遣新羅使の墓 石田町池田東触

         
     
 郷ノ浦〜印通寺の国道沿いの八石
はちこく停留所より、北へ5分ぐらい歩
いた丘陵(石田峰
いしだみね)の木立の中の盛土の上にあります。近くの家
の人に、位置を尋ねたところ、「遣唐使の墓ですね。」と言われました。
この地域の人は、「遣唐使」と言っているようです。

壱岐郷土史(後藤正足著・大正7年刊行)には、
 「遣新羅使の寄泊及び雪連宅麿の死没 聖武天皇(註・第45代)天平
八年(一三九六・
註・西暦736)朝廷遣新羅使の擧あり其使船我壱岐に
宿泊す一行の中雪連宅麿死没せしを以て之を石田野に葬る。(続日本紀万
葉集)
 按ずるに一行の大使は従五位阿部朝臣継麿にして宅麿は其の一員なるも
官職を詳にせずこの行は天平八年六月大和朝廷を辞し翌年に及びて帰朝せ
るが如し、其海上航行の遅緩なりしは一行が往行中対馬の竹敷浦に滞泊せ
し時日が秋九月を過ぎて紅葉の散り果つる頃なりしに徴し之を窺知するこ
とを得べし、斯かる航海困難の秋に際し一行中に病没者を生ぜしこと固よ
り止むを得ざるものあり、而して宅麿の墳墓は石田村池田東触池田橋東方
の丘頭石田辻にあり、土地の古老は之を遣唐使の墓なりと伝説し又石田の
古称は伊波多と訓せしならんと云えり左に追悼の和歌数首を揚けん

 石田野に宿りする君家人のいつらに我を問はばいかにいはむ 読人不知

 わたつみの、恐きみちを、安けくも、なくなやみきて、今だにも、
 もなくゆかむと、壱岐の海士の、ほづてのうらへを、肩焼きて、
 行かむとするに、いめのごと、道の空路にわかれする君  葛井連子老

 新羅へか、家にか還る、壱岐の島、ゆかむたどきも、思ひかねつも
                              六鯖」
                         と載っています。

遣新羅使派遣の期間・回数
   571年〜882年(元慶6)、45回
 
日本が大陸(中国)から、新しい文化をとりいれるためには、通
過する新羅に便宜をはかってもらわなければならなかったのです。

壱岐の島略年表
・487年 月読神社(芦辺町)に天月神命を祭る(神社考)
      壱岐県主が
分霊して京都に祭る
・541年 
伊吉公乙等を筑紫伊(註・《者見》)県に遣わし、神石を求
      め、のち山城国
月読神社に奉納する(壱岐名勝図誌)
・562年 新羅任那を滅ぼす
・593年 聖徳太子摂政となる
・607年 小野妹子を
に遣わす
・630年 第一次
遣唐使
・632年 犬上御田鋤帰朝の記事中に
伊岐史乙等の名あり(壱岐国史)
・645年(大化 1)大化の改新(初めての年号・大化)      
・700年 
伊吉博徳大宝律令編纂に参与、功により賜禄される(続
           日本紀)
・729年(天平 1)
壱岐郡・石田郡の郡境を定める(壱岐名勝図誌)
・730年(天平 2)
壱岐守板氏安麻呂壱岐目村氏彼方、大宰府師
           老宅での九州全国官人の宴に出席(万葉集)
・736年(天平 8)
雪連宅満、遣新羅使の一行に加わり病死、
           壱岐の石田野に埋葬する
(万葉集)
・744年(天平16)壱岐にも国分寺の設置がきまり、壱岐直
           氏寺をあてる(類聚三代格)
・773年(宝亀 4)壱岐島
卜部道作、和気清磨呂が宇佐八幡宮に於
           いて神意を問うに当り、
卜占の任を果たすと伝
           う(宇佐託宣集)
・828年(天長 5)
壱岐直方麿壱岐国造に任命する(壱岐国史)

※「
壱岐の卜術者を五人」を「朝廷の卜部」として採用(「延喜式」)

 壱岐『島の科学』研究会発行の『島の科学』(平成6年4月発行
・第31号)に掲載された「
遣新羅使、雪連宅満の墳墓」を、松本
清氏の許諾を得て転載します。松本氏は、小学校長を退職後、石田町
教育委員長を務められました。(01.9.13)
 
