兵庫県朝来郡和田山町野村地区の郷土史を紹介します。
  
壱岐関係の写真は平成12年(2000年)6月4日撮影
和田山町関係の写真は、但馬ミュージカル研究会松井とも子さん
のご厚意により送付していただきました。
(12年9月23日撮影)
       
  
  野 村 の 歴 史     
      
    野村の昔と心諒尼

      発行  野村部落
         編集  野村の歴史編集委員会
         発行日 平成十年三月二十一日

元文一揆

 刑を受けた者    二十三名
  うち和田山町分   十二名
  そのうち東河分    六名
 
 野村の罪状
  足立 善兵衛   四十九歳   庄屋   死罪切捨
  小山 弥兵衛   三十五歳   年寄   遠島(壱岐)
  足立 平七(善兵衛)三十四歳  但馬国中追放
 
 元文一揆の経過
  元文三年
(1738年)
      十一月二十日     野村久左衛門宅で出訴の話題でる。
      十二月 六日     和田村での賦銭割会議の席で出訴す
                 るという発言相次ぐ。
      十二月十六〜二十二日 生野鉱夫の要求
      十二月二十七日    山東町大庄屋小山六左衛門宅で訴訟
                 することを決議する。
      十二月二十九日    午前六時、竹田川原に三千人の農民
                 集まる。
                 午後二時、生野代官所到着
      十二月三十日     午後二時、農民村々へ帰る。帰り道
                 で庄屋、大庄屋の家を打ち壊す。
 元文四年
(1739年)
       一月 二日     午前五時、援兵到着
       一月 四日     代官所より農民逮捕に向かう。
       四月十八〜二十二日 囚人を京都へ護送
       五月〜六月     京都奉行所での吟味
       七月十二日     罪科決定及び刑の執行
                 (
六名が獄門、七名が壱岐へ遠島)
       七月十三〜十七日  竹田川原にて死罪者の首がさらされ
                 る。
       七月十七日     囚人の家の財産を処分される。

小山弥兵衛伝
 東河誌、朝来誌、小山家口伝等によると、小山弥兵衛は一七〇七年ごろ
生まれたものと思われる。
 小山弥兵衛は、生野代官所から執筆を依頼されるほど達筆であり、食禄
十石名字帯刀を許される身分であった。野村内では、現在の副総代にあた
る年寄という役職であった。
 小山弥兵衛は、元文一揆の前々日、小山家恒例の先祖祭を執行するた
め、山東町大月の大庄屋である小山六左衛門宅に行き、そこで朝来郡内の
大庄屋が集まり、生野代官所へ陳情を行なうこととなり、その廻状を弥兵
衛が書くこととなった。
 しかし、小山弥兵衛の筆跡は多くの人に知られているので、足の指に筆
を挟んで廻状を作成したとのことである。
 元文の一揆は、前述のとおりであるが、結果として小山弥兵衛は「壱岐
の島へ遠島」という罪科であった。
 小山弥兵衛の御仕置き申渡書は、次の内容であった。

        申    渡
     但馬国朝来郡東河庄野村
       持高 拾石余 年寄 弥兵衛
                   参拾五歳
     遠島壱岐申付候

 仕置申渡の理由は、一揆に際し、その謀議に参画し、村々への廻状を作
成し、一揆当日には竹田川原より東河内の村々へ動員に走ったことによる
とある。
 小山家の口伝によれば、弥兵衛は名字帯刀、食禄拾石持高百石全てを没
収されて流罪となり、元文四年七月
(1739年)三十三歳で壱岐に送られた。
その時、次郎佐衛門という八歳の子がいたとある。


  
  小山弥兵衛とゆかりの「暦応寺」跡

 さらに小山家口伝によると、弥兵衛は壱岐の島の見性寺預けとなり、役
務の余暇を住職に請い杉檜のなえを作って植林をし、その用材だけでも死
去の際は、千本を越えたという。さらに、壱岐の島の郷土歴史家、山口卯
八郎先生によると、付近の子供を浜辺に集め、読み書きを教えたり、自ら
荒地を拓き、そば、栗、柿を植え周辺農家にも広めたということである。
現在の箱崎本村触には果樹が多く、殊に柿が多いということである。ま
た、わらじ作りにも専念し、恵比須の鯨組の納屋にわらじを売っていたと
いうことである。このわらじは、「やへいわらじ」と評判だったという。


