義人百姓源蔵2

 
■『大宰府天満宮御講組合 
  文化十一年戌
(1814)九月弐廿五日 御講組合中』


「                  大宰府天満宮御講主善作
 此御講初の事 前亥年
(享和3年・1803)此三触(東・中・西戸)割畑と申事相
(ル)。作五郎・源造(蔵)三触の悪頭と相成り、大勢手組み伊勢山へ両
日、御庄屋に夜こもり而候。西戸・中惣寄
(り)、相手民右(エ)門・直平
次両人。三月大勢揃
(い)(り)(づ)。翌廿八日伊勢山へ善作・與次右
エ門・重八・平次郎衛・直平次・民右エ門相手に成り、五月三日高良田辻
へ東触中寄
(る)。此時七人触さしはづし、左右方上へ相達候処、翌酉年
(文化十年・1813)御吟味仰付。翌戌(文化十一年・1814)九月八日源造・作五郎
遠島被仰付。直平次・民右衛門此時無相違御免被仰付。小組十七人三ヶ年
之内相楽罷有、重々勝ヲ取
(リ)(ビ)候事。文化十一年戌九月廿五」 

「外年
(文政2年・1819)二月十五日
 平戸より御呼下御用之事、右は源蔵・作五郎申出候義御公義殿様へ御そ
せう之儀ニ付御尋ニ而御呼下之人数
   一番 直平次 松次郎
   二番 民右ェ門 與次右ェ門 平蔵
   三番 重八 善作 外三次
   四番 伝無 寅平 市次郎
 右二月より十一月迄民右ェ門引取候。残人数ハ三月より追々引取候。惣
残り松次郎十二月迄。此組中於平戸無難ニ上向相希 目出度引取候。
是皆御神力と難有十一月廿五日御講之出会歓申候。以上 」

●勝本町東触に「八株講はちかぶこう」というのがあります。割奉行の中尾
丹弥の一味として源蔵より名指され、当惑対抗した土地割替えの割子たち
八人が、神助によって自分たちの潔白が証明されたとして、感謝のために
大宰府参拝のための講をつくり、今も子孫が受け継いでいるものです。
 
は、念仏講など信者の団体などにつかわれているようですが、壱岐で
は現在でも隣組などの小集団を
講中こうじゅう隣組で豊作祈願などをする
寄合を
御講おこうといっている地域があります。
 この「
大宰府天満宮御講組合」の帳簿は、この源蔵事件の唯一の文献
史料
となっています。
 
「享和3年(1803)、可須村の東触・中触・西戸触の三触で、畑の割り地
が行われた。作五郎と源蔵が三触の先導となって、大勢で組みをつくり、
伊勢山へ両日、夜には庄屋にこもって、地割りの不正を追及した。
 西触と中触の寄り会いには、民右ェ門と直平次が相手になった。
 三月には、大勢の人達が揃って出て来た。翌28日に、伊勢山へ集まっ
た人達には、善作・與次右ェ門・重八・平次郎衛・直平次・民右ェ門が相
手になり、5月3日には高良田辻へ東触中の人達が寄り集まった。この
時、7人が触から外され、村八分になったので、これらのことをお上に通
達したところ、文化十年(1813)に吟味となった。
 翌文化十一年(1814)9月8日、源蔵と作五郎は遠島の処分を受けた。
直平次と民右衛門は罪は無く、刑に処せられるこがなかったので、みんな
で大いに喜び合った。文化11年(1814)9月25日

 それから、4年半後の文政2年(1819)2月15日に平戸へ来るように
呼び出しが来た。それは、源蔵と作五郎が、公儀(幕府)へ訴え出たこと
に関連しての取り調べだった。呼び出された人数は、1番目から4番目ま
で11名であった。取調べは2月から11月までに終り、みんな目出度く
無事に帰る事ができた。これは、みんな神力の加護と有難く思い、11月
25日大宰府天満宮へお礼の参拝をする講をつくる話し合いして喜びあっ
た。」

