平成元年、曽良翁280回忌記念事業の一環として、記念誌『海鳴』が
発行されました。その中に、
勝本北斗句会の発展や曽良の句碑の建立に尽
力された
原田元右衛門氏の「研究論文」があります。ご子息、原田彰夫
の許諾を得て転載します。


     
     
俳聖芭蕉翁の伴侶
    曽良翁終焉の地  壱岐・勝本

                       
原田 元右衛門
          

(1)曽良のおいたち(略)
(2)曽良の俳号と地誌学(略)
(3)芭蕉と曽良(略)
(4)奥の細道と曽良(略)
(5)芭蕉亡き後の曽良(略)

        
(6)九州の旅(筑紫の旅)
 
 
芭蕉亡き後も、曽良は俳諧を続けてはいたが、一方、吉川惟足の高弟と
して一門を助けて活躍し、漂泊流転の生活を続けていたものと思われる。
宝永六年(1709)五月十日徳川家宣が六代将軍となり、恒例による国
内検察のための全国八区へ巡見使派遣を発令したのが十月二十三日、割当
てが十月二十七日になされ、九州地区は、二筑・二肥・日向・大隅・薩摩
・壱岐・対馬・五島(豊前・豊後は四国に入る)となった。曽良は吉川一
門から神道学者として推挙されたが、三名の巡見使のどの配下として筑紫
に下ったか不明であり、武士または神官の資格で近習としての秘書格で随
行したものと思われる。曽良は随員に加わった時から、岩波庄右衛門正字
にかえっている。

     宝永六年 歳暮
    あはれただ過し日数はあまたにて
        さてしもはやく年そくれ行    正字
     手当を頂いて 歳暮
    千貫目ねさせて忙し年の暮    曽良
 曽良は宝永七年(1710)三月十五日頃江戸を出立するに当たり、
上諏訪の郷里に次の和歌と俳句を送っている。
     歳児試筆
    立初る霞の空にまづぞおもふ
        ことしは花にいそぐ旅路を    正字

