壱岐高・新築校舎参観抄録17年(2005)4月17日/追録25日


 平成17年4月22日に開催する壱岐高2回生
(昭和25年卒)同期会用の資料収集の
ため、17日(日)に母校を訪れ校門を入ると、昔の面影を残す懐かしい3本の老樟
が迎えてくれた。
 幸いにも、
末永賢一事務長が執務されており、校内を案内してもらった。


 
 私達は、昭和19年に旧制壱岐中に入学
(2クラス・100名)し、中学2年生の時、終戦
を迎えた。軍国主義を教育目標としていた学校も価値観の大転換のため、混乱状態に
なった。

 学校の雰囲気が一変し、特に、3年生時に最下級生として4・5年生と共に学徒動
員に行き、大村の飛行機製作工場で苦労した2学年先輩が、卒業年次の1年繰り下げ
(昭和19年、戦時特例で中学校は四年制となる)により、最上級生として帰って来て羽振りを効か
せた。2年後輩の私達は指導の対象になり、大いに鍛えられ、4年生
(昭和21年からは
五年制となる)
になるまでの1年半は極度に緊張した生活が続いた。この時の経験は、よ
く同期会で話題になる。
 
 反面、同級生は大変仲が良く、団結した。本土や大陸からの引き揚げてきた生徒が
多くなったが、普通教室の余裕がなく2クラスのままだった。教室は机が鮨詰状態に
なり、机間の歩行も困難で、時には机の上を移動したりすることもあった。しかし、
引き揚げて来た生徒の中には大変優秀な者が多く、井戸の中の蛙になっていた在来生
徒には大変刺激になり、お陰で向学心が燃え始め、切磋琢磨して勉学に励むようにな
った。

 昭和23年に学制改革があり、私達壱岐中学校5年生は壱岐高等学校2年生となっ
た。なお、男女共学となり、23名の女子生徒が同級生として編入してくる
という
大変革があり、教室が不足して1年生は女学校(現武生水中学校)へ移って行き、2・3年
生だけの生活が始まった。昭和25年3月に壱岐高卒2回生として、波乱万丈とも云
える
6年間の木造校舎の生活と別れた。
 
 青春の血を共に燃やした同期の友人140名のうち、45名は既に旅立ち、同期会
員は95名となった。往時を偲び、いささか感傷的になると共に時代の変遷の速さと
大きさを痛感しながら校内を巡った。

 なお、この頃の状況は、同期の
斎藤茂夫(石田町池田出身/大阪在住・初代関西壱岐の会会長
・関西壱岐の会ホームページ管理者)・
坂江博見(芦辺町那賀出身/東京在住・初代壱岐高東京同窓会長)
戦中・戦後の学校生活』の題で詳細に記録し、このホームページに投稿してくれ
ている。⇒




          
          
 新築校舎を参観して

 私達の生活した校舎は木造一階(二教室が二階)であり、その後、コンクリートの校舎
になり、この度訪ねてみると、IT時代に対応した近代的な校舎が建設されたていた。
 孫のような生徒達が熱心に部活動に励んでいる姿を見かけ、校舎も私達の時代の
木造校舎の第1世代、次ぎのコンクリート建ての第2世代を経て、そして、新しい
第3世代の近代設備の整った校舎に進化してきたのだとの感慨を深くした。

 
末永事務長は、「教室と廊下はガラスブロックと大型ガラスを多用しており光
溢れる学舎となっています。また、全館バリアフリー設計で身障者トイレも完備
しています。コモンホールと呼ばれる視聴覚ホールは、200人程度入る広さで
、大スクリーンと立体スピーカーを完備し、長崎県美術館や長崎歴史文化博物館
とのテレビ会議システムを使った遠隔授業ができるようになっています。
」と新
校舎の近代性を説明された。



      
                
生徒用昇降口
       
(左側・1号館と2号館の間にあり、特に校章が際立っている。)

      
              
コモンホール
     (正面に黒板が固定されていて、その前面に懸架方式の大スクリーンが降りてく
       るようになっている。音響設備なども完備し、部屋の後部に映写機室等もあり、
       高校の視聴覚室としては最上級の部類に属しているようだ。) 
   

      
           
4階化学教室よりの眺望
    
 
(眼下に郷ノ浦湾が見え、学生時代の松の木立の間からの景観との差に驚く)

      
           
