義人百姓源蔵3


 
源三神社の境内に、勝本町教育委員会が「義人 源三」という説明
板を設置しています。
 史料・口碑を基にし、書かれたものと思いますが、
壱岐の人達の源蔵
についての一般的な認識
を表していますので、紹介します。

        

「             義人源三

 源三は安永七年(1778年)に可須村の岩本源七の二男としてうまれ
ました。
 源三は自分の命にかえて平戸藩の田畑割りなどの不正を徳川十一代
将軍家斉
いえなりに訴えた義人として里人にしたわれています。
 源三の訴えた内容は、平戸藩では年貢の収納に納桝(三斗五升入り)
を用い、給与の時には京桝(三斗二升入り)を使い、その差を役人が
自分のものにしていること、土地の割りかえの時、割奉行の中尾丹弥
らが自分勝手に良い土地を先取りし、残った地味の悪い土地を人々に
分け与えていること、鯨運上の一律三百両の不当なことなどであった。
 源三の苦労を「香椎村青年読本」は、次のように伝えています。
 役人たちの源三殺害計画を知った源三は手拭い包みの徳利を入れ頭
の形をつくり、その上に布団をかけ、カヤをつり、すぐ逃げ出せるよ
うに家の裏戸を明けはなし、手にナタをにぎり、格子窓の下で息を殺
して丹弥一味を待ちかまえる夜がつづきました。
 文化六年(1809)七月十六日の深夜、丹弥の大身の槍が闇にきらめ
き、寝床をつきさしました。源三はナタで槍の穂先を切り落とし、裏
戸から一目散に走りでました。印通寺から呼子に渡った源三は、丹弥
の槍の穂先三尺と直訴状、百五十文の銭をしっかり抱いていました。
 文化八年(1811年)師走、江戸にたどりついた源三は、将軍えの直
訴の機会をうかがい、文政二年(1819年)十月、江戸二丁堀で将軍の
行列に出会い、直訴状を籠の中に投げ入れることができました。
 将軍への直訴の罪は重く、源三は捕えられ、四十日かけて平戸へ送
られ、平戸の牢に百日あまり監禁されました。
 文政三年(1820年)三月二十七日、壱岐へ送り帰された源三は、丹
弥屋敷の馬小屋(現在の勝本中学校校庭の北の階段登り口のところ)
に押し込められ、米も水も与えられず、草や葉が投げ入れられ、畜生
よばわりされ、鞭で打たれていました。
 同年旧四月二日の処刑のの日、勝本町内を引きまわされた源三は、
坂口町あたりで二歳の時に別れた娘のハツと十二年ぶりに言葉をかわ
し、ハツがさし出す大好物の焼餅を食べることなしにハツに与え、そ
の夕刻百間馬場の刑場の露と消えました。源三、四十三歳でした。
 この二十日後、幕府から「壱州百姓源三なる者、すみやかに江戸に
つかわすべし。もし、病にて臥してあらば医者を具して上がらしめ
よ。」という命令が届いたといいます。
 しかし、すでに源三は、この世の人ではなく、里人は無念の涙を流
し、源三の冥福を祈りました。

 墓は東触の田中家墓地内にあります。

 昭和六十二年十二月
       
勝本町教育委員会          」



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