私の高校同期(壱岐高2回卒)の立場川君は、郷ノ浦の「(株)たちば川」の当主で
すが、早くより、社会的貢献に励み、既に郷ノ浦町商工会長・郡商工会連合会長・県商
工会連合会理事・郷ノ浦祇園山笠振興会副会長(註・会長は町長)等の任を終え、現
在、郷ノ浦町社会福祉協議会長・壱岐調停協会(家裁所属)会長・町社会教育委員等の
要職を受け持つ多忙な身でありながら、『郷ノ浦祇園山笠よもやま話』を発行しまし
た。立場川君の許しを得て転載します。(2001.1.18)


(平成八年十一月十六日 壱岐文化協会 文化講演会)

     
郷ノ浦祇園山笠よもやま話

   郷ノ浦祇園山笠振興会副会長  
立 場 川  源

 私は郷ノ浦生まれの郷ノ浦育ちであり、両親がいまの漁協ビルの近くの
借家に住み、父は壱岐交通(株)に勤務し、母は本町で小さな店を借り、
果物・駄菓子の商いを営んでいた。
 昭和六年初夏の候、乳飲み子の私は母に抱かれ、山笠の唄子太鼓に耳を
傾けていたという。
 子どもの頃から今日まで自分の目で見た山笠の記憶や先輩達からの話、
そして呼子一之氏、西川福雄氏、吉田豊氏の書かれた文献を参考にさせて
頂き、郷ノ浦山笠の思い出を語りたいと思います。年代や数値的なもの
等、些か不明瞭の点がありましたら、何卒ご容赦下さい。

(唄子の沿革)
 
 壱岐名勝図誌に「寛延三年始めて祭礼山鉾を造る思い思いの山鉾を造り
たる其の様、木にて高く台をこしらえ車を付け周りを幕もって張りさまざ
まの山形をもようし上には人形やうの物を据え衣服甲冑を着せ或いは兵杖
をもたせ旗幡などささせなどして是を舁
き以ってありくなり 京師の祇
園会に比ぶれば只形ばかりなれども年々異様なるもやうを作りて其の製同
じからざるは又おかしき様なり歌いなども其の作り山の模様によりて年ご
とに変れり」とあります。
 子供連中の唄子太鼓は祭礼山鉾が始めてつくられた時、既に有った事に
なります。
 壱岐名勝図誌は嘉永三年(1850年)に藩主松浦公が後藤正恒とその
弟吉野尚盛に著作を命じ、壱岐国全般の模様を詳細に記録されているが、
この名勝図誌から寛延三年(1750年)は百年前の事であり、かなり正
確に伝えられたと思われる。

