勝本町百合畑触出身の山口明博氏(鯨中18回 壱岐高20回・昭和
43年卒業)から、椿の壱岐での通称「かていし」(かてし)につい
て、寄稿してもらいましたので掲載します。
「か て い し」 の こ と
鈴鹿エンジニアリング(株)
四日市市在住 山 口 明 博
「かていし」は壱岐における椿の別名で、いわゆる方言だと思います。
私の私的な解釈なんですが、石のように堅い実をつけることから「かて
いし」と呼ぶようになったものと思っています。
「かていし」、すなわち「椿」は私の小さい頃は身近な木、花、実でし
た。家の周り、背戸の山、向かう山と椿の木が必ずありました。植樹され
たものか、自生したものかわかりません。「桜」の木よりも身近な木だっ
たように思います。
椿の花が咲くのは秋の頃から冬にかけてかと覚えています。(昨今は椿
の花をしみじみ眺めたことはありません。)
椿の花でよく遊びました。椿の花は輪形になっていて散ってもばらばら
になりません。散った花をワラスボ(藁)に通して花輪を作って首にかけ
たりしていました。また椿の花には蜜が溜まっています。雨上がりに木に
登って椿の花からよく蜜を吸ったものです。口の周りには黄色い花粉が
いっぺ≠ツきました。
椿の実は落ちたものを拾ったり、竹の枝を切り落として二本だけ短く残
し、逆さにして鈎をつくり、それに実をひっかけて引っ張り、落としまし
た。
私は、よく祖父や祖母が山に行く時に後からついて行き、落ちた実を拾
い集めていました。手伝わされたのかも知れません。だいたい一回でカレ
ーテボ(背負い籠)の半分ぐらい集まったものです。
山から取ってきた椿の実は縁の下にいなまき=iムシロ・莚)を引い
て、その上で乾燥させていました。場所としては縁の下でなくてもいいん
ですが、結構日当たりが良く、かなり乾燥している場所で、しかも邪魔に
ならないといった所というのが理由でしょう。
だいたい一週間も立つと、さすがの堅い椿の殻もひび割れて開いてきま
す。その頃縁の下に入ってひびの入ったものから殻を開いて中の種を取り
出すのは子供の仕事でした。仕事と言っても半分以上は遊びです。妹と縁
の下に入って殻をむいていました。
椿の種子部分は形も色も枇杷の種に良く似ています。殻を割り終えて中
の種が出揃ったところで縁の下から取り出して、次の日曜日あたりに、い
よいよ油を搾るわけです。
椿油搾りは一家総出の行事で、それは餅つき≠ニ同じくらい忙しかっ
たのです。椿の実を水洗いしてセイロ≠ナ蒸します。そして蒸し上がっ
たころのコオバシイ″≠閧ニいったらエモイワレン≠ニいった良い香
りだったことを覚えています。
蒸し上がった実は黒い皮がはじけて黄金色の中身が見えました。これを
棕櫚(しゅろ)の皮で作った網の買い物籠≠ンたいな袋に入れます。搾
り機は搾り木といった方がいいような、厚さ約5p幅約30cm長さ約1m
ぐらいの松の板を3枚重ねて、その両端に四角な穴をあけ約5p角の角材
に通されていて、サンドイッチ状になったものでした。それを餅つきに使
う木臼の上にのせます。
その重ねた板の隙間の片方に、例の棕櫚の袋に入れられた椿の実を挟
み、もう片方に大きなこれまた木でできた楔を打ち込んで搾るわけです。
臼の中の丁度搾られた油の落ちるところには大きな鉢が置いてあり、その
中に油が溜まる仕組みです。
楔を二本、三本と打ち込み、時間をかけて最後の一滴まで搾っていまし
た。
搾られた油は大きな鍋に入れてとろ火≠ナ煮て、(決して沸騰させる
ことなく)、灰汁(アク)をすくい取って精製していたように思います。
その日の椿油搾りで、どのくらいの油が採れたのか記憶にありません。大
鍋に煮たくらいですから、約10リットルぐらいはあったのではないかと
思っています。その日その油でお袋が芋の天ぷらを揚げて食べたような・・。
それから、その油はどうなったのか、これまた記憶にありません。祖母
が髪につけていたのはおぼえていますが、10リットルもつけるわけがあ
りません。供出したようなことも覚えておりませんので、案外天ぷら油に
して食べてしまったのかも知れません。
これらのことは、小学校入学前か低学年ぐらいの頃のことで、それ以来
椿油を搾った記憶も食べた記憶もありません。
この椿油搾りの体験といいますか、当時は生活の一部だったと思ってい
ますが、遠い昔の椿油搾りのことを懐かしく思い出し書いてみました。あ
の椿油の搾り機も木臼も大鍋も、まだ実家に残っているかどうか分りませ
