松永コレクション


はじめに

 今年は、松永安左エ門翁の歿後30周年になります。そこで、福岡市
美術館東京国立博物館等の主催で、「歿後30周年記念特別展松永耳庵
コレクション展
」が、平成13年9月8日〜10月14日、福岡市美術
館で開催されました。
 9月22日には、学芸員の尾崎直人氏が「
松永耳庵の茶の湯とコレ
クション
」という演題で記念講演をされましたので、聴取しました。
 これらを基に、松永翁の茶人としての歩みやコレクションについて、
まとめてみたいと思います。             (01.10.14)

松永翁の「茶の湯」のはじめ
 松永翁の著書、『耳庵茶話記』には、「昭和九年十二月の末、茶器商
篠田一釜庵、杉山茂丸翁の使いなりとて自動車一パイに風呂敷包みの箱
類を目白の宅に持ち込んだ。そのころまで一寸も茶の気のない自分のこ
ととてただ厚意を感謝して貰っておいた。それがなんと杉山翁の遺品と
なり、翌年には翁は死去せられ、自分はその時から茶事の林に踏み込ん
で仕舞うた。つまり数十年間の杉山翁との交わりは翁の死亡とともに新
たにこの茶道具を縁としてさらに結ばれ繋がれ、今後は更に深められて
行くのである。」と記されています。
 この中に出てくる杉山翁の先祖は黒田藩士で藩公に茶道の指南もした
ことがあり、茶道具も多く所持されていて、不足分を茶器商に補充させ
たのだろうということです。
 そして、このお礼にでしょうか、昭和十年一月二十七日、松永翁は杉
山翁を招待して茶会を催しておられます。勿論茶器商の篠田氏が手伝っ
ています。
 この時、松永翁は杉山翁に、福沢桃介氏達も招待するようにしてい
ると話されたのでしょう。杉山翁は、福沢氏達はお茶は嫌いだから普通
の食事と言って招いた方がよいと入れ知恵をしています。
 杉山翁は、この席に松永翁に内緒で、
益田鈍翁達を招いていたので
す。益田鈍翁は、杉山が来いというので来たと言ってドヤドヤと席に入
って来られ、これには松永翁も驚かれた様です。
 このようにして、鈍翁との付き合いが始まったわけですが、当時鈍翁
とともに茶道双璧の一人だった
原三渓との出会いにも繋がりました。
 これから、松永翁は「茶の湯」を始められましたが、60歳の還暦の
時だったのです。そして、「六十にして耳順
したがう」の『論語』の意か
ら、号を
一州いっしゅうから耳庵に替えられました。
 益田鈍翁
どんのうは早速「耳庵」と揮毫した扁額を贈っています。(これ
壱岐松永記念館が所蔵しています。

松永コレクション
 松永翁は、埼玉県志木の柳瀬に山荘
(この中に「耳庵」の茶席あり)を営み、
茶の湯三昧の生活を送りました。その間に、益田鈍翁(1848〜1938)や
原三渓(1868〜1939)といった、近代数寄の代表と目されていた茶人と
親交があり、短期間の間に、その後継者と見なされるように精進されま
した。
 戦後は十数年過ごした柳瀬山荘の土地建物を、それまでに収集された
多くの美術品とともに東京国立博物館に一括寄贈され、気候のよい小田
原市板橋へ転居されました。

 間もなく、電力再編成問題で中心的役割を担うことになり、「電力の
鬼」といわれるような闘争的な多忙な日々を送るかたわら、茶の湯に一
層親しみを深められるとともに、そのほとんどを国に寄贈して、止めら
れていた古美術の収集にも力を注がれるようになりました。昭和34年
(1959)11月には私設美術館・財団法人松永記念館を開設して、所蔵
の茶道具、古美術を広く一般に公開されました。

 我が国で有数のコレクションのひとつといわれる松永コレクション
は、戦前に収集したものは昭和23年に東京国立博物館に一括寄贈し、
その後に収集を再開し、小田原の財団法人松永記念館において公開して
いたものが、松永翁の歿後、財団の解散に伴って昭和55年に福岡市美
術館をはじめとする幾つかの公共施設に寄贈されました。