「豊年の稔り穂や  波おだやかに大漁の  店も栄ゆる  山笠や
 在浦にぎよう  夏祭り」

 この歌は昔から歌い継がれたと伝えられているが大正時代に小金丸登市
氏が新しく作り変えたといわれ、今なお唄子の三番の歌詞としてうたわれ
ている。

「歌いなど其の作り山の模様によりて年ごとに変れり」とありますように
昔は飾られた山笠の武者人形の軍戦記が歌の文句になっていた。
 現在は 一番が

「在郷の商店や  日ましに栄ゆる商売や  ますます繁昌いやさかに
みんなとともに喜ばん」

二番は

「玄界の荒海に  ともに鍛えし若者の  大漁唄も勇ましく
八坂の森にこだまする」

となっており、この一、二番は三十年間に亘って唄子の世話をされた浜口
正則氏によって作られている。
 山笠の外題には次のようなものがあった。源平合戦、曽我兄弟、源義経
太閤崎紀、児嶋高徳、川中島、宇治川の先陣、義経八艘とび、ひよ鳥越の
坂下し、那須与一、鎮西八郎為朝、桶狭間の戦、忠臣蔵などで、終戦直後
はGHQアメリカ総司令官マッカーサーの命令とかで戦記物はだめにな
り、金太郎、浦島太郎、花咲じいさんなどお伽話の題目になった時期もあ
った。
 私は昭和十五年、三年生の時に唄子に出た。三年生の唄子出場は異例の
事であり、練習の場に日参し、唄子係の先生に自分から熱望し、無理やり
参加した。今想えば子供の頃から余程のお祭りフィーバーであった。
 当時は上山流と下山流で隔年に山笠行事が取り行われていたが、上山、
下山では唄の節(拍子)や掛け声が少し違っていた。今のヨーイコという
掛け声は下山ではゴーゴーハンジョと唄われていた。
 唄子は二十日以上の練習で山付きと町廻りに別けられ、山付きは体力が
あり歌はあまり得意でない者が当てられ、町廻りは打込み≠ニいって寄
付者の家々を三人一組で祝い唄を、縁起もんとして歓迎を受け、披露して
廻った。
 山付き組は終始山から離れず、曳き山は オッセオッセ 舁き山では
ヨーカイタ の囃子(明治時代まではチョウサイサイ)で、要所要所では
此の山付き唄子の役割は重要であり、舁き手を元気づけ、場面の変化で叩
き方も変ります。下ろした山を担ぎ始める時には、ヨイヨイ ヨイヨイ
ヨーカイタの掛け声で太鼓を鳴らす。また寄せ太鼓といって集合時間を触
れ回ったり、小休止から出発となると唄子の太鼓が合図となった。
 私は三年生から五年生まで三回唄子に出たが、六年生の時には戦局激し
く昭和十八年から二十年までの三年間は中止された。四年生の時、県の視
学さん(県教育長)が盈科小学校に視察に来られ、郷土の歴史の授業で山
笠の唄を発表したことがある。
 此の頃の唄子には法被はなくランニングシャツに猿股、モス布の鉢巻に
足袋草鞋姿であった。唄子の締め太鼓もまた約2.9sで大変重かった。
(現在のものは約1.5s)真夏の炎天下で暑かった事、カキ氷、ラム
ネ、スイカ、稲荷寿しなど振る舞って貰い大変美味しかったことなどが懐
かしい思い出である。
 この感激が忘れられず、青年会に入ったら唄子係になり、五,六年務め
ました。その頃の教え子に山口壮三氏(助役)、赤木勝氏(九郵支店
長)、立川省司氏(壱岐フォーラム)がいる。山口さん、立川さんは元気
溌剌でリーダー的な存在であり、赤木さんは声量があり、素晴らしい歌唱
力で観衆の拍手を受けた。上げる≠ニいって歌い出しの一小節を歌い、
そのあと皆一緒に歌います。
 唄子は昔から四年生以上の男子となっていたが、昭和六十二年に始めて
五年生の女子が参加することになった。二五〇年の伝統の中で始めての事
態であり、賛否両論で揉めている事がNHKの知るところとなり、その論
議の場面が収録される事になった。
 女性は昔からの仕来りで不浄の者とされ、五年生と謂えども体の上で少
々問題があり伝統は破れない。一方賛成組は小倉の祇園太鼓も東京の神田
まつりも女性が出ている、巫女さんも女性ではないか、男女雇用機会均等
法の時代だ。
 こんな討議が「日本列島朝一番」という番組で全国に放送された。その
後女児も唄子に出るようになり、町当局のご助成により「宝くじ財団」の
補助金を頂き、五十個の締め太鼓や法被、地下足袋等新調することもでき
た。法被の紋章や襟文字は高尾昌宏氏の創作に依るものである。
 唄子は島内に於ける沢山の催し物に出場したが、平成元年福岡市のヨカ
トピア太平洋博覧会や平成二年長崎旅博に出演し、二五〇年の伝統の民族
芸能との触れ込みで堂々と披露した。
 壱岐には仁駄橋綱引き太鼓、鬼太鼓、玄海太鼓、荒波太鼓、玄海怒涛太
鼓など多数の太鼓グループが有り、県下でも現在九十グループが誕生して
いると聞きますが、二五九年ほぼ同じ形態で歌い継がれた郷ノ浦祇園山笠
唄子太鼓こそ、何とか無形民俗文化財の指定を受けるよう後世に残してい
きたいと念願するものであります。  