4階渡り廊下よりの眺望
      
 
(木造校舎時代は、下の樹木で全く見えなかった官庁街が一望できる)

      
          
熱心に文化活動に取り組む美術部員
   
  
(末永事務長の勧めで挨拶をすることができ、激励の意味を込めて、この壱岐にも、
       生まれながらにして不幸を背負った子供達もいることから見ると、みんなは大変恵
       まれた境遇の中にあるので、『自分のため、家族のため、そして、社会のために尽
       す人になってもらいたい』などと話をしてやると、純粋に反応してくれた生徒がい
       て大変嬉しく、この部員達の描く作品は素晴らしい作品だろうなと思った。)

      
               
 剣道部の練習風景
   
 
(私が佐世保時代にお世話になったご家庭の子供さんが、体育教師になり、剣道部の
      顧問されていると聞いていたので、面識はないが訪ねてみた。生徒の話では、主力選
      手を引率して島外へ行かれているということだった。なお、勝本町勝本浦の
吉田博之
     
さんが指導に来られているとも教えてくれた。この部の生徒達も礼儀正しく、会釈をき
      ちんとしてくれ、なお、坐るように椅子をもってきてくれたのには恐縮した。
      「礼に始まり、礼に終わる」という武道の真髄を実践していると感じた。熱心に練習
      を続けていたので、
吉田さんにのみ挨拶をして部室を後にした。)

     
         
武道館に掲げられた生徒会のスローガン
    
(素晴らしい環境の中で、生徒のみなさんが心を一つにして素晴らしい校風
      づくりに励み、
夢の実現に向って懸命に努力されることを期待しています!)

     
        
   1号館と2号館の中庭にあるペリカン
   
 
(木造校舎時代には、前後2列に並んだ校舎の間に「池」があった。その中央に
      円形の築山があり、樹木があった。私達の時代は、ここに渡り、写真を撮ったり
      していた。当時の写真「
高校3年生の仲間達」を、前記『戦前・戦後の学生
      時代
』の坂江博見君の文中に掲載している。
     
      その円形をした中心部にペリカンが置かれ、後に池は埋め立てられ、現在は池
      の形に「
つつじ」が植えられているものと思う。)

    ※
末永事務長より戴いた「壱岐高 喜応寺ヶ丘」(PTA新聞)に、
   『
ペリカン池#ュ起の経緯』というのが掲載されており、
    この中に、
恩師お二人の名前が出ている。 ⇒



         
 追    録  (17年4月25日)

NO.1

  4月22日、第2回卒同窓会
国民年金健康センター・グリーンヒル若宮で開
 催した。驚いたことに、ここのセンター長は壱岐商業高等学校の第1回卒業生(昭和
 35年3月)の
中村豊氏であった。勝本町勝本浦の出身で福岡県職のOBで、前職が
 公務員とは思われないくらい利用者への配慮が行き届いていて、大変愉快に楽しく懇
 親を深める事ができた。

  そこで、お礼の意味をこめて、
中村氏から戴いた名刺の裏側に載っている宣伝文を
 転載する。

 

   かけ流しの 天然温泉   大浴場、露店風呂付き
       
  グリーヒル若宮

  
宿泊18室(72名)、温泉休憩2室、宴会場3室(祝・法事、同窓会等)、
  会議・研修室(100名)、レストラン グラウンドゴルフ、テニス、体育館

  
無料送迎バス(15名以上) 大型バス(40名)、マイクロバス(20名)

  〒822−0133 福岡県鞍手郡若宮町大字脇田778−1
  電 話 (0949)54−0305番
  ファックス  (0949)54−0514番
  http://www.greenhill-wakamiya.gr.jp/


NO.2

 
同窓会で、新校舎落成を祝し、「後輩達の教育活動を支援する」ため、金一封を贈る
ことになり、役員3名で母校を訪ねた。
 4月に着任された
川本敏光校長と末永事務長にお会いし、お渡しした。川本校長は、
昭和25年生れで、対馬高校の出身とのことである。

 
川本校長は、「対馬の子供たちの中には、本土の高校に進学する者がいる。同様に、
佐世保の高校に勤めていた時に五島出身者がいたが、壱岐は高校までは地元で育てられ
ている」と話された。
 進路状況についても、進学・就職とも成績がよいとのことだった。


      
        壱岐高同窓会情報(トップ)