 耳庵の収集品は日本の古美術をはじめ、中国・朝鮮・西アジア・西洋
のもので、種類も多岐に亘りますが、中でも茶道具が主になっていま
す。
 戦後、集められた主な茶道具などが昭和55年に
福岡市美術館に寄贈
され、その一部を
常設展示室(一階)で見ることができます。



    
松永コレクション(約500点)の一部が、
      WEBサイトで見られます。

福岡市美術館
 ⇒コレクション⇒
 
●古美術コレクション(芦屋香炉釜・猿投灰釉壷・色絵吉野山図茶壷・
      粉吹茶碗 銘「十石」・鉄砂草花文壷・嘉靖五彩魚藻文壷・
      万暦染付唐草文梅瓶・黒絵式アンフォウ・牛形こう
    

東京国立博物館 ⇒陶 磁⇒
 ●桃山以前の日本の陶磁(志野橋文茶碗) ●中国の青磁(青磁鳳凰耳瓶
 ●その他(
大井戸茶碗



 松阪直美
壱岐・芦辺町深江鶴亀触出身・作詞家の『わが人生は闘争な
りー松永安左エ門の世界
』より、許諾を得て転載します。(02.1.17)


   
   耳庵美術品のゆくえ
 
 
昭和五十四年九月に松永翁と親しかった人人へ、次の招待状が配られ
た。

          御  挨  拶

 松永記念館は、昭和三十四年設立以来松永耳庵の蒐集品を公開展観して
来ましたが、小規模ながら特色ある美術館として、小田原市民の皆様、並
びに広く一般の愛好者の方々の御鑑賞を頂き親しまれて参りました。
 しかしながら、諸々の事情の推移もありまして、記念館としては永く耳
庵コレクション保存のためによりよき途として、近く開館予定の福岡市美
術館内に、特に「松永記念館室」を設け、コレクションの大部分をここに
移すこととし、財団は解散することにいたしました。福岡市は、耳庵が第
二の故郷として懐かしんだ土地であります。コレクションが小田原の地を
離れますことは、関係者一同にとりましてもまことに名残り惜しいことで
ありますが幸に諒とせられまして福岡をお訪ねの節は、是非彼地美術館へ
お運び下さいますよう願いいたします。
 なお記念館の土地建物は、小田原市へ寄贈いたしますので、耳庵の主旨
をお汲み取り願い、末永く当地方の為お役立て戴きたいと存じます。
 ひとことお礼をかね御挨拶を申し上げます。
    昭和五十四年十月十日
                 
財団法人 松 永 記 念 館
                理事長   
井 上 五 郎


 
松永翁の戦前に蒐集された美術品は昭和二十一年に柳
瀬の別荘と共
に国に献納され、重要な品は帝室博物館に寄贈された。そののちに集め
られた品の中にも、国宝に指定されている「釈迦金柑出現図」の他に、
重要文化財、重要美術品に指定されているのが、三十余点も小田原の松
永記念館にあった。この保存方法についていろいろ考えられたあげく井
上理事長の挨拶にもあるように、新設される福岡市美術館入りとなった
のである。
 どうして福岡市へと思われる方が多いと思ったので、「松永安左エ門
翁の憶い出」の中に河内卯兵衛元福岡市長の一文がよくこれを説明して
いるので転載させて頂いた。