(郷ノ浦祇園山笠の由来)

 元文二年(1737年)、今から二五九年前の八代将軍徳川吉宗公の時
代ですが、本町に住吉屋という大きな造り酒屋があり、その家族の殆どが
疫病に罹りました。蔵男と呼ばれた杜氏が元居の八坂神社に山笠奉納を約
し平癒を念じ願を立てました。不思議にも病気が治り、この杜氏が山笠の
奉納を果たそうと郷里の筑前津屋崎から山師を招聘し、山笠を造って奉納
いたしました。
 それから十三年が経過した寛延三年(1750年)、再び郷ノ浦の街に
あそこ此処と悪病が蔓延いたしました。農産物、海産物の売れ行きも悪化
し、商業に多大の影響を与え飲食店など火の消えたような状況になり,十
三年前の住吉屋のことを思い出し、今度は町中挙げて祭礼山鉾を造り奉納
祈願する事になった。
 壱岐名勝図誌に「始めて祭礼山鉾を造りてより以来次第に繁栄し」とあ
りますように無病息災祈願が、五穀豊穣、商売繁昌、大漁叶、家内安全と
いう神様信仰の夏祭りに発展して行った様です。
 全国に祇園宮が三000社ばかりあり、壱岐にも元居の八坂神社、勝本
の聖母神社など六社の祇園宮があります。貞観時代(一一00年前)から
京都を始め全国各地に祇園祭、祇園山鉾奉納が疫病退散の信仰の祭として
広がりました。旧暦の六月十五日が祭礼日となっていた。元居の八坂神社
も宵の祭には旗幡が立ち並び提灯が飾られ、近郷近在より多数の老若男女
が参拝し、家庭でも甘酒を造って神棚に供え神事をするなど信仰心が強ま
って行った。
 福岡市博多でも七四五年前の仁治三年(一二四二年)、悪病が流行し、
病魔退散のため、承天寺聖一国師が施餓鬼棚に棒を括り付け、町の人達が
舁き゛、聖一和尚が台に乗り甘露水を振り撒いて町内を浄めて疫病退散の
祈祷をして廻ったと伝えられている。
 それから一九五年後の、今から五五九年前の永享九年(1437年)、
小堀善右衛門が京都より人形師を招き人形を据え旗幡を挿した「旗差物
はた
さしもん
山笠」ができた。明治三十一年には福岡県知事の提議で山笠中止の
問題を醸し出した。電線と半裸が理由の中に在った。反対抗議の結果、山
笠を低くし法被着用で継承の運びとなり、現在に至っているという。
 飾られた山笠の部品は一切捨てないで神棚や玄関などに飾る習慣が有
り、子供が病気に罹ると山笠の残片である岩や館の切れ端を枕の下に敷い
たものでした。信仰心の強い時代でした。胡瓜の輪切り面が八坂神社の御
家紋に似ているので、祇園祭の間は誰も食べませんでした。

(山笠の作成)

明治の頃は種田国平、下條卯作、本町の若松屋種田米太郎という人達が作
っていた。その後は迎町の染物屋富谷氏、西山氏、そして向井宅平氏(旅
館業)も山笠作りの名人と呼ばれた人であった。
 昭和年代には先下ル町の小金丸伊八氏が作っていた。明治十二年生まれ
で明治三十年頃から五十数年間、郷ノ浦山笠の作製者として大変有名であ
った。小金丸伊八氏は近所の下条卯作氏より習って引継ぎ、漁業の傍ら漁
具や盆花、葬儀の棺飾り作りも副業にしていた。博多の人形師から人形の
顔や手足を購入し、壱岐独特の中細りの山笠を創作したのです。当時、山
笠には金具は一切使用しなかった。中細りの山を山笠といい、中太りの山
を山鉾と言っていたようです。昔は舁ぎ棒は少し短い二本棒で前後を二十
人位で舁いでいたと言われています。

