万 葉 公 園

      万葉集歌碑・竹田黙雷頌徳碑 石田町本村触 (01.10.21)


            
                 万葉集歌碑

 遣新羅使の一員であった雪連宅満は、天平8年11月、新羅への途
上、壱岐印通寺において病死、
伊波多野(いわたぬ・石田野に葬られまし
た。

 その昔、使節一行が往還した海や船旅の疲れを休めるために入港した
印通寺港、さらに宅満の墳墓のある石田野や、深江田原を見渡す景勝地
(黒木城跡、別名城の辻)に、明治百年事業として、この地一帯を購
入、昭和44年10月8日、頂上に歌碑と
竹田黙雷禅師の頌徳碑を建
立、万葉公園と名付けられました。
 
 歌碑は自然石で、 

       「
石田野に  宿りするきみ  家人の 
          いづらとわれを  問はばいかに言わむ


という挽歌の一つを、当時の『
万葉集』の研究家、昭和女子大教授、
木俣修氏の平仮名まじりの当用漢字の揮毫により刻まれています。


         
          
竹田黙雷禅師頌徳碑(大浦貫道氏手蹟)

 
黙雷禅師は、安政元年(1854)7月3日、壱岐郡香椎村(現在の勝本
町西戸触774番地)の生まれで、本姓は
竹田氏、父は平戸藩士勝治、母
は川上氏、五男二女で師は四男、幼名は熊雄、7歳の時、石田村(現石田
町)の
太陽庵(今は廃寺となり、同村の寿慶院に統合)良堂和尚によっ
て、祝髪し
宗熊と名付けられました。

 10歳の時、良堂和尚に随って太陽庵より池田の正伝庵に移られ、安国
寺の洪堂、国分寺の秀岳二師につき、詩文・内外の典籍の講義を受けられ
ました。
 14歳の時、秀岳和尚が
観音寺に遷られ、これより師は秀岳和尚の徒弟
となられました。
宗尤と改名されました。

 慶應4年15歳の時、笈を負うて海を渡られ、博多の崇福寺(黒田家の
菩提寺)〜京都の妙心寺〜
明治5年・19歳・病気で帰島〜20歳・美濃
伊深の正眼寺・病で退山〜4年間・京都で仏教学を修め、講師を勤める〜
明治10年・病で帰省〜明治11年・25歳・平戸の雄香寺〜明治12年
・26歳・長崎の春徳寺〜明治14年・28歳・久留米の梅林寺〜
明治1
5年・29歳・秀岳和尚病篤しとの報で帰島これ以後、帰島なし)〜
明治16年・30歳・梅林寺へ〜明治22年・36歳(梅林寺での9年間
の修業)・「
仏祖の心印を付与される」(禅宗史上、最若年)〜長崎・
長崎市夫婦川の春徳寺〜明治25年・39歳・京都の
建仁寺管長に推挙さ
れました。
 黙雷禅師が建仁寺に晋山されると、僧籍者だけでなく、各界の多くの人
達が、その「
学と禅と徳」を慕って参堂(参禅)しています。
 
 その後、昭和5年、77歳で死去されるまで僧籍にあり、その間約40
年、管長を勤められました。
 最後の書、「
風縄雪井七十七年 転身回顧 過犯弥天

 (以後、建仁寺の管長は、
竹田姓を継承して居られます。)
  
建仁寺けんにんじ京都市東山区小松町にあり、禅宗・臨済宗建仁寺
派大本山です。
栄西えいさいが二度の入宋によって伝えたのが禅宗(臨済
宗)で、これによって天下を救済しようとして建てたのが建仁寺ですか
ら、由緒や寺格においては、第一位を占める訳です。
 (曹洞宗の開山
道元禅師は栄西の弟子で、曹洞宗の立教開宗は40年
後になります。「茶」は栄西禅師が宋より持ち帰り、植栽したもので、
栄西は『
喫茶養生記』で茶の効用を述べています。後、「茶道」へと発
展し、開山忌には裏千家家元による献茶などがあります。)

