国分〜亀石周辺 3 
               
 
壱岐名勝図誌に郡城跡・国片主神社・阿弥陀寺国分寺旧跡・庄屋の遠
景と八月二十五日の祭礼之図が載っています。


(こおり)城跡(塩津留(しおつる)城跡)
(芦辺町国分東触)

 図誌によると台地の東側(堀の奥の方)に松が生えているだけで、
台地(左方)上は樹木は見えないので、耕地になっていたと思われます。



 郡城跡堀の底に作られた畑です

 天満宮の東側にある呼子商店の前の勾配の緩やかな道を登って行くと
住宅が正面に見えます。その住宅前を約10m通り過ぎた辺りの左手の
方に、崖がきれて低い所があり、その先に写真のような
堀の跡がありま
す。 堀の手前の方は、道路になっています。


 近くの郡川員一(こおりがわかずいち)さんは、この堀は奥の方へ環状
続いていて、左手の
台地を取り巻くようなかたちになっており、また、
左手の台地の上は平らで「
じょうと呼ばれていて、大変展望がきく
話されました。

 役場出張所長の
宇野木眞知子さんに尋ねましたら、この辺りの字名は、
」ということでした。
 
 
郡川さんに地名などに「(こおり)」のついたものはないか尋ねまし
たが、心当たりはないとのことでした。

 なお、近くの
秋山毅さんに尋ねますと、中学時代に友人と台地を掘っ
たら
矢尻勾玉のようなものが出てきた事、また、「呼子商店」や「ま
つなが歯科」の方からの坂道をのぼりつめた所を「
じょんこし」と言っ
ていて、これは「
城越し・じょうこし」の変化したものだと話されまし
た。

 701年に、大宝律令が作られ、全国が畿内と七道に分けられ、その
下に国
(こく・くに)・郡(ぐん・こおり・ 里(り・さと)が設けられ、
国司
(こくし)・郡司(ぐんじ)・里長(りちょう)が任命されました。郡司
は地方の豪族から任命され、世襲
でしたので国司の下ですが、大きな勢
力を持っていました。

 郡司は「
こおりのつかさ」ともいわれ、その役所を郡家「ぐうけ・
こおりのみやけ」と呼んでいました。

 壱岐国は壱岐郡と石田
(いわた)郡に分かれており、壱岐郡の郡司に任
命されたのは
壱岐氏の一族でした。
 
 
壱岐氏は活動の中心を郡城にしたものと思われます。

 この後の変遷ですが、建久三年(1192年)、鎌倉武家政権が樹立さ
れ、守護・地頭が地方を治めるようになり、建久七年(
1196年)に壱
岐は筑前守護の太宰少弐氏の管轄になりました。少弐氏は五氏に分治さ
せましたが、その一つの
塩津留(しおつる)氏が郡城を居城にしました。

 郡城跡の、すぐ北に
観音寺がありますが、塩津留氏の氏寺であった事
は明白です。現在、観音寺の位牌堂の中央に大きな仏壇があり、
塩津留
氏の位牌
が祭られています。また、郡城跡は観音寺の寺領になっていま
す。

 他にも、郡城から東へ約400mの、芦辺港を見下ろす梅ノ木ダムの
上の山頂付近に、出城と思われる
弦懸(つるかけ)が作られています。
本丸らしい石垣が残っています。

 塩津留氏が着任して、88年後に第一回の元軍の攻撃を受けることに
なるのです。

  
     鶴 翔(つるかけ)城 跡
           (芦辺町国分当田触)

         

 
国分天満宮を芦辺港の方に県道を下っていくと、月読神社があります。
その前を通り過ぎて、約250メートル位行くと、右手の山への入口が
あり、その道を約100メートル行くと、左手に深い山があります。
この
山の頂を囲むように石垣などが見られます。
 ここは、梅ノ木ダムの北西に聳えていて、この山を、
城の辻、または、
飛石山と呼んでいます。
 ここから東方に、当田新田の田原・瀬戸方面が遠望でき、昔は麓近く
まで入り江があって、ここから上陸・侵入してくる外敵に対しては
要害
の地
であったと考えられます。
 鶴翔城の由来は、当田の新田に鶴が舞い降り遊んでいたことから名付
けられたという説と、大きな松があって、その松に弦月がかかってその
光景が立派であったので名付けられたという説があります。
 壱岐名勝図誌に、「壱岐国続風土記云、此城当田堺にありて東ハこみ
ょうせに限り、西ハ田原に限り四町廿八間はかり(中略)、南ハ飛石川
に限り、北ハ本首衛松に限り三町半ばかり(中略)、腰の周囲七町」
「本丸の石垣の周囲二間半、丑寅の方に門跡あり」等と載っています。
 現に、その頂上部には石段が崩壊して残り、また石垣の一部が城門の
跡と言われています。腰部には、いくらかの空堀や切り落とし、土塁等
もあり、麓には殿屋敷と称される平地があって現在は畑になっています。
 ここは、塩津留一族の城跡の一つと伝えられていますが、定かではあ
りません。
 いずれにせよ、かなりの規模の中世の山城の形態を遺すものとして重
要なものです。
 