(山笠の高さ)

 明治時代には二十八尺から三十三尺(約10m〜13m)の高さもあっ
たといわれておりますが、十三米といえば今立っている電柱の高さになり
可成り高いものであったと思われる。大正から昭和にかけて二十一尺から
二十三尺(約8m〜9m)位に低くなったようだ。
 本町で飾っている時は山笠の天辺に城と呼ばれた取り外し式の白い天守
閣が四方に継ぎ足されて大変高く見えたものです。動き出す時にこれは取
り外されていた。
 唄子の囃子太鼓の響きと共に山が迎町を通る時、下ル町側から眺めると
山笠の上に飾られた桜の花びらの付いた竹飾りと五色の吹き流しが棚引き
揺れながら屋根越しに進む壮観な光景は感動的であり、今なお印象深く思
い出されてくる。

 
(舁き山の見せ場)

 第一に先町の今西新宅から八坂神社までの舁き山である。今はかなり広
い掘り切りになってるが、「鳥越しの坂」と呼ばれた坂道で道端も狭く左
側は藪と畑が続く険しい山道でした。
 山笠は左右に揺れて傾き今にも倒れそうに進む。多くの観衆のどよめき
と激しく打ち鳴らす太鼓の響き、ヨーカイタ、ヨーカイタ、引き綱と呼ば
れた綱が山笠の天辺から四方に張られ、綱掛りは山の進行に遅れまいと藪
の中の何本もの立ち木を何人もで連携して交わしながら、まさに倒れよう
とする山を綱で引き起こし、また緩める。舁き手は交替しながら一人ひと
りが肩に重量を受けながら徐々に進むのである。この感動は筆舌に尽くし
難い勇壮果敢なものであった。この場は舁き始めから八坂神社まで土に下
ろしてはいけないとされ、また山を倒すと縁起が悪いといわれ、どんな事
があっても山を倒してはならないと昔から言い伝えられていた。
 八坂神社に山笠を据え、すべての者達が参拝し神事神輿の儀式を受け
る。その後は元居の若手連中が参加し山の後ろを担ぎます。
 第二の見せ場は何といっても犬の馬場です。赤木写真館から壱岐日報社
までの石段上がりである。明治大正時代は段数も少なく自然石を並べた石
段で一つ一つが大きく高かったそうです。写真館まえの急勾配は難所の一
つであり観衆が集まった。石段の横には益川菊太郎氏の家があり、引き綱
組が四、五人屋根に登ります。屋根の上で走り、力を入れるあまり瓦を踏
み割ることも少なくなかった。また軒をこわすこともあった。
 この頃は勢い水という水掛は殆ど無かったようだ。二本棒の前が町方、
後が元居、あれだけの距離にしては随分時間が掛り、山はなかなか上がり
ませんでした。
 この頃は舁ぎ棒二本に前後三十名が担ぎ、山に群がる若者総勢五十数名
であった。犬の馬場でも十米の高い山が倒れそうになりながら徐々に上が
って行く様は、今なおすばらしい光景として思い出される。大里には二、
三軒の食堂があり、この日は超満員であった。
 山笠は国津意加美神社、目良勝眞翁の屋敷へと進み、酒や飲み物の接待
を受け、小休止のあと折り返しで佐賀里横の車道を通り、本町から下ル町
の海岸通りに進みフィナーレの舁き山になる。海側にはガードレール等は
なく岸ぎりぎりの所ではらはらさせる。山は傾きながら行きつ戻りつ、こ
こでも大変盛り上がり、対岸の迎町には沢山の人山ができたものでした。
私は一回だけ山笠が倒れたのを覚えている。昭和二十六年か二十七年頃だ
ったと思う。今の長田海産物店前まで左右に傾いては立ち直り立ち直り一
進一退しているうち引き綱が効かなかったのでしょうか、ぐるぐる回転し
て上部を家側に向けて物凄い音を立てて倒れたのである。この時山の上に
乗っていた人(松浦清氏)が倒れてゆく山から長田宅の軒に向かって飛び
移ったのです。まるで牛若丸か義経の八艘飛びを思わせるような此の軽業
を見て、大勢の見物人からどよめきと拍手が沸き起こったのである。暫く
は町の語り草となった。山笠終了の翌日は、それぞれの町で「打ち上げ」
が行われた。新入りの青年は酒を一本もって若手入りをするのが仕来りで
あった。