    ことしわれ乞食やめても筑紫かな    曽良

 また、幕命によって編集した「五畿内誌」のうち、曽良の進言によって
「河内誌」を書き上げた地理学者関視衡は、かねての親交もあり、曽良の
筑紫への旅立ちに極めて長い送別文を送ったことが、曽良の死後郷里で遺
品の中から発見されている。
 宝永七年三月(1710)朔日、巡見使三使は将軍よりいとまを賜り、
三月十五日頃江戸を出立した。
 (中略)
 江戸を出立した巡見使一行は、東海道を下り大阪から瀬戸内海を航海し
て、筑前国若松(北九州)に上陸して、小倉藩、名島藩を検察、黒田藩、
唐津藩を通り、五月六日呼子から壱岐郷ノ浦に上陸、一泊の後五月七日郷
ノ浦から陸路、要人は駕篭で、その他は馬で、昼頃勝本浦到着、それぞれ
の宿舎に入った。
 巡見使の宿舎は、三光寺・神皇寺・押役所の客殿と思われる。一行は順
風に恵まれれば府中(対馬)に渡り、全島を巡見後五月十九日頃勝本に帰
り、五月二十日頃五島へ向けて出発する予定であった。
 巡見使の旅は強行軍で、殊に離島の多い九州は船旅が多く、暫しの自由
も許されない厳しさがあったといわれる。食事は一汁一菜、それも四品と
決められるなどしていた。そのためか宝暦十一年(1761)には、御小
姓組、神保帯刀が薩州で倒れ、天明八年(1788)には御使番の小笠原
主膳と御小姓組の土谷忠次郎の二使が共に薩州で殉死している。
 当時六十二歳の曽良には、かって各地を遍歴した経験はあるにせよ、休
む暇もない七十日にも及ぶ公務の旅は思いもよらぬ苦しい旅の連続で、神
道の調査も思うにまかせぬ事もあり、身も心も疲れ悩み苦しんでいた。
 勝本浦に着いた時は、身心共に疲労困憊の極に達し、中藤家を宿として
病床に臥すことになった。
 当時勝本浦は風本(かざもと)と言い、壱岐島北部の良港で漁船の停泊
地でもあり、又土肥鯨組の初期として浦中は大漁で賑わっていた。
 中藤家は、熊本藩主加藤家の末裔として、風本の中心地にあり、「重ね
桝」という大きな鬼瓦が往来を見下す旧家の大きな海産物問屋であった。
 曽良は巡見使一行として、松浦藩からも丁重に取り扱われ、中藤家二代
目中藤五左衛門も妹等を看護につける等、手厚く看病に努めたが、高齢も
手伝い、宝永七年(1710)五月二十二日、六十二歳を一期として、中
藤家で静かに不帰の客となった。墓地は中藤家の菩提寺である三光寺(現
在の能満寺)の一画に葬られた。
 墓碑の正面に「賢翁宗臣居士也」、その右に「宝永七庚刀天」、左側に
「五月二十二日」と刻され、右側面に「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」と
してある。曽良は臨終にのぞみ、故郷の住職より法名を頂いている旨の遺
言があり、中藤家で遺言は守られたと伝えられている。墓碑は面碑五十一
糎、墓碑の高さは百十五糎で三段に積まれている。
 法名の「賢翁」は芭蕉を言う約束ごとがあることから大変優れた俳人で
あることを意味し、「宗臣」の「宗」は分かれたものの本源を指すことか
ら、徳川家から遣わされた役人であることを示し、「尉」は良民を安ずる
の義であることから、官名として、巡見使一行としての尊敬を払ってつけ
られたものであろうと思われる。又「刀天」は「風軒随筆」に依れば寅の
年を意味し、「宝永七年寅の年」という事になる。墓碑上部は長い年月の
ためか「賢」の字の上甲部が欠落している。
 側面に「岩波庄右衛門尉塔」と刻まれているところから、「塔」は「お
がみ所」という意味のものであり、お墓でないとの説もあるが、古来勝本
は墓石のことを石塔といっていることから、墓石であることは間違いない。
 昭和五十二年三月六日の壱岐日報の紙上と、昭和五十一年刊壱岐島俳句
百二十九号に真鍋儀十氏は曽良の遺品について、
 「曽良死亡後、中藤家は松浦藩と相談して笈と頭陀袋、硯箱、印章、そ
の他の遺品を江戸の奉行所に一旦送りつけたものを、更に幕府から信州諏
訪の遺族に回送された所までは判っていたが、それから先がとんと掴めな
かった。処が、筆者(真辺氏)は、先年天理図書館に調べ物があって、木
村三四吾主事と話をしているうちに、この主事が筆者の長崎師範での一級
上の穎原退蔵博士の愛弟子だという事が判り、ふとした事から曽良の遺品
の笈も頭陀袋も、ここに蔵まっている事を突きとめた」と、遺品の写真ま
で添えて、発表されている。
 曽良に関する文献として最も大事なものは「奥の細道神名帳抄録」「奥
の細道旅日記」「奥の細道名勝備忘録」「奥の細道俳諧書留」「近畿巡遊
記」などがあるが、これらの資料は「河西本奥の細道」や曽良が旅で用い
ていた笈とともに八十年近くも曽良の母の生家の河西家に伝わっていた。
寛政の頃(1789年〜1800年)河西家の遠縁に当たる勝森素へき
手に移り、それから久保島若人、助宣、松平志摩守、桑原深造、斉藤幾
太、斉藤浩介などへ、転々と移り、偶々昭和十三年(1938)の夏、伊
東の斉藤家が虫干ししていた時これが発見され、昭和十八年(1943)
山本安三郎編書「奥の細道随行日記」として、東京の小川書房から発刊さ
れた。奇しくもこの日が芭蕉二百五十回忌、生誕三百年祭に当たるとい
う。
 越えて昭和二十五年(1950)九月この資料は、当時の九大文学部教
授の杉浦正一郎氏が斉藤家から譲り受けられた。教授がなくなられた後、
昭和三十四年(1959)二月未亡人の手を放れて、天理図書館の所有す
るところとなり、曽良没後二百三十四年にして世に出たといわれている。
 諏訪史料叢書に依れば、諏訪の小平探一(俳号雪人)が明治四十二年
(1909)十一月十一日、勝本浦で曽良二百年祭執行の折、勝本に招か
れた時の話として次のように伝えている。
 「勝本浦は二度の大火で中藤家の町内は殆ど一物も残さず焼けてしまっ
たから希望の文献や曽良関係の史料は何一つ残っていないという事であっ
た。中藤家は其の土地の鯨問屋で、なかなかの資産家であったといわれて
いるが、当時、六十歳位の老母から、家に伝わっている口伝えというもの
を聞くことが出来た。
 曽良が中藤家に落ちついた時は、京都の女流画歌人がいて看護した上、
曽良の没後はその人に依って追善供養が営まれ、曽良の御墓は中藤家の墓
地よりは一段と高い所に祀られたが、その歌人もまもなく没したので、曽
良の御墓の附近に埋葬されたという。法名智峰妙恵信女(享保元年二月十
五日)と知らされた。御墓所に参って検した所、諏訪の正願寺の御墓と殆
ど同じであった。」と記されている。一説には、この歌人は曽良と二ケ年
も同棲していた様に言われてもいるが、それは全々根拠のない物好きな人
の風評に過ぎないものである。俗に言う一犬虚にほえて万犬実を伝うの類
であろうと思われる。
 翌十二日勝本浦田の中町の原田嘉一(一峰又愛清と号す)が司会者とな
り、能満寺に雪人を迎えて曽良の供養をした後、席を改めて曽良追悼俳句
会を開いた。出席者は次の方々であった。
 長島俊光(二代)、殿川忠蔵(酒屋)、石橋笑山(酒屋)、原内ノ山
(三代、元右衛門)等二十名余であった。
 現在能満寺には、永代供養のため雪人の自筆の信州諏訪湖東村阿心庵雪
人の書付があり、原田大耕(四代元右衛門)宅には、雪人の次の書が蔵さ
れている。     
           