  
弥兵衛が植林したといわれる山

 小山弥兵衛は、見性寺
けんしょうじ預けであったが、後に暦応寺りゃくおうじ
預かりになっている。これは孫娘心諒尼の渡島の後、暦応寺住職霊麟めいり
大和尚のはからいによって、暦応寺預かりとなったのである。霊麟大和
尚は、もともと見性寺住職であり、暦応寺住職が急死されたことにより、
見性寺から暦応寺住職となられた方であったので、弥兵衛にとっても大き
な喜びであったことが、子供の次郎左衛門にあてた手紙の中にも書かれて
ある。「元見性寺様が只今暦応寺にて御座候、ひたとご親切に被仰候て老
年之拙者も全鏡までも大悦に奉存候」とある。


      
弥兵衛 直筆の手紙

 孫娘心諒尼は、壱岐の島にいつ渡ったかは定かでないが、水月院に今も
残っている心諒から弥兵衛に宛てた手紙が寛政元年十二月六日のものであ
る可能性が高いことから、寛政元年に渡った可能性が高い。小山弥兵衛が
死亡したのが、寛政四年八月であることから、約三年間世話したとある
「朝来誌」「小山家口伝」と一致する。
 このように波乱の一生を歩んだ弥兵衛は、寛政四年
(1792年)八月二十二
日暦応寺住職を枕辺に招き長い間お世話になったことを謝し、植林した杉
山を献上することを遺言して死去した。八十六歳であった。


    
「小山弥兵衛」墓


   
同  上(和田山町)

 このように死去した弥兵衛に対して、暦応寺住職は流人であるにもかか
わらず院号を贈っている。院号は当時としては、一寺を建立する程の功績
のあったものにしか贈られなかったもので、大変な出来事であった。贈ら
れた院号は、「吉祥院玄鏡了義居士
きっしょういんげんきょうりょうぎこじ」とい
う。


長徳寺に残っている過去帳(左端に載っている)

 院号を贈られた理由について、壱岐の郷土史家堀川誠太郎先生は、「流
人として島に来て五十余年をその疎外と冷遇の中にありながら且つ気も狂
わんばかりの望郷の念に耐え、ひたすらに一分の過誤もなく人間としての
道を生き抜いたばかりか、何の報いられることも期待せず造林に汗を流し
近在の子供に読み書きを授けるなど生涯をつらぬいた生き方に心打たれた
うえ、さらに祖父を思う一念で訪ねてきた孫娘の姿も、住職は強く心をう
たれたのであろう」とある。
 小山弥兵衛が心待ちにしていた赦免は弥兵衛死後の享和三年
(1803年)
に出ており、それに対して地元の庄屋等に請証文が提出された。

孝尼 心諒尼伝


    
 心諒尼の墓前で唄う団員(H12年9月23日)