 芸者さんの三味線太鼓でどんちゃん騒ぎ、夜遅くまで賑わい若手達は先
輩達によっていろいろ恩恵を受け、初体験もしたようである。
 本町と下ル町には銭湯があり風呂屋の中は肩が赤く腫れ上がった人ばか
り、ひでって湯の中に入れないが、言わば男の紋章とでも申しましょう
か、各自が自慢の場面でも合あった。
 子供は親父や兄貴の痛ましい姿を誇りにさえ思ったものだ。私は痛がる
親父の肩に母が延べ膏薬を張っていた様子を覚えている。
 山笠の日は尻ごを抜かれるといって誰も泳いではいけない事になってい
たが、慣習の「がんごめ」行事は特別でした。雨が降りそうな時、若者が
海で身を浄め三社参りをし晴天祈願をする行事である。
 本町に据えた山笠の前で二列縦隊に整列し背中から塩で清められ、国津
意加美神社に向かって駆け足で出発して参拝し、折り返しで町中をつっ走
り、現在の港ターミナルの手前に祠が祀られていたが、其処の石の遠浅か
ら海に入り八幡崎まで泳いで渡り、八幡宮に参拝し、さらに八坂神社に進
み晴天祈願をしたのです。
 出発から終了まで全員が絶対に口を開けてはいけない、言葉を交わすな
と厳命されていた。不思議に雨降りに遭わなかったものです。当時の九電
と電話局は山笠の通過の際には配線を一時的に外す作業をしてくれた。
 しかし、時代の変遷で昼間と謂えども停電、不通ができなくなり、山笠
を低める以外に方法は無くなった。昭和三十年頃までは少し低くはなった
が昔型の山は小金丸伊八氏によって作られていた。戦前は上山、下山が隔
年毎に取り仕切っていたが、戦後は上山切と下山切が合併し、郷ノ浦浦会
が主催するようになった。何時しか山を作る人も居なくなり、元来の高い
伝統山笠を断念せざるを得なくなりました。
 松原和世氏ほか数名の方々に依頼の経緯もあったが実現せず、博多山笠
の終了を待って山を買い受け、本町に飾り夏祭りを継承することになっ
た。これだけでは何とも淋しいということで上山、下山が紅白に分かれ、
二台の御輿の様な山車を作り、八坂神社に参詣し神霊を賜り、町を舁き廻
ることになりました。これくまで元居の若手連が大勢参加していたが、町
方だけで山笠行事を遣ったので元居側の反感を買いました。
 この紅白二つの山車が八坂神社に向かっている途中、先町で小休止して
いたら元居の血気盛んなグループにあれよあれよという間に上山の山車が
奪われ、海の中に投げ込まれるという事態が起こり、慌てるやら驚くやら
何とも情けないハプニンクであった。
 次の年は沢山のドラム缶を利用した筏型の浮かぶ山笠を作り、元居から
海を渡るという計画で開催された。山笠に魅力や興味をそそる為の着想で
もあった。みんな泳いでこの山笠を動かしたが船で近づいた元居の若者達
が山に飛び移ったので山は傾き転覆し、飾りも太鼓も水に浸かり鐘は海底
に沈み大損害であった。
 専念寺から借用したこの鐘には石田郡武生水村江の浦江上、一心山専念
寺と銘されていたという。この後暫くは元居と町方の青年達の夜の街での
衝突が絶えなかったようだ。
 さて昭和三十五年頃と思うが郷ノ浦祇園山審議会ともいえる会合が開か
れる事になった。場所は旅館港荘、小金丸貞一浦会長宅である。浦会幹
部、役員、各青年会長、新聞社、長老や県議、町議などがメンバーであ
る。
 山笠廃止の方向で話が始まった。伝統の曳き山、舁き山ができねば意味
がない。時代の変遷、情報化時代で観衆からの魅力も無くなり見物人も減
少した。時代的なニーズに対応できないかというものでした。
 壮年や青年達の間にも山笠の前途に夢が無く楽しい気持ちで遣れないと
いう雰囲気が見え隠れしていた。しかし長時間に亘る論議の結果、我々の
時代に貴重な伝統山笠を全面廃止することは誠に不甲斐なく残念である。
止めずに何とか頑張ってみよう≠ニいう何名かの青壮年の熱意が通じ継
続して見る事に決定しました。それからも博多山笠の払い下げを飾る一方
博多に倣ってタイムを競う競争山笠が四〜五年間続けて行われた。
