1987年(昭和62年)長崎県文化団体協議会 機関紙『文協』の
「郷土にまつわる物語」に寄稿された「流人小山弥兵衛」を、堀川氏の
お許しを得て掲載します。堀川氏は昭和45年度より、芦辺町文化財保
護審議会委員をされておられます。(平成12年6月現在)

  
  流人小山弥兵衛の墓と
    その末裔たちとの出会い

         芦辺町文化協会事務局長
           
 堀 川 誠 太 郎
    
壱岐の島 暦応寺跡の竹林のなかに
 壱岐の島、芦辺町箱崎本村触杉原の暦応寺跡の裏山の竹林の中に、
「吉祥院玄境了義居士、丹州俗名小山弥兵衛」と刻まれた一基の墓が
ある。
 この墓の主、小山弥兵衛の事蹟が明らかになる中で、つぎつぎに起こる
その末裔との不思議な糸に手繰り寄せられていくような出会いについて書
いてみたい。

林基著 「百姓一揆の伝統」の本
 今から三十年も前のことである。
 林基著「百姓一揆の伝統」という本の中に「尼心諒のこと」と題する一
文があって、そこに兵庫県朝来郡矢名瀬町刊行の「朝来志」の原文が紹介
されていた。

朝来志」原文(山口註 パソコンの都合で一部漢字が抜けています。)
 それは、
「心諒、初ノ名ハ全鏡、俗姓ハ小山氏、東河村ノ人也、父次郎左衛門、母
西氏、 初メ元文三年十二月窮民蜂起、旗ヲ翻シ生野代官ニ迫リ請ウ所ア
リ次郎左衛門ノ父、弥兵衛坐シテ壱岐ニ流サル心諒幼時、祖父猶ホ島ニ在
リト聞キ相見ント欲ス、長スルニ及ヒ思慕益々切ナリ、遂ニ志ヲ決シ梁瀬
村桐葉庵ニ入リ剃髪尼トナル蓋以テ行旅ニ便スル也、年二十一、事ニ托シ
テ庵ヲ辞シ壱岐ニ至ル、具ニ艱苦ヲ嘗ム既ニ至リ祖父ニ暦応寺ニ会ス弥兵
衛島ニ在ル四十七年歳巳ニ七十九、痩枯木ノ如シ祖孫相持シテ泣ク時天明
五年也、(中略)既ニシテ弥兵衛、病テ没ス心諒悲慟地ニ倒レ久シテ始テ
蘇ス居ル数月、遂ニ遺骨ヲ携テ帰ル実ニ天明八年也、後水月庵ヲ其郷里ニ
創メ之ニ居、天保十四年、病テ寂ス年七十九.」というものであった。
 生野一揆の流人がこの島で八十年の生涯をとじたという史実に、心動か
されるとともに、弥兵衛の事蹟に深い関心を持った。
 ところで、島に現存する寺の中に暦応寺という寺はなかった。

山口麻太郎先生の教示
 山口麻太郎先生(日本民族学会名誉会員)御教示で暦応寺は廃寺とな
り、長徳寺に合併されていることを知り、長徳寺を訪ね暦応寺の過去帖を
見せて貰った。
 過去帖をめくっていると、半紙を折った御布施包みを発見した。表に供
と誌された下に兵庫県朝来郡東河村野村 小山竹蔵と書かれ、その左肩に
吉祥院玄鏡了義居士 小山弥兵衛事、並べて水月庵中興無相心諒尼 小山
全鏡事とあって、裏に小山竹蔵氏の当時の大阪の住所が認めてあった。そ
してその包みの中に「立石兼三郎 壱岐国 芦辺浦」と印刷された一枚の
名刺が入っていた。

暦応寺跡
 先ず暦応寺を訪ねた。道脇の田圃で田の草を取っている婦人に、暦応寺
跡と墓を探していることを話すと、偶然にもこの婦人が、現在の暦応寺跡
の所有者平尾初氏の奥さんで、「其処から見える石垣が暦応寺跡で、探し
ていられるお墓は私が盆、正月お参りしている墓では」と、暦応寺跡とい
う石垣の上にひろがる竹林に案内された。その林立する竹の中に一基の墓
があり、いま見てきたばかりの吉祥院の戎名と側面には丹州俗名小山弥兵
衛と刻まれていた。
 この墓を発見した時、朝来志の流人小山弥兵衛のことを知ってから数年
を過ぎていた。
 こうして弥兵衛の墓を確認したその足で、芦辺浦の立石兼三郎氏を訪ね
た。脳溢血後の病臥中の枕辺に招かれて、極めて鮮明な記憶で当時のこと
を話された。

立石兼三郎氏の話
 大正十四年八月頃、博多からの商用帰りの船上で小山竹蔵氏夫妻と一緒
になり、二百年も昔の流罪地の壱岐で生涯を終えた先祖の墓参の話に感動
し、生来の世話好きも手伝って自ら案内を買って五,六日暦応寺を探し、
墓参も出来たこと。
 小山氏帰阪後の礼状の中に、故郷の水月庵の四代目の後継者がなく、無
住の庵になることの残念さを伝えて来たこと、などを聞くことが出来た。
 小山武蔵氏と連絡をとりたいと思って、或る全国紙の訪ね人欄に、大阪
の小山竹蔵氏とその縁故の人との連絡を求める広告を出した。
 間もなく、兵庫県朝来の弥兵衛の故郷からその子孫という小山偵之助氏
から連絡があり、それを機に弥兵衛についての資料は日毎に増えていった。