   
国片主(くにかたぬし)神社(国分天満宮)
      
(芦辺町国分東触)

 『壱岐名勝図誌』から分かることは、江戸時代は、

が多い。社殿前に銀杏が生えている.
・神社の前は
広場になっている。 
・正面は階段を上って広場に出るようになっている。(現在は、階段は 取
 り払われて、上り勾配の三叉路の道路になっている。)
石灯篭は鳥居より前の、広場をはさんで、階段の上った所の左右にあ
 る。
(現在は鳥居より後ろの、一段高いところにある。)
・階段を上る手前から、左に曲がる道(現存)があり、庄屋(現在の梶山家)
 
の横を通って広場に出る。広場への出口に国分石(へそ石)が大小一つず
 つある。
・「
六地蔵(顎かけ石)」は西側の石垣の前にある。(現在は、西の方に移動
 してある.)
・石垣は現在の二倍ぐらいある。(現在は、土俵を作るために狭められ、半分ぐ
 らいになっている。)

 『名勝図誌』祭礼の図からは、

・「
国片主神社」の幡を鳥居に数本たてている。
・多くの種類の祭具を持つ人がおり,参拝人で賑わっている。
・藩主の「
御名代」に天蓋付きの席が石垣の中央部に設けられる。
・石垣の上下や広場の周りには、弓や槍、その他の武具を持ったたち
 が大勢控えている。
・馬を駆けながら、弓で矢を放っているので、
流鏑馬のようなものが広
 場でおこなわれていて、それを見物している。

ということが分かります。

 

 この神社は、一般には「
天満宮」・「国分天満宮」と呼ばれています
が、鳥居の
石額には、「国片主神社」と刻名されています。

 鳥居に近づいて柱をよく見ると、前面に上部から下部まで刻字されて
いるのが分かります。風化と苔のため、判読が困難になっていますが、
読み取れる文字もあります。

 向かって右の柱の目の高さの位置から下の方にかけて、「・・武運
長久」という文字がはっきりと刻まれています。また、左の目の高さぐ
らいから下にかけて、「…
子孫繁昌処也」とも判読できます。
 
 建立当時は金箔が塗り込まれ、このような文字は人を引き付けていた
のではないでしょうか。

武運長久という語句は、
 第二次世界大戦の時、出征兵士のために、家族・友人・地域の人達が
盛んに使いました。端的に「生きて帰って来い」とか、「死なないで」
という言葉は、公然と言えない雰囲気でしたが、「武運長久を祈る」・
「祈武運長久」という言葉は、誰はばかることなく、使われました。

 男性は、日の丸の白地の上部に武運長久と入れ、寄せ書きをするのが
流行っていましたし、女性は「
千人針」といって武運長久と書きこんだ
白のサラシに、直径1pぐらい竹などの判子
(はんこ)に墨をつけて10
00個の輪(マーク)をつくり、その中心に1000人の女性の人から
糸を留めてもらうというものです。これを兵士に身につけてもらい、武
運長久を祈るというものです。 日本全国の出征兵士のお母さんたちが、
隣近所・お店・会社や街頭で千人針を一生懸命頼んでおられる姿が見ら
れたものです。

『壱岐国神社誌』(国幣中社住吉神社禰宜・佐藤秀夫 昭和15年5月10日発行)
『国分物語』(長谷川伊勢員・国分本村触・昭和62年刊)より引用しますと、

・延喜式内社
・祭神 
少彦名命(すくなひこなのみこと) 菅贈相国(かんそうしょうこく)
・鎮座 弘仁二年
(811年)
木鏡石額奉献 平戸藩主松浦鎮信 延宝4年(1676年)
・石鳥居造替 元禄十四年(1701年)

