俳聖芭蕉翁の伴侶
     曽良翁終焉の地 壱岐・勝本
             原田 元右衛門


       
(七)曽良の句碑

 
曽良の句碑「春にわれ乞食やめても筑紫かな」は、能満寺の裏山にあ
る曽良の墓地から西側約二百米余にある、高さ九十米余の勝本城趾の南
側に建立されている。
 芦辺町出身(在東京)の松阪直美氏の語るところに依れば、大正の末、
民俗学者本山桂川氏が松永安左エ門氏から壱岐行きをすすめられ、離島
の風俗伝説等を調査された折、郷ノ浦の白藻会の俳人の呼子無花果氏な
どの案内で各所を廻られ、勝本北斗句会原田謙蔵氏や湯ノ本湯ノ華会長
長谷川竹亭(竹七)外俳句同好の人達との交わりの中で句碑建立の話が
起こり、書を本山桂川氏の先輩の塩谷鵜平氏に依頼して頂く事になった。

                 
         
 (山口註 勝本浦・原田彰夫氏保管担当 
              原田宅にて撮影 平成14年9月8日)
          

 句碑は城石を組み立てて建立し、額の高百三十二糎、横百糎、高さ二
百二十五糎、である。
 本山氏と塩谷氏は同じ河東碧悟桐の門下にあり、本山氏は明治二十一
年長崎市江戸町に生まれ、商業学校から早稲田大学の商科、途中政治経
済科に転じたが在学中は民族学も研究された。
 大正元年(1912)大学を卒業後は、郷里の長崎商業会議所に勤務、
戦後、金石文化研究所を起こし、金石碑に関しての研究では、造詣が深
く三十数冊の著述があり、又全国の拓本が数千に及ぶという。
 城山公園の句碑を染筆された塩谷鵜平氏は名を熊蔵といい、明治十年
(1877)五月岐阜県稲葉郡鏡色の生まれ、明治三十年東京専門学校
(早大)政治経済科卒業、素封家で後、鏡島銀行頭取となった。俳句は
子規についで、碧悟桐の新傾向運動に参加し、「海紅」の同人であり、
また能書家であった。(昭和15年12月没) 当時壱岐の俳諧は仲々
盛んで次の俳句会があった。

 勝本町北斗句会
原田謙蔵、 篠崎清泉(清吉)、殿川高雲(重吉)、
原田大耕(元右衛門)、池内達磨(一)、長島霞舟(俊光)、
石橋一石(尚)、下条竹葉(徳衛)
 郷ノ浦白藻会
呼子無花果(丈太郎)、滝川雨九(敏)、山口草平(麻太郎)、
目良歌比古(亀久)
 湯の華会(湯ノ本)
長谷川竹亭(竹七)、長谷川竿月(栄)、今西直来子(与一郎)、
横山幽谷(蔦吉)、長山古城(国光)
 芦辺町土会
宮津葦水(隆)、西谷黙笑(洞林)、岩谷鈍牛(静夫)、
中原雅清(雅千代)

           
曽良の句碑除幕式
 句碑は昭和九年三月勝本町の北斗会・湯ノ華会、白藻会(郷)、土会
(芦)、等郡内の俳句同好会が全国の有名俳人から色紙短冊の寄贈を受
けたり、また特志を受けて資金とし、勝本浦坂口町の石工、川上仲一
(箱崎村江角)が工事一切を請負い、塩谷鵜平氏の書を城石に刻して、
地元青年会の奉仕の下、城山公園の南側の地に建設された。
 昭和九年五月二十二日、曽良二百二十五回忌に当たり、次の方々の出
席を得て除幕式が行われた。
 郷ノ浦白藻会
呼子無花果(丈太郎)、山口草平(麻太郎)、目良歌比古(亀久)、
山川鳴風(胤美)、
 芦辺町 土 会
宮津葦水(隆)、岩谷鈍牛(静夫)
 石田町  筒
山川白萩(女)
 湯之本湯ノ華会
長谷川竹亭(竹七)、長谷川竿月(栄)、白川白峰(観世音住職)、
横山幽谷(蔦吉)、長山古城(国光)、今西直来子(与一郎)
 勝本町 北斗会
篠崎清泉(清吉)、殿川高雲(重吉)、長島霞舟(俊光)、
原田大耕(元右衛門)、石橋一石(尚)、斉藤北汀(貞雄)、
池内達磨(一
ハジメ)、下条竹葉(徳衛)、田中雅眼(判屋寅松)
 他の参席者
吉野弘祐(聖母神社宮司)、中上良一(黒瀬青年会)、勝本税関長、
桑田能満寺住職、川上仲一(石工)
 長嶋ツル女(二代俊光の令閨。中藤家三女)が除幕をして後、長谷川
竹亭の挨拶があって一同乾杯をして式を終えて記念写真を撮り、能満寺
本堂に会場をうつして追悼俳句会を催し盛会のうちに散会した。