 
明和二年(1765年)小山次郎左衛門の三女として生まれ、幼名は不明
であるが、尼になってからは「全鏡」とよばれていた。全鏡は、七歳の
時、祖父の位牌に戒名が書いてないことを不思議に思い父に訊ねたとこ
ろ、父は祖父が罪を犯し「遠島」という処分を受けたことを言い聞かせ
られた。
 この時、全鏡は父から祖父が「元文一揆」で壱岐の島へ流され今なお
壱岐の島で健在で暮らしていることを聞いた。そして壱岐の島へは、絶
対に近寄ることもできないと言い伝えられた。このことを聞いてから二
年後、全鏡は父に突然に尼にしてくれと申し出たが、父母は尼になるの
は五体の揃った者はなるものではないと厳しく戒めたが、九歳の折家を
飛び出して、矢名瀬の桐葉庵に走り込み弟子入りを果たした。
 桐葉庵では、住職が早速父母に連絡したが、本人の意志の固さに父母
は遂に尼僧になることを許したのであった。
 弟子になって十年余、難行苦行もたゆむことなく十九歳の春を迎えた
ととき、住職に「祖父を訪ねて壱岐の島に渡りたい一念で尼になったこ
と、それに女身では島に渡ることが出来ないので尼僧になれば僧侶と姿
形は同じであり長旅に便利であろう尼を志したものの、今更厚恩ある師
を捨て勝手ではあるが、老い先短い祖父にいくばくかの孝養したい。祖
父亡きあとは,帰庵して恩師に孝養尽くします。」と壱岐への旅を申し
出たのである。住職は、全鏡の願い出にいたく感激し申し出を受け入
れ、出発にあたり百数十里の長旅、万一男装が見破られってはならない
と、師自ら男性の形を細工して褌に裁縫して全鏡に与えた。
 男装に変じて托鉢しつつ、山陰道を西下、壱岐への便船を求めつつ下
関まで辿り着いた。宿を借りたお寺で、九州福岡の安国寺と暦応寺とは
親戚の関係にあり、しかも毎月一回芝船の往復のあることを聞き、天に
も昇る思いで早速九州福岡に渡り、安国寺の住職に素志を打ち明けて助
力を乞うたところ、住職もその孝心にいたく感激し柴船への便船を許す
とともに、暦応寺住職への添書きも与えられたのである。
 全鏡は、月に一度の柴船に乗り壱岐の島へ渡り、暦応寺を訪ねたので
あった。暦応寺住職は、安国寺住職からの添書きに目を通し素志を聞き
深く感激され、当時見性寺預かりであった弥兵衛を暦応寺に預かりとし
て、祖父と孫娘とを対面させたのであった。時に寛政元年(1790)であ
ったと考えられる。
 弥兵衛は、対面の三日位前から夢枕にしばしば孫娘が現れるようにな
り、孫娘のために、紙衣に柿渋を塗ってシラミを防ぐ用意をしていたと
ころであった。
 対面した二人は、涙に暮れた後、全鏡尼は故郷の模様を逐一話したと
ころ弥兵衛は大変喜び、自分もこのとおり健在であることを国の者に知
らせたいといい、もう一度国に帰り報告してくれと言った。そして、楠
の苗を三本持たせて帰国させた。
 楠の苗木の内、一本は小山家に、一本は弥兵衛の母の里である久田和
の夜久家へ、残る一本は弥兵衛の妻の郷でる岡田の浜家へ植えられた。
小山家の楠は、明治十六年家屋の改装の際、植え替えられて枯死した。
久田和の夜久家の木も、明治二十八年に伐採されたが、残る一本は、浜
家の屋敷跡の法宝寺に今も堂々と昔をしのぶ姿を残している。


     
法宝寺の楠

 一旦帰国した全鏡は、再び福岡に渡り、安国寺に寄寓きぐうすることを許
され、寺務の手伝いをしながら月に一回島へ渡り、祖父弥兵衛の身の回り
の世話をしたのであった。しかし、弥兵衛は老衰のため世話のかいなく、
三年後の寛政四年(1792年)八月二十二日息をひきとったのである。
 全鏡は、その遺骨を携えて野村に帰り、小山家の墓に弥兵衛の遺骨を葬
ることができたのであった。
 素志を果たした全鏡尼は、円明寺の住職から心諒という名を賜り、当時
無住になっていた観音堂を修築し、水月庵を興したのである。宗派も、小
山家の宗派にならい臨済宗に転宗した。かって恩になった桐葉庵には、四
人の育成した尼僧のうち二人を曹洞宗に、二人に臨済宗を継がせたのであ
った。


           
水  月  院


  
現水月院庵主と心諒尼の肖像画の掛軸

 心諒尼は、野村帰郷後は、先祖代々の菩提を弔うとともに、仏法の伝道
と、村の子女に生花や茶道の教授をして清純至誠の生涯を送った。
 天保十四年(1843年)一月十八日、七十九歳の至孝一貫の生涯を閉じた
聖尼であった。

   
  心諒尼の墓


  
1977年(昭和52年)芦辺町指定史跡


       芦辺町・和田山町交流事業(トップ)      

芦辺町・和田山町交流事業の主旨・内容

「流人小山弥兵衛の墓と その末裔たちとの出会い」

交流事業1 ミュージカル「心を繋ぐ子守唄心諒尼物語」公演

交流事業2 法宝寺の「楠の曾孫生」の記念植樹(箱崎小学校校庭)

交流事業3 芦辺町議員団 和田山町訪問