遣新羅使、雪連宅満の墳墓 2
松 本 清
5.万葉集にみる遣新羅使
このときの遣新羅使は何かにつけて苦しさ、悲しさの連続で万葉集に出
てくる歌も悲しみの歌が数多く出ている。
この時の航海は船が小さかったのか、台風季節であつた関係か、理由も
わからぬが瀬戸内海の航海に一カ月以上も要し、周防灘では逆風に吹き流
され、ようやくの事で豊前分間わくまの浦に入っている。
この時の雪連宅麿の歌として
<大君の命みこと恐かしこみ大船の 行きのまにまに宿りするかも>
というのがある。この大船も大きさを表すのではなく、使命の重大なるこ
と、大君の仰せを恐れ畏みという意味で、天皇の命とあらば、その困難に
も堪えようとする気持を示している。
順風を得て博多の筑紫の館にたどりついた時はもう初秋、七夕のころで
あった。ここでも船の修理や一行の休養や風待ちでかなりの日時を過ごし
たと思われる。その間、この天平八年前後は筑紫を中心に痘瘡が蔓延し、
疫病も使節にまでふりかかり、いよいよ壱岐へ向かうころから宅麿も身体
に不調を来たし、印通寺についたころは病気も重くなり、療養のかいもな
く、遂にかえらぬ人となつてしまった。時に秋風の頃十一月八日、印通寺
の港から北方わずか約千米位の道路ぞいの石田峰という丘の上に一行の人
たちや、村人たちの手によって葬られたという。
この時一行の悲しみや不安は一段とつのり、新羅への使節という大きな
使命さえ忘れた程に追い込まれた事であろう。
この時の一行の歌を、久留米大学教授高橋和彦氏は「万葉集と長崎県」
という文庫本の中で九首もの歌をとり上げている。
<天皇すめろぎの遠の朝廷みかどとから国に渡る我が夫せは家人の斎いわい待た
ねか正身ただみかも、過あやまちしけむ秋さらば帰りまさむとたらちねの母に
申まをして時も過ぎ月も経ぬれば今日か来む明日かも来むと家人は待ち恋ふ
らむに遠の国いまだも着かず 大和をも遠く離さかいて岩が根の荒き島根に
宿りする君>
反歌二首
<石田野いわたのにやどりする君家人のいづらと我を問わばいかに言わむ>
<世の中は常かくのみと別れぬる君にやもとな吾あが恋い行かむ>
この三首の挽歌は、作者ははっきりしていないが、副使の大伴三中みなか
であろうとされている。
その歌の意味は、
<天皇の治める遠方の使節となり、彼は留守を守る家族の者が斎りごとを
怠ったので災禍が及んだのか、それとも本人が過失をしたためであろう
か、秋になれば帰国しますと母に申して出発して以来、月日も過ぎたの
で、今日は帰るだろう、明日は来るだろうと待ち恋しているのに目的地に
も着き得ず、しかも大和を遠く離れた岩の多いこの島に永遠の眠りについ
てしまった。>
<壱岐の石田峰の地で永遠の眠りについた君、帰国した時、君の家族が「
うちの人は何処にいるか」と尋ねたら何と答えようか。>
<人生の無常とはこんなものだよと言って別れて行った君のこと、私はい
つまでも恋い慕って行くことであろう>
葛井連子老ふじいのむらじこおゆの挽歌
<天地と共にもがもと思いつつ ありけむものをはしけやし 家を離れて
波の上ゆ なづされ来にて あらたまの 月日も来経きへぬ 雁がねも
続つぎて来き鳴けば たらちねの 母も妻らも朝露に裳の裾ひづち 夕霧
に 衣手ぬれて 幸さきくしも あるらむごとく出で見つつ 待つらむも
のを世のなかの人の嘆なげきは 相思おもはぬ 君にあれやも秋萩の散らへ
る野べの 初尾花 仮庵かりほにふきて 雲離はなれ 遠き国べの 露霜つ
ゆしもの 寒き山べにやどりせるらむ>
反歌二首
<はしけやし 妻も児どもも 高高たかだかに 待つらむ君や 島かくれ
ぬる>
<もみじ葉の散りなむ山に 宿りぬる君を待つらむ人し悲しも>
その歌の意味
<天地の続くかぎり生きたいと思っていたであろうに、愛すべき家を出て
以来、波にゆられて、かなりの月日もたってしまった。雁が来て鳴く秋に
もなったので、君の妻や母は朝夕、露や霜に着物をぬらしながら、君をま
だ無事であるかのように思って、門に出て待っているであろうに、人々の
歎き悲しみは何とも思わない君なのだろうか。萩の花が散りしくこの野辺
の、ススキを屋根にふき、大和を遠く離れたこの寒い山辺に遂に永遠の眠
りについてしまったのであろうか。>
<いとしい妻や子どもたちが爪立ちして首を長くして待っているというの
に、君はこの島に死んでしまったよ。>
<もみじ葉もやがて散ってしまうこの山に永遠の眠りについた君を待って
いる人のことを思うと本当に悲しいよ。>
次の三首は、六人部むとべ鯖麻呂の挽歌である。
<わたつみの かしこき路を安けくも 無く悩み来て 今だにも 喪も無
く行かむと 壱岐ゆきの海人あまの上手ほっての卜占うらへを かた灼やきて行
かむとするに 夢いめのごと 道の空路そらじにわかれする君>
反歌二首
<昔よりいひける言ことのから国の辛からくもここに別わかれするかも>
<新羅へか家にか帰る壱岐ゆきの島ゆかむたどきも思いかねつも>
歌の意味 ―※―
<恐ろしい海路を安穏なこともなく悩み来て、せめて今からでも無事で行
こうと壱岐の島の上手な占いをして行こうとする矢先に、まるで夢のよう
に旅先で死んでしまつた君>
<「から国のからくも」と昔から言った言葉のように、つらく悲しくもこ
の壱岐の島でお別れすることは!!>
<新羅の国へ行くべきかそれとも家に帰るべきか。これは「ゆきの島」と
いうが、行くすべも思い定めかねているよ。>
以上宅麿にかかわる歌を本人の作を含めて十首も残されたということ
は、このことの重大であったことがわかる気がする。このようにして疫病
におかされ、皆から惜しまれて死んだ彼のために一行の慟哭どうこくの声が
如何ばかりだったかということがうかがえる。又、前途むなしく死んだ彼
の先祖は壱岐出身の占部であり、奇しくも先祖の島で死去した事も何かの
奇縁といわざるを得ない。
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