  
遣新羅使、雪連宅満の墳墓 1
                  
 松 本  清

1.松室同族会のこと
 雪連宅満
ゆきのむらじやかまろの墓は石田町池田東触字石田峰にある。戦前は
当地の古老達が遣唐使の墓といって、盆の十六日に満参
まんさんといって触
中の念仏坊十数人が墓前に集まって念仏供養を営んでいたことを知ってい
る。
 戦後石田町指定の史跡となってから、その管理を私が委嘱を受けて関心
が深まっている時、去る昭和六十二年十月「宅満」の裔孫であるとされる
方々一行十五名が墓参のため、京都から来島されたことから、「宅満」の
史実を研究する機会を与えていただいたと思っている。この十五名の方々
は、「宅満」(宅麿)の遠祖である「押見宿禰命
おしみのすくねのみこと」又
「忍見命」の同じ裔孫であるといい、忍見命が京都洛西月読神社に祠官と
なられて以来代々その職をうけ継がれ、歌荒
(註・部首木へんの右に巣《木巣》)
田占部うたのあらすだうらべ伊岐氏、中古より松室氏と称して連綿と続く一族で
「松室同族会」を結成され、現在は三十四家で同族会を組織されている。
昭和六十二年
(註・1987)は壱岐県主でもあられた「押見宿禰」が壱岐から京
都へ移住されて壱千五百年目ということで、その記念事業の一環としての
墓参であった。

2.雪連宅麿の家系
 ここで雪連宅麿(宅満)について、松室同族会発刊の「洛西松尾月読社
松室家代々考」、更には「続群書類従」、「日本書紀」によれば、雪連宅
麿は遠祖を神代天児屋根命に発し、その後裔押見宿禰が壱岐占部であった
が、紀元五世紀末、山背国歌荒田に月読神社を造営し、ここに仕えたと
ある。即ち、日本書記によれば、弘計
おけ天皇(顕宗けんそう)三年春二月
一日阿
(註・間の日の代わりに臣事代あへのおみことしろは命をうけて出向
し、任那
みまなに使した。このとき月神(壱岐島月読神社の祭神)が人にか
かって語り、「わが祖高御産巣日神
たかみむすびのかみはあらかじめ天地を鎔
造した功がある民地
かきどころをわが月神に奉れ。もし請うように我に奉っ
たなら、慶福があるだろう」といった。
 事代
ことしろはこのことを京にもどってありのままを天皇に奏した。
 そこで山城葛野
かどの郡、歌荒田(今の京都洛西松尾の里)を奉献し
た。そして、忍見宿禰を壱岐より招き、これに仕えさせた。このことか
ら、松尾一族は押見命を初代として、その子孫が連綿相承けて祠職をつ
ぎ、今日に及んだとしている。
 宅麿はこの忍見命より八代後になる。
 松尾社家系図によれば、宅麿の母は下野守秦大魚の女
むすめで、父は伊
伎古麿
いきのこまろであり、宅麿は従五位上、月読長官、壱岐島司、神祇宮
官主とある。山背
やましろの月読尊をまつりながら壱岐の島司を兼ねていた
ことになる。

3.宅麿の姓
 壱岐島で卜占をあつかったのは、壱岐氏であり、壱岐氏の姓は「直あた
」で後に「宿禰」を賜っている。宅麿の家系は初代押見宿禰以来京都月
読宮に仕え、また卜占の特技をもっていた。彼の父が伊伎連古麿といい、
懐風藻(漢詩集)に出ていることから、やはり宅麿も「壱岐」か「伊伎」
であったと考えられる。群書類従の松尾社家系図の中にも「占部伊吉宿
禰」というのが数多くみられる。そのことから彼も「壱岐」「伊伎」「伊
吉」であったと考えられる。
 又、「雪」について、司馬遼太郎氏は中国風にしゃれて一字姓にしたも
のであろう、特に彼が卜占官として遣新羅使船に乗り組むためにも中国や
新羅風にした方が、先方にもよい感じを持たせるという意識があったので
あろうといっている。

4.遣新羅使としての宅麿
 宅麿は、このような生いたちで卜占の特技をもって遣新羅使、大使阿倍
朝臣継麿の随員となって一行に加わっている。
 彼の役目は外交使節というより一行の船の安全な航海をするためには、
当時としては卜占が必要で、彼は先祖代々受け継いだ卜占によって航海の
ための船出などの吉凶を占ったものである。
 この遣新羅使について続日本記によれば、聖武天皇は天平八年二月、従
五位下の阿倍朝臣継麿を大使とし、従六位下の大伴宿禰を副使とし、一行
四十数人の使節団を任命し、六月に難波を出発し、翌年、天平九年正月に
帰国している。
 この時、新羅の国はこれまで通りの儀礼を無視して、わが使節の使命を
受け入れなかった。そこで天皇は使節一行を内裏に集めて夫々の意見を陳
べさせられた。その中で、ある者は改めて使者を派遣して、その理由を問
うべきであるといい、又、或る者は兵を発して征伐を実施すべきであると
も奏上した。このように一行の成果は上がらず、のみならず途中の航海も
非常に難渋したという。加えて天平七年から、九州を中心に疫病が流行
し、多くの死者が続出している。一行人たちもこの疫病にかかっている。
即ち大使の阿倍朝臣継麿は対馬停泊中に死亡し、宅麿は壱岐印通寺で死
去、更に副使の大伴宿禰三中
みなかは帰朝の途中感染し、入京も一行に遅れ
て帰朝している。


    
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