朝来郡和田山町の小山氏墓参に来島
 ついでその翌々年だったか、弥兵衛の故郷、朝来郡和田山町の小山家縁
故で、先の小山竹蔵氏の弟嫁足立八重さん、従弟小山吉之助氏、同じく小
山偵之助氏、そして水月庵七代庵主居相諒英尼と弟子の一行五人が、弥兵
衛が壱岐から出した手紙二通と小山家に伝わる口碑をまとめた一冊を持っ
て、来島された。
 こうした資料によって、弥兵衛の事蹟はより鮮明になっていった。
 それから、何年か経った頃、平尾氏の長男の奥さんという方の来訪を受
けた。
 福岡で仕事をしている御主人の病気が治らないので、占い師にいったと
ころ、故郷の無縁仏を供養するようにと言われ、帰ってこの弥兵衛の墓を
供養すると症状が消え、よくなって博多に来ると再び症状が出るといった
ことの繰り返しに、遂に意を決して暦応寺跡に居を構えて墓守りをするこ
とにしたが、この墓の由来を教えてくれとのことであった。

平尾氏夫妻壱岐島へ
 現在、平尾氏夫妻は弥兵衛供養の御堂と住居を併せた一戸を構え、自ら
も僧籍に入り朝夕の勤行をつとめながら、信仰の中に始めた鬼凧作りは今
や壱岐の民芸品として不動の地位を占め、その工房は観光コースにも組み
込まれている。
 ここを訪ねる縁故の人は、毎年のように誰かが訪ねて絶えることがない。
 このような平尾夫妻の深い信仰と献身的な奉仕によって弥兵衛の墓は守
られ、縁故の人たちは常に安堵の中に墓参の時を過ごしていかれる。

いま一つの機縁
 いま一つの機縁は京都の短大で学びながら余暇を画塾に通っていた娘
が、その画塾の先生の経営するデザイン事務所に勤めることになって、た
またま京都の時代祭りを先生の兄弟夫妻などを混えて見物中、話は問わず
語りに昔ばなしになる中で、その先生の弟嫁になる人が「うちのお姑さん
のご先祖に九州の壱岐という島に流された人がある…・・」と話し出し、
聞いていた娘は中学の頃父に連れられて度々拓本採りなど手伝わされたあ
のお墓のことではと思いだし、その話をしたところ早速お姑さんに伝わ
り、直接連絡もとれ明らかになったことは、このお姑さんは小山ミネとい
われ、先に大正十四年壱岐を訪れた小山竹蔵氏の末娘であった。
 まさに奇遇というほかはない。
 間もなく娘の案内で墓参のため来島され、そのあと、あの時代祭りの日
の子供たちと連れだって、或いはまた一人と二度、三度にわたって弥兵衛
の墓を訪ねられている。


今年(昭和62年)の五月
 今年の五月は十数年前、弥兵衛の故郷から最初に来島し、既に故人とな
った小山吉之助氏の長男小山松寿氏と二度目の来島となった水月庵主居相
諒英尼、そして心諒尼が仏門に入った桐葉庵現在桐葉寺住職中島随重尼と
小山松寿氏の従兄で現在佐賀市に住む藤原武氏夫妻の五人の墓参、この墓
参には、小山松寿氏に托して和田山町長から芦辺町長への感謝のメッセー
ジが届けられた。

七月
 ついで七月には、弥兵衛の故郷、現和田山町の東河小学校の三宅校長を
はじめ全職員が研修旅行として墓参した。
 これらの出会い、これらの交流それらひとつひとつが偶然の織りなす縁
なのですが、それにしても余りに出来すぎた出会いの数々に「不可思議」
を感じない訳にはいかない。
 弥兵衛の霊がこれらの出会いを仕掛けたのであろうか。


小山弥兵衛の戒名について、

遥かなり壱岐 流人小山弥兵衛と心諒尼の物語』の著者である
柴田東一郎先生より便りがありました。

吉祥院玄境了義居士(壱岐の墓標)吉祥院玄鏡了儀居士(野村の墓標)
のように2文字が異なっています。
 壱岐では、玄界灘と国境から意識されたもので、野村では全鏡を意識し
たものでしょう。しかし、壱岐から霊麟和尚直筆の位牌を持ちかえったと
しては不思議な気がします。なお水月庵にまつられている位牌の文字も壱
岐のものと1字違っているのですが、どちらだったか歴史館の資料を見な
いと分かりませんので、次回にします。・・」   (2001.3.14)

「水月庵の本堂にまつられている位牌の戒名は 
吉祥院玄鏡了義居士 
です。これも全鏡を意識したものと思います」   (2001.3.15)

     
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芦辺町・和田山町交流事業の主旨・内容

「野村の歴史・野村の昔と心諒尼」

交流事業1 ミュージカル心を繋ぐ子守唄」公演

交流事業2 法宝寺の「楠の曾孫生」の記念植樹

交流事業3 芦辺町議員団 和田山町訪問