 四本棒車無しの御輿みたいな山車を二台作製し、下ル町の海岸線を一台
ずつ走ってタイムを計り順位をきめる賞金付きの企画でありました。しか
し名勝図誌にある国中の貴賎群集せり≠ニは全くいえない有り様であっ
たようだ。この走る山笠が中止される頃には郷ノ浦浦会も解散し、郷ノ浦
町商工会に移行されました。
 昭和四十五年には商工会が東京の壱岐出身の作詞家松坂直美先生に依頼
し、長瀬貞夫氏の作曲に依る郷ノ浦祇園山笠鬼太鼓を創作し、大太鼓、日
本太鼓など二十数個を寄付金、補助金で取り揃え、本町新道、下ル町、亀
川迎町突出先町による太鼓山笠の道行きが行われるようになった。宵の祭
りは太鼓競演や演芸会、夜市で賑わった。
 現在の商工会青年部の祇園鬼太鼓は二十六年の歴史を継承し、今なお貴
重な存在価値を有している。半裸にねじり鉢巻で颯爽と奏でる勇壮な太鼓
は時代を演出し素朴な夏祭りを感じさせる。
 太鼓祇園山祭も数年で影を潜め、昭和四十九年から現在行っている山笠
行事の形態に変って行きました。前夜祭、当日祭と毎年決まった企画で徐
々に発展してまいりました。
 各町ごとにほぼ統一された骨組に試行錯誤で趣向を凝らし手作りの山車
が出来る様になりました。新道は壱岐の歴史に基づき百姓源三、少弐資時
、百合若大臣など次々と作製し、亀川迎町は二、三人の児童に衣装を着せ
化粧し、山車の上に人形替わりに立たせて道行きという奇抜な着想で観衆
の目を引き、本町は蛇踊りで賑わい、下ル町からは塞神社の御神体が登場
したのも、この頃からであった。
 張り子の御神体の作製には当時の青年会長達の苦心のエピソードが語り
つがれている。
 しかし毎年苦労して作るのが大変困難になって来た。博多山笠を手に入
れる七月十五日移行でなければならず、八坂神社の祭礼日の変更を懇願
し、新暦の七月二十五日を開催日に決定し、元居も元山流れとして山笠を
作製し参加する事になりました。二番煎じと言われながらも博多の山笠を
求めて各町毎に高さ四・五mの山笠を作り、本町、下ル町、亀迎築先町、
新道そして元居の五つの流れとなった。
 元居は博多の人形師(置鮎氏)のオリジナルの山笠で登場していた。
 昭和五十八年郷ノ浦祇園山笠振興会が設立され商工会から離れることに
なった。個人又は団体で自由に参加できる山笠として経済の発展と観光振
興に寄与し保存育成を図り郷土愛を高め地域のふれあいも深めようと新発
足の運びとなりました。
 会長は初代からずっと町長さんに就任して貰い、祇園祭の総裁として采
配を振るって頂いております。近年諸々の理由で土曜、日曜でなければ開
催が困難となり、平成元年度より七月の第四日曜日に決定し現在に至って
います。
 この日曜日開催には山笠振興会と八坂神社の祭礼日との事情が絡み、決
定までに数年の歳月が掛ったのであります。
 一つの山笠に五十余名の若人が掛わり、一人ひとりが重量を肩に受け汗
水流し、力を合わせ取締役の指示に従い無心に担ぐ雄姿颯爽は壱岐島の将
来の発展を垣間見る思いさえする。壱岐を離れた人が山笠を担いだ感激が
どうしても忘れられず、山笠の当日再び海を渡り友を訪ね流れに加わった
人数知れません。
 又、中学生、高校生の個人参加もあります。壱岐の津津浦浦より知人関
係のご縁で 助っ人 と呼ばれる大勢の若者が、それぞれの流れ山に加勢
して呉れています。
 平成元年には東洋衣料(株)の女子社員六十名のご参加で女性ばかりの
華々しい彩りを添えた流れ山笠に大観衆の称賛を博したこともありまし
た。
 また前日祭の余興として企業や公共団体等の協力参加により追山競争を
数年続けて実施し地域のふれあいと感動のシーンを演出した。
 平成五年には大阪在住の壱岐出身の辻衛氏に作詞、久間厚氏に作曲を依
頼し、「祇園山笠の唄」を作成し両氏を招聘し陸上自衛隊音楽隊の演奏で
前夜祭の舞台で発表会を開催した。
 その一節を披露します。