 建仁寺について、「
祖師栄西の遺風が薫る日本最古の本格的禅刹
・「
多くの学僧を輩出」・「東山とうざん建仁寺は二代将軍源頼家を開基
とし、宋より臨済宗を伝えた栄西を開山としている。京都の繁華街に近い
が、広大な山内は静寂が保たれ、塵
ちりひとつない。戒律を重んじた祖師
栄西の遺風が薫るようだ。」と紹介されています。
 (
1997年双葉社刊うちのお寺は臨済宗』総監修/大正大学文学部長藤井正雄

●「電力の鬼」と言われた
松永安左ヱ門翁が、「わしはあまり、もの怯
じしない人間だが、祖父と
黙雷禅師だけは怖い人と思った」と述懐され
るのを聞いたことがあると、
大浦貫道氏は『黙雷禅師遺芳』に書いて居
られます。

●石田村長の
横山孝雄氏が、松永安左ヱ門翁に顕彰碑を建てたいが、
と伺いをたてられたところ、自分より偉い人がいると言って、
黙雷翁の
ことを紹介されたということです。これが、ここに禅師の頌徳碑が建立
される起因になっているようです。


 
壱岐には臨済宗系統の寺院が10ケ寺ありますが、総て龍宝山りゅう
ほうざん
大徳寺が大本山です。 ⇒ 壱岐の寺院
 大徳寺は、京都市北区紫野大徳寺町にあり、「
大燈国師、一休、沢庵
の伝灯を引く洛北随一の巨刹
」・「文化財と歴史の宝庫」で、開山は
大燈国師だいとうこくしで、叔父赤松則村あかまつのりむらの開基で紫野むらさきの
に大徳庵を営み、1326(嘉暦かりゃく元)年、法堂をひとつ造って大徳
寺としたのがはじまりです。
 応仁の乱でお堂の大半が焼失しましたが、
一休宗純いっきゅうそうじゅん
堺の町衆の応援を得て復興しました。これで大徳寺は「茶道」との縁が深
まりました。
 
千利休せんのりきゅうと親しかった豊臣秀吉ら有力大名が大徳寺への寄進
を続け、ついに洛北随一の巨刹となりました。
 織田信長の葬儀、秀吉の大茶会、千利休の切腹事件、徳川幕府と対立し
沢庵の紫衣事件など、歴史の舞台がまわるたびに大徳寺は登場していま
す。

沢庵の紫衣事件⇒慶長18年(1613)6月、江戸幕府は勅命によつて
紫衣着用が許される大徳寺・妙心寺・知恩院など8カ寺の住職になるに
は、勅許を受ける前に幕府の同意を必要とするという「勅許紫衣法度」
を発布しました。
 それ以後も、種々の規則を設けて、寺院への統制を強めましたが、大徳
寺と妙心寺への法度の条文は、とくに厳しかったのです。
 そこで、大徳寺の沢庵等は、寛永5年(1628)、幕府に意見書を出
しました。その結果、大徳寺・妙心寺の各2人が奥羽に流されました。
 その後、寛永9年(1632)正月、二代将軍秀忠が死去し、朝幕間の
緊張はゆるみ、この年7月、三代将軍家光は奥羽に配流した4人を赦免し
ました。
 沢庵は赦免後、家光から厚い帰依を受け、江戸品川に東海寺を建立して
もらいました。なお、支配体制を確立した幕府の寺院に対する態度も法制
を強要するのではなく、不合理なところは修正していくというように変わ
っていきました。


黙雷禅師遺芳
   ・発行日  昭和44年9月21日
   ・著述者  
大 浦 貫 道    
   
・発行所  石田村 中央公民館内 黙雷禅師頌徳会
   
・頒布所  京都市下京区堀川通花屋町 百華苑

上記著書の引用・転載については、
 大浦貫道氏の甥、
大浦宏道氏(寿慶院住職)の許諾を得ました。



     
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