 昭和九年二月本山桂川氏から曽良の句碑建立の発起者であった湯ノ華
会長の長谷川竹亭(竹七)氏へ次の書簡が送られた。この書簡は遺言に
より能満寺に保管されている。


    
    
(山口註 勝本山能満寺 真言宗智山派 総本山・京都市智積院
         寺は
城山の中腹にあり、眼下に勝本湾が展望できる。
              直ぐ裏山に
曾良の墓地がある。)

    
      
(山口註 本山桂川氏の書簡 280cm×28.5cm
          
坂口哲朗住職と勝本町文化協会理事・福田敏
           於能満寺本堂 平成14年11月10日)

       
              (能満寺第36世住職・
坂口哲朗氏)

                                      

「  月日は百代の過客にして行きかふ年も亦旅人なり。
   行く春や鳥啼き魚の目は泪


 
前途三千里の思い胸に抱き、遙かなる奥の細道の旅程に上った芭蕉翁
が、杖と頼む同行の伴侶は、深川の草庵より従える曽良その人であった。
曽良は日頃、芭蕉庵近くすまいして独居の師翁を慰め、薪水の労を助け
ていた。


   君火をたけ よき物見せん雪まるげ

 
或る雪の夜、曽良に与えられた翁の句である。後に鹿島の月に随行し
たのも亦彼であった。
 此度の曽良は、師翁が羈旅の困難をいたはらんものと、旅立つ暁、髪
を剃って、黒染にさまをかへ、俗名惣五郎を改め、宗悟とは名乗ってい
た。
 或いは黒髪山の霞に雪を仰ぎ、或いは青葉の奥に日光廟をおろがみ、
或いは松島象潟の勝を探り、やがて羽越の国境をも踏み越え、日本海の
波濤を聞いたのである。辛い苦しい四ケ月の旅を金沢まで来ると、遂に
病に侵され、後事を北枝に託して暇を乞うた。

   ゆきゆきて倒れ伏すとも萩の原

 
彼は哀別の一吟を師翁に奉り、淋しく膝下を離れなければならなかっ
た。
『行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて、雲にまよふ
が如し』と其時翁は記された。一日を距てて大聖寺城外金昌寺に来て見
れば、其処には、前夜同じ寺に泊まった曽良が、再び師翁に残し置いた
一句があった。

   よもすがら秋風聞くや裏の山

 既に別れては、又一夜のへだたりも、千里のへだたりに均しかった。
 後年、あこがれの筑紫に下り、玄界を航し、縁あって壱州の地に淹留
するに至った事蹟は、尚未だ詳かならざるものがあるにしても、秋風春
雨二百二十有五年、彼が俳魂は、辰の島、若宮、名烏の島影と、旧蹟城
山の松籟に執着多き事であろう。
 今日しも、見よ、記念の句碑茲に成る。水も石も、木も土も、彼と共
に甦きて、とこしへなる浦安き悦びに、かがやかしさを放っている。文
華此上にいや深え、繁り増さむことを希う次第である。

   潮の香に五月は島の照り映えて

 
昭和九年五月二十二日
               葛飾の眞間のほとり
 本山桂川寄す
 湯の本
  長谷川竹亭 殿                   」



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