   神々交わす   祝い酒
   山笠に舞い   人情に酔う
   佐賀里坂の   段上がり
   水をかけなよ  景気の水を
   男冥利の    掛け声だ
      ヨーカイタ  ヨーカイタ  かき山だ
      ヨーカイタ  ヨーカイタ  神かつげ
   ここは郷ノ浦  祇園山笠

 さて盈科小学校六年生の盈小山笠は昭和五十四年から今年で十七年間続
いております。今年は初めて武生水中学校の生徒有志による武中流れが参
加した。情操教育と健全育成につながり郷土のまつりは生涯の想い出とな
りましょう。PTA役員始め学校、ご父兄、教育関係各位に心から感謝の
意を表したいと存じます。
 郷ノ浦祇園山笠は大昔から寄付金によって運営されたと言うが、現在も
町当局の補助金を頂き商工会も負担し、企業や一般の方々からも浄財をお
願いしております。
 これに報いる為にも先人が残した郷土のまつり祇園山笠を伝承して参り
たいと思います。地域住民挙って誇れる楽しいものに育て上げたいと思い
ます。もし街の電線を地下に埋設するか、又、八m以上上げられたら昔な
がらの伝統山笠が復活でき佐賀里の石段を登ったら,どんなにか壮快で魅
力も倍増し、壱岐島にしかない独特の祇園山笠として継承できると思料さ
れます。
 福岡市の大発展は戦後の西鉄野球と中洲の歓楽街の賑い、そして沢山の
祭行事があったからともいわれている。文芸、手芸サークル活動、まつり
イベント、ショッピング、旅行、結婚、スポーツ、音楽、舞踊、カラオ
ケ、食事会など賑いは文化の根源であります。
 郷ノ浦祇園山笠は索漠としたこの世相の中で潤いを齎す貴重なる伝統文
化であると思います。独特の壱岐祇園山笠を育成し、地域の産業、経済、
文化の発展に寄与する壱岐最大の夏まつりとして後世に継承されることを
願うものであります。
 島民各位の深いご理解とご協力を懇願申し上げ、今後尚一層のご支援を
賜りますようお願い致します。ご聴講を厚くお礼申し上げます。有難うご
ざいました。

(続 く、写真挿入)
 
      
          (主なイベント暦)