 この事件は、源蔵と作五郎を首謀者とし、多くの同調者がいた「百姓一
」だったことがわかります。源蔵は初め遠島(恐らく、渡良の島と思われますが、
源蔵は他の地方だったかも知れません。)
になっています。ここから島抜などしたの
でしょうか。
 4年半後、突然遠島になっていたはずの
源蔵の公儀への直訴という大
胆な行動
が平戸藩から壱岐へ知らされ、先の源蔵と作五郎の訴え出た内容
について再吟味されるようになり、平戸まで出頭しなければならなくなっ
た割子達の驚きは、大変なものだったろうと思います。それこそ、驚天動
地の心境だったに違いありません。
 恐らく、極刑をも覚悟していたのが、無罪放免になったことに対し、神
助と受け取ったことからも、その喜びの大きさが伺えます。

 源蔵は、死罪となり、文政3年(1820)3月27日に壱岐に送致され、
4月2日に百間馬場で処刑されました。43歳でした。
 口碑では、生家の近くの牢屋にいれられ、また、近郷を引き回されてい
ますが、これも見せしめだったのでしょう。
 妻子を捨て、命を賭して失政を訴追した義人源蔵は、平戸藩の圧政に苦
しめられた壱岐の人達の心に永く生き続けてきたようです。

 首謀者の一人だった作五郎については、口碑も残っていないということ
です。



■『田畑御定法帳写』(可須村土肥家写本)

「壱岐国田畑割之義ハ先年被相定候通無異義可取計旨尚又去ル外年被仰
出候然ル処依村田畑割致候節郡方役人之外ニ別ニ割奉行と名付数人寄合
勝手ニ取扱其上酒食等相催無益之費ヲ致数十日手間取右雑用高掛ニ取立
員数多分有之趣相聞殊更右体取計来候然ハ代官庄屋共ニハ却而割方ニ不
拘者重々不都合至極之事ニ付右割方之義ハ前々より相定御作法之通専代
官庄屋小役人共立会不正之義無之様取計其上ニ計兼候向も有之候ヘハ郡
代中ヘ相達可請指図事ニ候条向後於村方右体不都合之仕方於有之ハ相糺
候上乞度申付候間其旨相心得御作法之通違乱之義無之様可取計旨猶又郡
代中へ可被相達候巳上
   六月 松浦典膳          
  勘定奉行中                        」

<
土肥家写本末尾へ追加した編者の説明書>
「巻末に慶應二年十月郡方添物書役植村真二右ェ門写之とあり、享保八
年の定法に寛政十年の訓令をそえ、それに付札をなしたもののようであ
る。寛政十年に編年する。付札が何時何者によって何の為になされたか
は別に考証を要する。」

●平戸藩の家老の松浦典膳から勘定奉行に宛てた一通の文書がありま
す。日付は六月だけで年はありません。出所は可須村土肥家写本『
田畑
御定法帳写
』です。編者はその末尾に説明を付記しています。

「壱岐国の田畑の割り付けは、先年定めた通り違反しないようにするこ
と。先年申し出によると、田畑の割り付けを行った際に、郡方役人の他
に、割奉行と名付けた者が数人寄り合って勝手に行い、その上、酒食等
に無駄な費用をかけ、数十日も手間をとっている。また、雑用係などに
も取立て、人数を多くしていると聞いている。これからは、代官・庄屋
・小役人が共に立ち会って不正な事がないように取計え。その上で、何
か解決できないようなことが出てきたら、郡代へ申し出て指図を受けよ。
 今後、村の方で不正な方法で割り地を行った場合は、厳しく糺してい
くことをハッキリと言っておくので、みんな心して規則通り行い、違反
する事がないようにすること。なお、郡代にも、このことを伝えよ。
 六月            松浦典膳
 勘定奉行中                         」

この書状は、可須村の土肥家から出ているので、「地割事件」に基づく
訓令を写したものではないかといわれています。


      
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