義人百姓源蔵4


     百姓源蔵事件の年譜
 
 
百姓源蔵事件について記載してある史料より、年譜を作成してみま
した。

 「源蔵が地割り問題で島を抜け出し、幕府に直訴したので、平戸
藩によって斬刑に処せられた
」と、
短期間の事件として理解されてい
ますが、17年余りの長期間の出来事だったのです。
 源蔵が43歳で処刑されていますので、26歳頃からの働き盛りを、
妻子を捨て、処刑覚悟で松浦藩及び地方役人中尾丹弥の失政を追求した
ことになります。

 (史料が少なく、十分、解明できませんが、今後も、補充していきたいと思っています。)

 
●享和3年(1803)  この年、源蔵(源造、源三)事件の原因にな
            った
地割りあり(壱岐国史)

            この年、
作五郎・源蔵、事を起こす。
            <
百姓源蔵事件>
            (『
太宰府天満宮御講主善作』の書)

●文化元年(1804)  三代目
中尾丹弥、壱岐国諸士中取次となる
            (
壱岐国史)

●文化7年(1810)  勝本押役所付き足軽・若宮島遠見番付き足軽、
            
中尾丹弥指揮のもとに稽古場において軍事訓
            練を行う。 (
郡方日記)

●文化10年(1813) 御吟味仰付。
            (『
太宰府天満宮御講主善作』の書)

●文化11年(1814) 
源蔵・作五郎、遠島となる。
            (『
太宰府天満宮御講主善作』の書)

●文政元年(1818)  源蔵、平戸藩の秕政を将軍家斉に弾劾直訴す
            る。(
壱岐国史)

●文政2年(1819)   地割り役の11名、平戸へ呼び出され、吟味
            されるが、無事帰郷する。
            (『
太宰府天満宮御講主善作』)

●文政3年(1820)  この年、
源蔵、百間馬場において処刑される。
            源蔵43歳(
壱岐郷土史)


     百間馬場の刑場

源蔵が処刑された百間馬場(刑場)の位置について、よく質問が
ありますので、
『壱岐名勝図誌』(嘉永元年・1848年資料収集開始〜文久元年・1861年編纂完了)
で、調べてみました。

百間馬場ひゃっけんばば
茶屋本南続き也。武生水勝本往還の大道にして、東西ハ広き松林つらな
りて
幾万樹といふ事をしらす。此松年を逐て漸長し、名にし負生の松原
にも劣らす。千早振神代に植し箱崎の千代の松原にひとしからんとそ思
ほゆ。
馬場の竪百間余、平地にして実によき馬場なり。よて名つけし
ならむ。」

●この大道は、現在国道382号になっています。郷ノ浦〜勝本、国分
〜湯ノ本の交差点付近の地名を
亀石(がめいし・『壱岐名勝図誌』には、
周囲約6b、高さ約1bの亀の甲の形をした石の絵があります。)と呼ん
でいます。
●この亀石の付近から郷ノ浦方面にかけて
馬場があったと思われます。
松の巨木の並木道が、亀石附近から勝本方面にかけて続いていました
が、太平洋戦争後、伐採や松食い虫の被害で消失しています。


茶屋本ちゃやもと
「昔より上使来国して、武生水より勝本に趣時、此
道側に茶屋をしつ
らひける故に名とせりとそ。」
茶屋本山
「古今巡察使の時、長途の足をやすめんかため此処に茶店を設く。故に
此名あり」

・茶屋本という姓の家が、亀石の近くに1軒あります。


『壱岐名勝図誌』には刑場らしきものは載っていません

        
百間馬場の位置は、現在の勝本町立石東触亀石附近から郷ノ浦
方面への
国道約200mと思われます。

刑場の位置は、この国道を亀石より郷ノ浦方面へ約200m行った
 
西側の山中と考えられます。ここは、昔、火葬場、牛馬の墓地
など
になっていたということです。(昔は、土葬でしたが、伝染病での死者は火葬
にしていたようです。)


               
   続く



     
   百姓源蔵の直訴事件(トップ)

義人百姓源蔵1           ●義人百姓源蔵2

義人百姓源蔵3