国片主と名づけられたのは、「遠き神代において、少彦名命が大国主
 命と共に経営され給うに依る。」ということです。「国分、国を分け」
 るという意味にも関係あるという説もあります。「また、古来
国分
 天満宮
国分天神というのは、菅原道真公を祀るためなり。」とあり
 ます。そこで、氏子の意識は、大宰府天満宮との結びつきがつよく、
 現在、氏子総代は任期が終わると大宰府へ揃って参拝し、特別待遇で
 昇殿を許され、お祓いを受けています。

・江戸時代の藩主名代の参詣は、亀岡城から国分まで、64人のミニ

 名行列
でした。行列の様子は、鉄砲五人・長柄槍五人・乗馬二人・草
 履取一人など、27の役が詳しく載っています。
・国中の力士が集まり、
大相撲が行われ、名代が観覧していました。現
 在も例祭の時に、奉納相撲として行われていますが、近年、力士の数
 も少なくなり、特に勧進元になる青年会員の減少で運営が困難になり、
 存続が問題になっておりましたが、平成13年に国分相撲協会
(会長
 村田武続氏芦辺町国分当田触が発足し、400年の伝統行事が継続されるこ
 とになりました。
 ・長谷川さんの資料によると、
鳥居志原太原天神の社格にふさわし
 くないという理由で、藩主の命で当社に献納させられたということで
 す。厳しい封建時代が分かります。
・拝殿前の東側にある古い
雄牛の石像は、郡内にこれだけの名作はない
 といわ れています。



 
神社の裏山に入るとが廻らされています。昔は、ここを古館ふる
たち)
と呼んでいたということです。 壱岐氏や塩津留氏の居館だった
ことは間違いないようです。

 この居館跡の北西約50mの所に
国分寺跡があります。




    
         
神幸・平成14年例祭)


      
「浦安の舞」奉納(平成14年度例祭)

   

 壱岐では永く途絶えていた「
浦安の舞」が、平成14年10月1日
(旧8月25日)の例祭の折、那賀中学校3年生によって奉納されました。
 二人は従姉妹で、日舞師範の
安永京子さん芦辺町湯岳本村触より指
導を受け、
神殿新築・拝殿改修落成祝賀会(平成14年6月16日)献穀
田御田植祭
(平成14年4月27日・芦辺町国分東触氏子総代長久保川好則氏所有田、
抜穂祭・8月27日)でも演舞されました。
 
安永さんは、榊原伸宮司の要請を受けて研究を進め、見事に「浦安
の舞
」の復活を実現されたのです。

            

国分寺跡
(芦辺町国分本村触)

 図誌の遠景(江戸時代)によると、小さい建物二棟の阿弥陀寺があ
りますが、現在、建物はありません。



  
 壱岐氏の氏寺居館
(天満宮の所在地に建っていた)直ぐ側に建てられてい
ました。

 741年、聖武天皇は全国に「国分寺・国分尼寺」の建立を命じられ
ました。 寺の正式な名称は
、「金光明 四天王 太平護国山 国分寺
といい、天皇の意図が読み取れます。

 〔壱岐島直氏寺、為嶋分寺、置僧五口〕

 壱岐では、2年後の
743年に、「壱岐直(あたい)の氏寺を嶋分寺
(とうぶんじ)となす。僧五口を置く。」と延喜式に記載されていますの
で、国分寺は新しく造らないで、壱岐氏の氏寺を転用して、僧侶は5人
配置されています。
 初めは、嶋分寺でしたが、壱岐国となった後、国分寺と呼ばれるよう
なりました。国分寺には、普通、僧寺と尼寺が存在しますが、壱岐では
尼寺はなかったようです。

 
上の写真は、国分寺跡で、昭和52年に司馬遼太郎氏が取材に来られた
頃は、草も伸び放題だったと思われます。
 氏の「街道をゆく」のなかには、「国道から少し歩いて、国分寺跡と
される野へ行った。途中、壱岐牛のための牧草の畑があった。そのむこ
うにわずかな芝地があってそこが寺跡らしいが、べつになにも遺ってい
ない。」と書いてあります。


 
国道ではなく、県道です。

 氏が訪れた頃とちがい、説明板もあります。その横の方に石が5,6個
あるのが見えますが、径が50〜60cmで上部が平面に削られています。
これが
礎石です。
 往時は、これくらいの数では、なかったでしょうから、相当数、あち
こちに散逸しています。

