壱岐「島の科学」研究会発行の『
島の科学』(37号・平成12年3月号)
掲載の占部英幸氏(芦辺町国分東触在住・郷土史家・特に壱岐の古代史について研究)
の『壱岐・真根子の足跡』より、許諾を得て、転載・引用します。
なお、満武初一氏の『壱岐直・真根子と伏尺神社考』も、占部氏よ
り間接的に許諾を得ました。
壱岐・真根子の足跡
(佐賀県武雄市若木町)
占 部 英 幸
●壱岐直いきのあたい・真根子まねこの尽忠
若木町川古かわごに伏尺ふし神社がある。昔から格式の高い村一番の神で
あった。伝説によれば神功皇后の三韓征伐にも従い筑紫に下向した武内宿
禰は、応神天皇の九年四月筑紫観察のために滞在し、横辺田よこべた(今の
大町福母)にいた。しかるに弟の甘味宿禰は兄の出世を喜ばず、天皇のご
信任の厚いことをうらやみ、「兄は三韓と通じて不敬を計はかる企くはだて
あり」と讒言した。朝廷はその真意を確かめ、その事実があれば討てと命
じて使臣を発向させた。その頃、壱岐に壱岐直・真根子あり、壱岐直の祖
であったが百済に渡り観察し、もとよりその事実も無く全くの不実である
ことを知った。この人その顔形はなはだ、武内宿禰に似ているので宿禰が
罪なく空しく死することを惜しみ、身代わりとなりて自ら剣に伏し死ん
だ。武内宿禰は大いに悲しみ尺に伏して慟哭してやまなかった。
●死体を運ぶ
この死体を壱岐に運ぶことになった。昔は藤津、彼杵の辺りまで三韓に
わたるには唐津より出航していて、川古はその交通の要所であった。横辺
田から多久を通り川古まで来た時に死体は重くて運ぶことができなかった
ので、この地に来て葬ることになったと伝えられ、これを神と崇め奉った
のが尺伏神社である。
神社の南約十町のところから西の山奥深く入り込み、約五町のところに
円錐形の大塚がある。その周囲あたりを「ずうめき」と伝う。真根子の遺
体を葬った所という伝説があり、胴埋地と言っていた口伝えが訛化したも
のと思われる。また塚の前方一町ばかりの小渓谷にも二、三個の小塚があ
るが「金の御膳」という。また「金予」さんと言っているが、いずれも真
根子に関係ある塚らしいと伝えられる。
高良大社の旧記に「真根子は朝のためには忠にして、友に交わり信あ
り、賢きを招き智あり、命を捨てて勇あり」と大いに賞賛されている。
(若木町百年史より)
壱岐直・真根子と伏尺ふし神社考
若木町 満武初一
●伏尺神社の史実
伏尺神社の起源のゆらいについて詮索すること久しいが神社名を伏尺と
号し、祭神を壱岐真根子と明文化された記録は元禄の頃になつた、武雄社
本紀および伏尺神社の葬表銘が初見であろう。弘治二年銘の棟札は神社の
社殿建立の最も古い資料である。
川古庄屋の記録に伏尺大明神と正徳五年の記録に所載してあり、宝治二
年建立の鳥居の額には伏尺神社と記名されている。宝治二年の記録には伏
尺宮とある。以下伏尺神社の史実を各記録にもとづいて記す。
●伏尺神社の棟札について
「弘治二年(1566)馬渡八郎左エ門賢俊之女」とある棟札が社殿建立を証
明する。弘治二年は後奈良天皇の御世で室町時代も末期天文二十四年十月
二十三日兵革により、弘治と改元されたほど世はまさに戦国時代である。
馬渡賢俊は永禄九年正月二十日武雄領主・五島貴明に討伐せられた馬渡
甲斐守俊明入道秀岩の一族であり、今(昭和53年)を去る432年に建立さ
れたものである。
馬渡一族は、清和源氏八幡太郎義家の弟の、加茂二郎左ェ門尉美濃守義
綱の子孫が北肥前に住し、貴志岳きしだけ城主波多はた氏に居属していた後
に、川古を領有の渋江しぶえ氏に属している。
馬渡一族が壱岐直真根子を崇拝し、氏神として社殿を建立する動機は、
古くから鎮守社として奉られていたとしても、壱岐と交渉の深かった北肥
前に住していたのに起因するのではなかろうか。
川古地方は一時、小康を保ち、本部には淀姫大明神創建のことあり。渋
江氏・岸岳城主波多氏の息女を室とし、日鼓城にあり、嫡男・公親は日鼓
城にて生まれ、落城後は波多氏を頼りて壱岐に蟄居して再起をはかり、雌
伏15年波多氏の援助を得て日鼓城に入り、壱岐との結びつきはさらに深く
なり、伏尺神社の建立に至ったのではないかと推定される。
本部の鎮守社の淀姫大明神は当時本部を領していた中野城主(朝日村)
