     
          
(読経中の大韓民国僧侶)
 
「(前文 略)
 拙僧、
 毎年、天徳寺十夜歎仏供養に於いて、
 昭和二十年十月十一日、大韓民国の独立に歓喜に満ちた希望を抱き、帰
国船で、一路祖国へ航行中、壱岐芦辺港に寄港し、折からの台風により遭
難された韓国人約百六十名の慰霊祭を、
 先代(当山二十世
大智徳琳大和尚)により引継ぎ、執り行ってまいりま
した。
 ところが、この度、縁あって、大韓民国慶州市名誉市民であられます

田慈安
師の御取り計らいにより、同市水谷寺に位牌を移し、今後祖国にお
いて御霊の御供養を続けていくことになりました。
 そこで、本年は、同市大韓仏教曹渓宗本山佛国寺御住職
李性陀師の来島
を得、韓国水谷寺住職
孫慈厳師等大韓民国僧侶による
 
大韓民国遭難者慰霊祭
 十一月十八日(水) 午前十一時より天徳寺に於いて挙行いたし
ます。
 (略)
    平成十年十一月吉日 
天徳寺住職 西谷徳道 合掌 」


大韓民国・水谷寺に於ける慰霊法要メッセージ
 

         
 (供養中の天徳寺住職 西谷徳道氏)

 昨年十一月十八日、日本国芦辺町・天徳寺において「朝鮮半島遭難者
十夜歎佛供養」が、貴国慶州市・佛国寺住職 李性陀、同水谷寺住職 
孫慈厳、同寺 寺田慈安の三氏の渡航・お越しを賜り、壱岐郡内仏教会
約二〇名により、関係者多数参列の下に厳粛な中にしめやかで、盛大に
執り行われましたことは、記憶に生々しい処でございます。
 又、この時を機に遭難者の位牌引渡も、天徳寺住職 西谷徳道氏よ
り佛国寺住職 李性陀氏へ行われました。これは、祖国・韓国にて今
後は供養を続ける、との要請に基づくものと、承知いたしております。
 朝鮮半島出身者の芦辺湾にての台風による遭難の経過の詳細につき
ましては、割愛いたしますものの、「御霊」の安らかなるご冥福を祈
念するため、日本国芦辺浦在住の民間人三名による「大韓民国人慰霊
碑」の建立をはじめ、周期的慰霊祭の執行など奉仕の精神と人道愛に
燃えた博愛主義による尊い行為は、韓日両国の新千年紀に向けた友好
増進と両国民の絆を一段と強める証しの賜、と確信いたしております。
 芦辺町と致しましても、今日に至るまで、人道的見地並びに地方公
共団体の使命感をもって、数々の大小・陰陽を問わず、全てを惜しま
ず、可能な限りの支援を行って参りました。
 ところで、戦後半世紀を過ぎたにも拘らず、「御霊」が未だ祖国の
土にお眠りできないことを、残念この上なく痛恨極まりなく存じてい
る次第です。
 然し乍ら、昨年位牌の引渡も終え、祖国・大韓民国にて、本日、こ
うして御仏のお導きにより、韓日両国僧侶による慰霊供養が挙行され
ますことは、正に両国民による両国民のための画期的な仏事と高く評
価し、ご同慶はもとより感服の至りに存じている処でございます。
 最後になりましたが、今回の祭祀につき格別のご尽力をなさいまし
た韓日両国関係者に満腔の敬意と謝意の念を払うと同時に、「御霊」
の安らかなるご冥福をお祈り申し上げ、慰霊のメッセージといたしま
す。
     一九九九年十月十四日

            芦辺町長
  大皿川 恵
      


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