          博多は安息の地

               元福岡市長 
河 内 卯 兵 衛

 松永氏の生まれた処は壱州である。又松永氏の大成した処は東京であ
る。然しながら其最も長く居住した処、居住しないにしても少年時代か
ら今日まで常に往来を絶たぬ処は博多である。
 博多は松永氏にとりて修養の地であり、悦楽の地である。従って順風
満帆の思出もあろう。悪戦苦闘の思出もあろう。又奮闘の処であり、又
折花攀柳の昔話にも、政治や社交の話題にも、一木一草すべて思出の種
ならざるはなしという土地であろう。
 若し一般の謂い慣わしのように第一の故郷とか第二の故郷とかケチな
呼びかたをせずに、これを広義に解釈すれば、諸々の意味に於て実に博
多は松永氏の故郷である。<中略>
○故郷としての博多
 松永氏は博多のことをよく考えてくれる人で、博多にかんする何か頼
みごとでもあれば、いつも、なにごとでもしてくれる親切な人です。福
博電車をつくって市民のためにつくし、また市繁栄の基礎をつくったこ
とはだれでもが知っております。私どもがいろいろなことを申して行き
ますと、なんでもしてくれる人です。
 たとえば、近頃観世音寺に立派な宝物館が出来上がりました。これも
普通であればまだできあがっていない筈です。国の予算を組むときに何
百万円の補助金をうけるはずのところ、あるところまで来ているのに、
大野伴睦の横ヤリのためにとうとうできなくなって、その予算は高野山
に取られるということで当惑しました。そのときちょうど松永氏がこの
博多にきておられましたから頼みましたところ、電話でいまの首相、そ
のときの大蔵大臣池田勇人氏にいろいろと説明されまして、これは九州
地方のためにぜひ補助して完全にしなければならないから出してくれ、
高野山も大事だが、観世音寺も大事であるということで、とうとう一晩
のうちに国の予算をうけることになったのであります。
 またその他のご理解によって四千万ばかりの金できれいになりまし
た。いまは火事にも、雨もりにも大丈夫、どうなっても禍いを防げると
いうことになって、寺も大変喜んでおります。これは西日本における古
文化財のセンターとして、大いにこの地方の発達にも貢献することであ
ろうと、私どもは喜んでおります。
 たとえば、この天神ビルにしましても、いまは九州電力会社のことを
九電といっておりますが、その当時は九電といえば九州電燈鉄道株式会
社という会社で、その社長でありました松永氏が、博多のために、ひと
つ大きな、きれいなものを建ててやろうということでこのビルの前身で
ある本社のビルを建てたのであります。そのときの博多っ子の言葉でい
えば、「あそこは鉄筋コンクリートという固い建築物だそうな、あそこ
には、普通のハシゴ段もあるが、それで上がらずに、エレベーターとい
って、箱にのって上がると、一人で二階三階に上がって行く道具がつい
な」
 こういっておったのであります。まだそのころなかったいろいろのも
のがあったわけです。
 まだ洋館造りというのは、ほとんどなかったであろうという頃、第一
番にこの天神町の一角に大きな、立派な、人の目を見はらせるようなも
のが出来たのであります。これはまったく、そのころまではそれほどの
規模の必要はなかったでありましょうが、松永氏が奮発してつくってく
れたのであります。
 その後だんだん大きい建物ができるようになって、このむかしの九電
の建物もだいぶ古ぼけて、見おとりするようになったから、どうにかせ
にゃならんということで、こんどは松永氏の弟子の佐藤篤二郎君の奮発
によって、この大きな天神ビルが出来るということになったのです。
 天神ビルの前身は、この天神界隈の繁栄を誘い出した第一歩であった
ろうと、いまも考えております。そう思いますとあの古ぼけた建物は大
変ここに貢献したものであると思っております。
 一昨年のごときは、松永氏の手によって、福岡市の発展に尽された諸
先輩の霊をなぐさめるために、大きな追悼会を崇福寺で催してもらいま
した。福岡市のために尽された方方であるから福岡市民が弔うべきであ
ろうに、いっこうに私どもは気がつかず、私ども一同はまことに赤面の
いたりでしたが、いまもってわれわれの感激しておるところでありま
す。<中略>
 何度も申しますごとく、厳格にいえば松永氏の故郷は壱岐である。し
かし自分の故郷は博多であるといってこの地のために努力されている。
福岡市の発展は、自然の力もありましょうし、先人の努力、今日の人の
勉強もありましょうが、先人としてつくしてくれた松永氏に対し博多市
民として、この機会に感謝いたします。(昭和三十六年十二月二日)



     
         松永安左ヱ門翁(トップ)