壱岐の概観2
「壱岐」「いき・ゆき」の由来(『壱岐国史』他)
『魏志倭人伝』(3世紀頃)⇒一大国(一い支き国)
『古事記』(奈良時代・和銅5・712)⇒「伊伎島」・「天比登都柱・天一柱」
「(前略)次に伊伎島いきのしまを生みたまいき亦の名は
天比登都柱あめのひとつばしらと謂ふ。次に津島つしまを生
みたまいき。(後略)」
『日本書紀』(奈良時代・養老4・720)⇒「壱岐県いきのあがた」・「壱岐島」
『万葉集』(天平3・759)⇒「由吉能之麻・由岐島・伊吉島・伊岐・壱岐
・以祇・一岐・伊支・壱州」
十五巻「新羅へか、家にか帰る由吉の島…・・」
『和名類聚抄』⇒「由岐島」
『饅頭屋本節用集』⇒「壱岐」
『書紀継体巻』⇒「以祇」
神功皇后
(じんぐうこうごう)伝説
神功皇后⇒仲哀ちゅうあい天皇の皇后・応神おうじん天皇の母
『記・紀』の伝承⇒三韓(新羅・百済・高句麗)征伐物語
「皇后は、妊娠中、武内宿弥たけのうちのすくねとともに海を渡り、
三韓を降伏させて日本に帰る。
雷大臣いかつちのおおみかみも従軍後、百済に渡り、国を治める。
その後、対馬にとどまり、子孫は対馬や壱岐の卜部などの祖
となる。」
島内の神功皇后伝説
神功皇后伝説信仰は、玄海灘に面する各地に目立つ。
仲哀天皇・神功皇后・応神天皇を祭神とする神社が多い。
神功皇后伝説は、壱岐全体で40ほど挙げられるそうですが、
その一部を紹介します。
勝本浦の伝説
●聖母宮しょうもぐう⇒皇后出兵時の行宮あんぐう・境内に「馬蹄石ばていせき」
・壱岐七社・勝本浦総鎮守・祭神に仲哀天皇神功皇后
応神天皇もあり。
●「風本かざもと・勝本かつもと」の地名⇒皇后の船団がここの港で風待ち
時、つごうのよい風が吹く。
「この地を風本かざもとと名付けよ。」
又,凱旋時に
「勝利を祝って、この地を勝本かつもとと名付け
よ。」
●御幸船みゆきぶね⇒皇后の凱旋の時、歓迎のために二艘の船を仕立て
て、祝った。⇒聖母宮大祭に紅白の二艘の和船競漕
(フナグロ)があり、この船をミユキ舟という。
島内各地の伝説
●御手洗みたらい湾(勝本町本宮西触)⇒御手洗の柱石に船を繋ぐ。皇子出産
(応神天皇)・柄杓江の水をくみ、「たらい」をつかう。
⇒この入江をみたらいと呼ぶ。
●鎮懐石ちんかいせき(勝本町本宮西・本宮八幡宮⇔壱岐七社)⇒帰るまで生
まれないよう「腹」に納められていた石。
鎮懐石伝説は各地にある。
●湯ノ本温泉(勝本町湯ノ本)⇒応神天皇の産湯に使う。湯の色が赤い。
●御津みつの浜(郷ノ浦町半城大浦)⇒凱旋時、皇后が住吉大明神の先導によ
り着かれた浜。ここに住吉大明神を鎮座。神託により、波音
のしない現在地に移る。⇒住吉神社(芦辺町住吉東触・式内社
・壱岐七社)
●東風石こちいし(郷ノ浦町有安・爾時じじ神社境内・式内社)⇒縦3.9m横3.35m
高さ2.7m 周囲11.45m・皇后がこの巨石に順風祈願を
されると二つに割れて東風が吹く。後、朝鮮通信使
(1607以降)が順風祈願。
●鉢形山はちがたやま(郷ノ浦町物部田中触)円錐形の山の頂上に天手長男神社
⇒皇后凱旋後、異国退散の神霊を祭る。
天手長男神社 式内社 藩政下には壱岐一ノ宮として国中総社とす 鳥居三基 石段多数
●筒城浜つつきはまの伝説(石田町筒城)⇒出兵の途中、大風に遭い、船を着く。
筒城浜 右前方が七湊 左手奥に白沙八幡神社
(左前方浜辺の建物は海の家 8月24日夕方)
○錦浜にしきはま⇒筒城の七浜の一つ。皇后の上陸地。濡れた衣を干さ
れた。色とりどりの貝が採れる。⇔錦貝
○七湊ななみなと⇒皇后が、七浜の北の湊に七日間滞在。
○御手洗川みたらし⇒この浜に注ぐ川。皇后が手を洗われた。
●白沙はくさ八幡神社(石田町筒城浜・壱岐七社)⇒祭神仲哀天皇・神功皇后
・応神天皇
筒城浜に向って立つ第一鳥居 社殿は正面の森(社叢)にある(8.24)
○御掛けの石⇔拝殿の中に、皇后の「御掛けの石」という拝み石
がある。
○御飯川みけがわ⇔社前に湧き出る清水。皇后の御飯を炊いた。
○近くに、京水、夕部、鞍掛石
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