            
勝本浦・原田彰夫氏所蔵              

    時風吹来ぬ香椎潟潮干丹玉藻苅奈     雪人書

 小平雪人が、諏訪から中藤家を訪ねた時は、十一代の当主の中藤吉太郎
氏は、朝鮮の慶州に居住していたので、勝本浦の留守宅は父の十代中藤芳
三郎(当時六十六歳)と舎弟の中藤彦三郎(六十四歳)と同人妻の菊女
(五十九歳)の三名であった。曽良の事を、雪人に話した老母とは、菊女
であると思われる。
 去る日、私は、能満寺に坂口住職を尋ね、寺にある旧三光寺時代の過去
帳を見せて頂いたが、徳川後期の過去帳が一冊あるだけで、私が調べた
い、曽良や中藤家を記した徳川前期の過去帳は、明治初年三光寺から能満
寺に移転の際、紛失したものか、能満寺には無い事がわかった。このこと
から能満寺の過去帳に、曽良の芳名が記載されていないのではなく、曽良
時代の過去帳自体が紛失していたのである。
 尚曽良の画像に書き添えた軸物があるとも聞いていたが見当たらなかっ
た。現有は殆ど明治以降の物ばかりである。
 そこで中藤家の系図により中藤家の墓地を引合調査した所、曽良の御墓
の近くに観音像型の御墓が一基あり、この御墓が菊女から雪人が聞いたと
いう女流画歌人智峰妙信信女の御墓ではないかと思ったが法名がないの
で、確認する事は出来なかった。
 又一説には、曽良は、諸国東導の役をしていたという事から、或いは壱
岐対馬にも五山の僧の御供をして来た事があるのではないかと言われてい
たが、これを裏付ける資料もなかった。
 曽良の病中の女流画歌人の看護説も事実無根のようであり架空のロマン
スに過ぎない。


          
    俳人曽良(とっぷ)

                
(七)曽良の句碑