中野山城秀明の創建になるもので「天分二十年(1551)二月二十九日領主山
城守益明」の棟札がある。本部の淀姫神社を創建されて五年後に伏尺神社
の社殿が建立されている。社殿は創建されたのか再建されたのか定かでは
ない。
(註・波多氏の壱岐領有については⇒「壱岐の島歴史抄録」)
●伏尺神社の葬表銘
「聞くに伏尺社は真根子の霊をいつきまつる。吾れ船岳記を見るとこ
ろ、武内大臣嘗て筑紫にいましときに甘美内の離るに会い、ことすでに迫
る。時に壱岐の直、真根子という人あり、深くこれを惜しみていへらく。
容貌は大臣に似たる、もって代わりて死すべし。すなはち剣に伏たりて自
ら尽きたり。武内は伏尺によりかかわりて撫で慟哭することはなはだし、
ついに難を免れるを得たり。皇朝は特にその仁徳を嘉せられ、子の小経耳
を火の国の宰となしたまふ。子孫は杵島郡川古郷に剣廟し、ここに決めて
奉祀りたもうはこれ真根子の霊なり。嗚呼義士これ徳を尚び仁人これを憂
えるか。切に至るという可し。世人何時の禁みてまつりなすところ風雨を
もってし、疫を払いたもうて福とする人、今に少なからず。
祠官土佐少将克長、緒郷にひらに募り葬表一基を建て銘を作り、その功徳
を表す。銘に曰く、神徳のさかんなるは詳々たり、たてまつることあら
ば、すなわちしるしありて泉の如くながらえると伝う。厚く努めて慎みて
祈る。あきらかに務ること盛んなればそれ百福をうるおしもって忠誠なれ
ば担これ胆痛む。つつしみて霜を塞ぎ和風あきらかに申す。
元禄八年春の四月
武雄本司少輔伴宿禰義門記
(註・壱岐直、真根子⇒天児屋根命九世の孫・雷大臣の後なりとあり、
神功皇后の世に父に従い三韓に赴き帰朝の後は城にとどまり、三韓
の守りについていた。真根子は壱岐直の祖で、子孫は伊岐ゆき、
雪、伊吉、あるいは卜部宿禰を名乗った。忍見命(押見宿禰・壱岐
県主で月読尊を壱岐から京都に分霊)は真根子の子孫。
(松尾社家系図)
小経耳⇒こえみみ。真根子の子。
剣廟⇒廟を建て霊を祭ること、剣は霊の字義。
伏⇒したがう、随う、服する、天皇の命に服する、天皇の命を受け
た使臣の剣にしたがうという意味。
尺⇒死の古文は尺で屍が白骨となることが死の原始の意味。死は、
枯れる、亡びる、殺すで、生あるものが滅する事。屍は、なき
がら、むくろ、死後の肉体を意味する。古代は死して本葬に至
らぬをいった。
伏尺社⇒真根子が自ら武内宿禰の身代わりとなって使臣の剣に伏
し、すなわち使臣の剣に倒れ、その屍体が本葬もせずに川
古の地に埋められたので、その霊を神社を建てて祀り、伏
尺社と号したもの。伏尺の名号は真根子の死に至つた意を
あらわしている。
火の国⇒肥後地方
世人〜福とする人⇒義人、真根子命をつつしんでまつることあれ
ば風雨旱魃などの災いや虫の害、病気などのも
ろもろの事を福となす事ができる。 )
●あとがき
日本書紀の応神天皇の時代に壱岐・真根子という壱岐の遠祖が実在した
ことは知られているが、「真根子」の足跡を島の科学研究員として数年来
さがしていた。福岡市・生の松原や姪めいの浜の猫天神など、数年間に亘り
採録を重ねた。壱岐を尋ねて来られた東京在住の壱岐真根子を知る人を介
して、佐賀県武雄市若木町の公民館長を紹介して頂き、若木町を訪ねて壱
岐真根子の史実を説明していただく幸運に恵まれ、又、町史や満武氏の未
公開の論文を頂き、今回はその資料を掲載しました。
神功皇后や応神天皇は、九州から畿内にまで広く分布しており、特に壱
岐の島に沢山の伝説が残っている。歴史の一つの転換期でもある時代で多
くのナゾに満ちている。
さらに姪の浜から佐賀県武雄市若木町までたどって行くと、古代の、一
大国いきこく→松浦国まつらこく→伊都国いとこく→奴国なこくのルートともな
り、かって『魏志倭人伝』を書いた魏の国の使者が歩いた『邪馬台国』へ
の道でもあっただろう。また、この山辺の道は後世には「多久街道」とし
て長崎街道や唐津街道と交差した多くの文化が行き交う「歴史街道」でも
あった。
『壱岐・真根子の足跡』は壱岐のルーツと歴史を探ることができる。隠
された史実の解明と今後の壱岐史学のためにも、武雄市若木町は貴重な存
在となるので友好を結びたい。
「遣新羅使の墓」(トップ)
遣新羅使、雪連宅麿の墳墓1 遣新羅使、雪連宅麿の墳墓2
遣新羅使、雪連宅麿の墳墓3 万葉公園