義人百姓源蔵1
壱岐国可須村(現勝本町)東触の百姓に源蔵という人がいて、文政2
年(1819年)10月将軍家斉に松浦藩の秕政を弾劾直訴するという事件
がありました。
これに関する資料(史料)を紹介します。

源蔵の墓(自然石の中央部に小さく幽かに「源三之墓」と刻んであります。
藩の目が厳しいので、親族などの素人の手で刻み、人目につかないように密
かに祀っていたものを、明治時代になってから建てたものではないかと思わ
れます。礎石にコンクリートで固定してあります。)
■『壱岐郷土史』(大正7年・1918年・後藤正足)
「一八、百姓源蔵の所刑
此の年(文政3年・1820年)可須かす村百姓源蔵罪ありて百間馬場に斬らる。
源蔵資性剛直にして気概に富む。当時松浦氏の施政上量器に甲乙二種を
持ちひ、貢租と給與とに差を附して物議を生ず。又耕地の配當に下吏の
奸曲を弄するあり。源蔵江戸に至り之を幕府に訴ふ。幕府即源蔵を松浦
氏に交附す。松浦氏怒りて之を刑す。時に年四十三歳なり。明治維新の
後里人可須中尾の地に墓を修築し、且石祠を建てて之を祀る。
按ずるに松浦氏の制度出納に桝量の器差を用いしは、或は不得止事由
あらん。又田畑の割附に下吏の奸曲を黙認せしも、或は何等かの呼吸
を存せしならん。當時言論の自由を制し、威圧これ勉めし時代に於て
は、往々反撥の態度を執るもの世に其の例多し。源蔵の行為或は矯激
に奔 りし感なきにあらざるも、一片の気骨稜々として身を同胞のた
めに擲つの義気に至りては、同情に値するものなくんばあらず。宜な
る哉百歳の後人をして嘖々其の義心を称せしめ、春秋の祭祀を絶たざ
らしむることを」
●後藤正足氏は、松永安左エ門翁の恩師であり、翁の援助を受けて壱岐
の歴史の研究に取り組まれ、古代より明治4年までの通史の『壱岐郷土
史』を著されました。
後藤氏も、「明治維新の後…修築」と書かれていますので、藩政下
では公にされることもなく、隠密裡に語り継がれ、祀られていたのでは
ないかと思います。

源三神社(墓の近くの高尾山・勝本町東触の御崎神社に合祀されています。)

源三神社(中央の高い方の石祠・正面に「源三神社」の刻銘があります。)
■『香椎村郷土史』
(大正7年・1918年・霞翠尋常高等小学校長横山政吉郎)
「義人百姓源蔵
一、当時藩吏年貢を徴収するに量器二種を用い、収納には納桝(三斗五
舛)を以てし、給與には京桝(三斗二舛)を用い、収支の差格を私かに
所得せり。(桝の不正)
二、田地を各戸に配分するに当り、所謂割奉行等の吏員は自己の配当に
厚くし多大の富を致す。(割地の不正)
三、時に瀬戸・勝本に各浦鯨組ありしが、藩に納むべき運料は捕獲の高
を問わず三百両との制度なるを、源蔵は其の課税の不当を慨し、自ら平
戸に渡り、藩に迫るに捕獲高に應じ課税せられんことを以てす。藩主遂
に源蔵の意を諒として遂に取上運料の制に定む。(鯨運上の不合理)
四、源蔵又割奉行等の私利を専にするを憤慨し、自ら事を挙げんと計
る。奉行中尾丹弥源蔵の企図を探知し源蔵を除かずんば禍己に帰せんこ
とを懼れ、密かに源蔵を殺さんとす。源蔵も亦刺客の来らんことを予期
して待つこと久し。果たせるかな時は七月十六日の夜三更、二間槍の穂
先は吊せる蚊帳を透して源蔵の頭を貫けり。源蔵死せず、源蔵は蚊帳の
外にあり。此の光景を見たる一瞬、予て用意の鉈を振り上げ穂先三尺を
切り取り、これを証として江戸に行き直訴せんと裏口より遁れ、一目散
に印通寺に到り、船して呼子に渡る」
●大正7年には、郡内の尋常高等小学校が担当して、各村(校区)の郷
土史(誌)の編纂がおこなわれ、貴重な史料となっています。
霞翠小学校の校区内に、源蔵の墓や源三神社のある東触がありますの
で、広く口碑なども採集されたものと思われます。
この著書が、源蔵についての定説を作ったようです。

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