 中央に見えるのが、石の仏像です。移転跡には小さい阿弥陀堂を建て
たということですから、その当時の名残りものかもしれません。
 文字は見えませんが、相当古びています。

 
石像の左後方に石が積んであるのが見えますが、数は20個ぐらいです。
これは隣接してつくられた
殉国者慰霊碑の台石として使われていたもの
を改築の際、ここに運んだものです。この中にも国分寺の建築に使われ
ていた礎石などがあるのではないでしょうか。

 なお、天満宮の記念碑の台石にも礎石が使われていると言う人もいま
す。

 あと、目に付くものは、説明板の左方に
古井戸があり、大きなコンク
リートの蓋がしてあります。井戸は、水神様が祭られていますので、一
般に使用しなくなっても埋めずに遺しておくという風習があります。

 ここの発掘調査は、司馬氏が訪れた10年後の昭和62、63年と平
成元年
より、芦辺町教委と県文化課によって行われました。
 その結果、寺域の確認と瓦片、土器片、柱穴を発見しました。
 
は、九州各地の寺院に大宰府様式の瓦が多く使用されているなかで、
壱岐だけが
平城京の第一期造営に使用されたものと同じ軒丸瓦軒平瓦
が出土しています。
 これは、壱岐氏と中央との繋がりが強く、技術指導を受けたものと思
われます。

  

 司馬氏は、「国道にもどると、小さなよろず屋が道端にある。・・
豆腐を売っていることを知った。・・念のために写真を撮った。いまこ
の稿を書きながらながめると、質感がチーズのようで、ひどく
固そうで
ある。」と、壱岐の豆腐に触発されて、豆腐談義を載せられています。

 この「よろずや」は、
百田鮮魚店で他の食料も取り扱っておられ、当
時と変らぬ豆腐を売っておられるようです。

 知人と何が壱岐の土産に良いか、ということを話し合ったことがあり
ますが、知人は博多の親戚に行く時は、豆腐を持って行くと言い、私に
も勧めてくれました。

 
山口明博(勝本町百合畑触出身・四日市市在住)さんより、メールが
来ました。
 「昔、
佐藤勝也長崎県知事がお見えになった時、『何で壱岐の豆腐は、
こんなに固いんですかね』と言われたとか。
司馬氏も同じ感慨だったん
ですかね。ぼくらは、あの固さがおいしいですけどね。作り立ての熱いの
は、なんとんいえんです。油揚げにしてもおいしい。法事土産の油ゲを甘
辛く煮しめたものも、また、なんとんいえんです。」

 壱岐の豆腐の製造法など、後日、調べて紹介したいと思います。

殉国者慰霊塔
(芦辺町国分本村触)

他のページに掲載しています。
ここクリックしてください。


 
現在の国分寺
(芦辺町中野郷西触)



 現在の国分寺は、郡城跡より当方約100mの所にあります。
 西の方から、国分寺跡(殉国者慰霊碑)〜国片主神社(居館)〜
郡城跡〜現在の国分寺とほぼ直線上に等間隔で並んでいます。

 位置が山間に囲まれた窪地になっていて、判りにくいところになって
います。外敵からすぐ発見されないような場所を選んだのでしょうか。

 元文三年(1738年)、ここに移転しています。

 沿革を見ますと、法相宗〜天台宗〜真言宗〜禅宗五山派〜
臨済宗(禅
宗)大徳寺派となり、現在に至っています。(那賀郷土史・大正七年)


 同じ派の寺は、観音寺・東光寺・高源寺・定光寺・安国寺・西福寺・
寿慶院・竜峰院・伝記寺の九寺があります。
 仏教会に属している他の宗派は、
曹洞宗(禅宗)永平寺派の十七寺、
真言宗五寺、日蓮宗二寺、浄土宗一寺があります。

 国分寺の文化財の一つに、
木造弘法大師坐像があります。この像は、
秘伝とされ、60年に一度開帳されて、信者が礼拝してきたものだとい
うことです。
 像底に、大永八年(1528年)の年号と共に「大進作、同孫拝興、
佛所藤次郎、願主雄肝」と墨書銘があり、製作者及び修理者とその年次
の分かる貴重な作品です。材料は檜の寄木造りで像高は約40cmです。

国分寺については、郷土史家の
占部英幸氏が、「島の科学」(37号)
に、〔
壱岐国国分寺誌〕を投稿されています。

      
       国分・亀石周辺探訪