んが。
余りに遠い昔の事で、その記憶を辿りながら、しかも文献も調べもせず
に書いておりますので、季節とか、その技術というより方法とかの間違い
が多分にあると思います。その場合は遠慮なく申し出て頂きたく思いま
す。偏に投稿者の責任です。
平成13年1月7日
私の家では搾油機のような便利なものがありませんでしたので、第一
段階の仕事として椿の実を(焼き栗のように)ホーロクで炒って皮を割り
易くし、臼と杵で餅を搗くようにして潰しました。第二段階では、これを
水に溶かし、釜に入れてとろ火で炊きながら攪拌し、表面に浮かんでくる
椿油を採っていました。大変な労働でしたが、現在ではジューサーのよう
な便利な機械が出来ているようです。
山内正志氏は、退職後は多くの役職に就かれ、特に「島の科学」事務
局長として、地質・植物に関する専門分野などに広く活躍されています。
氏が現職時代に、「壱岐椿協会」の会報『椿だより』(平成元年2月5
日号)に投稿されたものがありましたので、許諾を得て転載します。
(平成13年2月)
中 学 生 と 椿
―アンケートに見られる関心度―
元石田中学校長 山 内 正 志
椿について、深い知識も、これといった実践もしておりませんので、
これから会員みなさまのご指導を受けねばなりません。栽培種、園芸品等
は全くわかりませんが、荒海から吹き上げる潮風や冬の寒風にも耐えて、
その葉はあくまで緑濃く、目にしみる紅色の花をつけて、耕地や民家を保
護し、一方では、林内深くあって細長く伸長した枝先に小さめの暗赤色の
花をつけているヤブツバキが好きであります。
子供の頃、竹製のひっかけ竿を使って「カテシの実」を取り、庭いっぱ
い干して、祖母と一緒に住吉前触にあった油しめ屋さんに行った記憶があ
ります。
私は、松浦市の御厨中に在勤中、当時の教頭先生と二人で、北松、田
平、平戸一帯のヤブツバキを調べてまわりました。そして、理科室の裏に
赤土を用意して、七〜八月の土用ざしで、かなり多量に苗を育てて生徒に
与えました。
壱岐を椿の島に、と願う会員みなさまの熱意に対し敬意を表します。椿
は県花であり、壱岐の気候風土も椿の生育欲求条件を満たすに十分であ
り、異議のないところです。
しかし、その実現には、すでに諸氏のご指摘の通り難問が山積みしてお
ります。ただ,はっきりしていることは、長い年月を必要とすること、将
来に向けて継続していかなければなりません。そのためには、椿の良さを
理解して椿を愛し続けてくれる人材を育てていくことが大切です。とすれ
ば、今の若い層、とりわけ小中学生への啓蒙が必要でありましょう。
ここに、私が中学一年生に実施した興味深いアンケートの結果がありま
す。本郡椿協会の、今後の活動の参考資料にでもなれば幸いです。
○椿に関するアンケート結果(中学1年生・男女92名)昭和63年
1.椿という植物を知っていますか。 知っている 86%
知らない 14%
2.壱岐の島に椿はあるでしょうか。 あ る 100%
な い 0%
3.あなたの家の近くにありますか。 あ る 37%
な い 63%
4.花の色は何色ですか。 赤 84% 白 8%
その他 8%
5.「かてしの実」を知っていますか。 知っている 37%
知らない 63%
6.「かてしの実」から何が取れますか。 つばき油 30%
知らない 70%
7.県花に指定されていることを 知っている 10%
知っていましたか。 知らない 90%
8.壱岐を美しい島にするために、何を植えたらよいでしょうか。
1位 サクラ(桜) 11位 モモ
2 チューリップ 12 タンポポ
3 ウメ(梅) 13 菜の花
4 ヒマワリ 14 クリ
5 松 15 キリ
6 菊 16 レンゲ
7 バラ 17 ユリ
8 ツバキ 18 スズラン
9 モミジ 19 バナナ
10 スイセン 20 キンモクセイ
その他 7種
※椿は、やっと8位。しかもごくわずかの生徒でした。
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●「椿夢街道づくり」発進(主旨) ●「やぶ椿」植樹事例1(「椿夢街道」1)
●「やぶ椿」植樹事例2(田河中) ●「やぶ椿」植樹事例3(元寇記念1)
●「やぶ椿」植樹事例4(ふる里訪問) ●「やぶ椿」植樹事例5(那賀中)
●「やぶ椿」植樹事例6(元寇記念2) ● 「やぶ椿」植樹事例7(箱崎中)
●「やぶ椿」植樹事例8(「椿夢街道」2)